監督 ジェームズ・マーシュ 出演 エディ・レッドメインス、フェリシティ・ジョーンズ
これは大胆な映画だ。ホーキング博士を描いているので、彼がどんなふうにしてブラックホールについての考えを発見していったか、がていねいに描かれるのかと思っていたら、まったく違っていた。ホーキングの理論は脇役である。
私はホーキングの「略歴」というものを知らなかったのだが、この映画では「私生活」がていねいに描かれている。主役は学術的な「略歴」ではなく、「愛の略歴」。まだ生きているひとの「愛の略歴」をこんなに克明に描くということに驚いてしまった。
うーん、これがイギリスなのか。イギリスのプライバシー感覚なのか。社会的に認知されている事実なら、その事実を踏み外さないかぎり、どこまで描いても大丈夫ということなのだろう。
ホーキングは学生時代に知り合った女性と結婚する。彼女は、ホーキングが筋萎縮症であることを知っていて、結婚する。「余命2年」と言われたことも知っている。それでも愛しているから結婚する。子供も出産する。しかし、ホーキングの症状が重症化するとだんだん支えるのが苦しