詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェームズ・マーシュ監督「博士と彼女のセオリー」(★★★★)

2015-03-15 21:35:46 | 映画
監督 ジェームズ・マーシュ 出演 エディ・レッドメインス、フェリシティ・ジョーンズ

 これは大胆な映画だ。ホーキング博士を描いているので、彼がどんなふうにしてブラックホールについての考えを発見していったか、がていねいに描かれるのかと思っていたら、まったく違っていた。ホーキングの理論は脇役である。
 私はホーキングの「略歴」というものを知らなかったのだが、この映画では「私生活」がていねいに描かれている。主役は学術的な「略歴」ではなく、「愛の略歴」。まだ生きているひとの「愛の略歴」をこんなに克明に描くということに驚いてしまった。
 うーん、これがイギリスなのか。イギリスのプライバシー感覚なのか。社会的に認知されている事実なら、その事実を踏み外さないかぎり、どこまで描いても大丈夫ということなのだろう。
 ホーキングは学生時代に知り合った女性と結婚する。彼女は、ホーキングが筋萎縮症であることを知っていて、結婚する。「余命2年」と言われたことも知っている。それでも愛しているから結婚する。子供も出産する。しかし、ホーキングの症状が重症化するとだんだん支えるのが苦しくなってくる。
 そこへ、二人を手助けする男性があらわれる。二人の家庭へ男性が入り込む。精神的な三角関係がはじまる。ホーキングの苦悩がはじまる。その苦悩を知ってなのだろうか、妻は三人目の子供を妊娠、出産することで、夫婦の絆を証明する。ところが周囲は、その三人目の子供をホーキングの子供ではなく、二人を支えている男性の子供と想像する。そのために妻と男性との精神的恋愛は破綻する。
 その後、女性の介護師が家庭に入り込み、ホーキングの世話をするようになる。そうすると、今度はホーキングと女性介護師の間に濃密な感情の交流がはじまる。新たな三角関係だ。介護師は介護の専門家なので、妻よりもホーキングとの交流がスムーズにゆく。介護師も、介護を通じてホーキングの人間性に触れ、愛に目覚めていく。これは、最初の妻が、物理の話を聞きながらホーキングの情熱に引き込まれて恋愛関係に落ちるのにとても似ている。
 とても複雑な「愛の略歴」、三つの愛が描かれるのだが、この描き方がとてもうまい。スムーズで、濃密で、しかもさりげない。なんだか矛盾した言い方になってしまうが、最初の愛と結婚、出産、それから男性が家庭に入り込み、まだ「三角関係」とまではいえない段階では(世間が妻と男性の肉体関係を疑わない段階では)、幸福なシーンがプライベートタッチで映像化されている。8ミリフィルムか手軽なビデオのようなラフな映像で、映像の美しさで見せるのではなく、そこにある「幸福」という事実をしっかりとつかみとる。男性は、つつましく、それに寄り添う。彼女の幸せが自分の幸せなのだと、自分の領分を守っている感じがなかなかいい。
 他方で、ホーキングのとまどい、同じ家庭に別の男性がいるということに対する悲しみのようなもの、ひそかな疑念のようなものは表情の細部がわかるようにきちんと映画用の映像として処理される。男性から、「妻が昨年死んで、寂しい」というような告白を聞くときの表情の変化がいい。いま、何が起きているのか、だれも言わないが、その言わない部分のこころのなかを知ってしまう悲しみ。ほとんど動かない演技、目や顔の血色(?)の変化で、エディ・レッドメインスが「心理」を浮き彫りにする。
 三つ目の恋愛、介護師と出会ってからのホーキングの表情の輝きもいい。それに対する妻の全身のこわばったような演技の対比もいい。介護師がホーキングにひかれていくときの、介護を忘れたような喜びの表情もいい。
 で、そういう演技とは別に、この二つ目と三つ目の恋愛の間に挟まったイギリスの風景の映像がすばらしい。ホーキングが気管支の切開手術を終えて、家に帰ってくる。車椅子に座って窓を見ている。そのとき、木が風に揺すられて、まるで動物のようになまなましく動く。あ、ここから新しい何かがはじまるということを、強く感じさせる。
 思い返すと、そのシーンだけではなく、何気ない風景、家の中の映像もすべてイギリスそのものの美しさにあふれている。食事のシーンや、ホーキングがひとりで階段を昇り降りするシーン、二階から子供がホーキングが階段をのぼってくるのを見ているシーン、さらにホーキングが博士論文の口頭試問を受けるシーンも、私の感覚ではイギリスそのもの。口頭試問のとき、教授が「座るか」と尋ねる。ホーキングは「立ったままでかまわない」と答える。それはイギリスの「流儀」なのだろうが、なんとも「個人主義的」。どのようなことも、その人が自分の責任で「やる」と言えば、それにまかせる。おせっかいはしない。そういう「強さ」があふれている。
 木が風でゆれるシーンは、イギリスでは木さえもが自分の「意思」で動いていると感じさせるのだ。
 映画では、何とも言っていないのだが、こういう「個人主義」を見ていると、ホーキングの予測している「ホーキング放射(ブラックホールから粒子が逃げ出す)」という理論さえ、理論が独自の意思で動いている、それはブラックホールの「個人主義」であり、ホーキングはたまたまそれに気がついたとでも言いたくなる。ブラックホールが語りかけてきた「個人主義的な声」をホーキングが聞いただけ、と言いたくなる。
 この日本では考えられないような「個人主義」の徹底が、たぶん、この映画のトーンを支えている。ホーキングの恋愛はホーキングが選び取ったもの。そして、それは結婚、子どもの誕生、離婚、再婚という形で「社会化」されている。その「事実」を変更しないかぎりは、それを描くのはまた「映画」の自由ということなのだろう。
                        (天神東宝5、2015年03月15日)




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嵯峨信之を読む(42)

2015-03-15 12:08:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
80 空に鳴る蝉車

 井戸から水を汲み上げる。多くの人が集まってきて、水を汲み上げては、その場に流す、という姿を描いている。一種の無意味な行為。

たえず井戸水を汲みあげながら たえずその場に水を流している
蝉車はひつきりなしにキイキイと鳴りつづける
水ははじめのうち私の足くびをなめ
しだいに膝を浸し 腹にまつわり とうとう胸までとどいた
水を汲みあげている大勢のひとが みな肩まで水に漬かつて
それでも水を汲みやめないので
ついに頭も水面下に消えてしまつた
水面下でもひとびとは忙(せわ)しく手を動かして 水を汲みあげている

 無意味であると同時に、理不尽、不可能なことをしている。汲み上げた水で、ひとが水に埋もれてしまう。ありえない。
 ありえないのだけれど、そういうことを「ことば」で考えることができる。「ことば」は、「日常」にはありえないことを描き出すことができる。
 嵯峨の「叙情詩」は美しく、「日向抒情歌」を読むと、嵯峨のふるさとをそのまま描いている(ふるさとで体験したことを書いている)と思ってしまう。「もの(風景)」があって、それを「ことば」で再現している、体験した感情が最初にあって、それ「ことば」で再現している、と思ってしまう。「ことば」はたしかに、「体験したこと/もの」をあらわすものなのかもしれないが、それだけが「ことば」の仕事ではない。
 体験したことを一度無へと解体し、そこからもう一度ことばだけで体験を再現し直す。そういうことばの純粋な運動にして、まだここにない何かをことばでつくり出し、それを考えるということもできる。この作品は、そういう詩である。
 井戸から水を汲み上げる。ここまでは「日常」としてありうる。その水をこぼす(捨てる)、ということもできる。そのあと、その水がどんどんたまってくる、というのは水を捨てる場所が狭い場合はおこりうる。広い場所でも、汲み上げ、捨てる水の量が多ければ、洪水のようにまわりが水浸しになるということはありうる。しかし、その水のかさが人をのみこむというのは「井戸」を想定すると現実には不可能かもしれない。けれど、「ことばの運動」そのものとしては考えることはできる。
 嵯峨は、ここでは「ことば」をつかって「考えている」。「想像している」。「思い」をつくり出しているのである。
 何を思い、どんな思想をつくり出そうとしているのか。

蝉車は空たかく登りキイキイ鳴りやまない
そして蝉車の鳴りきしる音は
はるかな空の彼方へだんだん遠ざかつた

 よくわからない。
 「蝉車」ということばを私は聞いたことがないが、釣瓶を釣り上げるための「滑車」をそう呼んでいるのだろう。釣瓶を引き上げるとき滑車がきしむ。音を立てる。高いところで鳴いている蝉のように……という思いが「蝉車」ということばになっているのかもしれない。
 この最後の三行は、それまでの詩のことばと違っている。それまでは「私」やまわりの人々を描いていたが、ここでは「蝉車」が描かれているが、人は描かれていない。あえていえば、「蝉車」の音が遠ざかるのを「聞いている」という動詞を補うことで、そこに「ひと(私)」を関係づけることができるが、そうしないかぎり、「ひと(私)」は存在しない。
 なぜ、嵯峨は、最後の三行で「ひと(私)」を省略してしまったのか。
 思い出すのは「蝉の歌ごえに乗つて」である。

そして空は遠のいたきりふたたび帰つて来ないだろう
それからぼくは蝉の歌ごえに乗つて
ついについに何処か遠いところへ行つてしまうだろう

 そこにも「蝉」が出てきた。その詩には「死」のイメージがつきまとっている。「蝉」は「死の彼方」へ飛んでいくように思える。その三行と、この詩の終わりの三行は重なり合う。「空」「遠ざかる」「蝉」ということばそのものも重なる。
 「空に鳴る蝉車」も「死」と結びつけて考えることができるかもしれない。
 人は死ぬ。死ぬために、あるいは死ぬまで、井戸から水を汲み上げて捨てるというような、何のためにしているのかはっきりとはわからないことをつづける、そういうふうに「人間」を、あるいは「生」というものを嵯峨は捉えているのかもしれない。
 嵯峨は「死」について、そして「生」について、「思い(思想/思念)」作ろうとしているのだと思う。
 「井戸」とは深いところにある水を地上に汲み上げるもの。詩人は「ことば」をつかって、詩人の肉体の奥にある「水(純粋な思念)」をこの世に汲み上げるひとのことを指しているかもしれない。その汲み上げた水をどんどん捨てる、捨てることで広げる。やがて、自分の「思念の水」に埋もれて死んでいく--そう嵯峨は考えているのかもしれない。そう考えるとき、「死」は絶望ではなく、生きてきた印、「生の到達点」になる。「到達」といっても、さらにその先があり、そこへ向けて「蝉」はさらに飛んで行く。「蝉」は詩人が汲み上げた「思念の水」が描き出す、「思念」そのものの可能性のことでもある。

81 碑銘

 「墓碑銘」のことか。ここにも「死」が動いている。

ぼくを解き放つはてに
終日(ひねもす)鴎が啼いている
冬の白い日が死の海を遠くまで照らしている
ときどき笹原の上を薄い雲のかげが通りすぎる
詩人ひとり葬るには
このようなしずかな砂浜がよい
たえず小さな波が斜めから走りよつて
たえず自らを自らの中に埋ずめつづける言葉の砂浜がよい

 「蝉」のかわりに「鴎」が登場している。
 そして、ここにはことばとしては直接的には書かれていないが「水」が存在している。「海」「波」ということばで。さらに、そこに「埋ずめる」という表現があるので、私はどうしても「空に鳴る蝉車」の、水に埋まってしまった「ひと」を思い出す。
 さらに、

たえず自らを自らの中に埋ずめつづける言葉

 とは、井戸から汲み上げつづけた水、水を汲み上げつづけるという運動を言いなおしたもののように感じる。
 二つの詩は、深いところで「同じ水脈」を生きていると感じる。
 さらに、「砂浜」から「漂流者」も思い出す。

そして時間も空間も人間もいないところで
魂をすつかり石で囲んで
その中から鳥か煙りのようにぼくを舞い上がらせよう

 「鳥」は「鴎」。そしてそれは「魂」の化身。
 海(水のひろがり)と空のひろがり。その間の陸地のひろがり。三つをつなぐ形で空の高みをめざす鳥(鴎=海の鳥/蝉=陸の鳥)。それは嵯峨のふるさとの「元風景」かもしれない。その風景をたよりに、嵯峨は、ことばで、「生」と「死」について考えつづけ、それを詩にしているのだろう。
 それも「たえず」である。「碑銘」の最後の二行に「たえず」は繰り返されている。そして「空に鳴る蝉車」でも「たえず井戸水を汲みあげながら たえずその場に水を流している」と「たえず」は繰り返される。「たえず」詩を書きつづける、詩にかかわりつづける--それが嵯峨の生き方なのだ。

                        (『愛と死の数え唄』、おわり)
嵯峨信之詩集 (1985年)
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破棄された詩のための注釈(11)

2015-03-15 01:10:33 | 
破棄された詩のための注釈(11)

「建物」は夕日が少しずつ去っていくグラウンドの隅にあった。立てかけた自転車の影が壁に斜めになって動いた。「建物」と呼ぶほどの大きさではないのだが、「建物の内部から」ということばを書きたくて「建物」ということばを選んだのだった。「建物の内部からはいくつかの繰り返される物音がした。そして建物の内部には消えることのない匂いがたまっていた。」

「建物」は人が見捨てた街の、最後の信号のある四つ角の右側にあった。扉のない階段があって、午後の日が差すと、そこに猫がうずくまる。猫がいるあいだはだれも階段をのぼらないが、いなくなると猫よりもひそやかな足が階段をのぼる。左手で壁をたどりながら歩くとき「世界が始まる。沈黙の合図のあと、世界が扉を開いて、むこうから近づいてくるみたいに。」

「建物」は、もうどこにもないのだが「四角い窓」が残っている。内側から外を眺めたことがあるならば、夜のなかから昼を眺めるように感じるに違いない。手摺りの高さに鉄橋があり、貨車が渡るとき、規則正しい音が川を渡ってくる。だれが住んでいたのか思い出そうと「振り返ると、怠惰なカーテンがつくりだす影の中で、どこにもないような青ざめた汗の輝きが揺れている。」

*

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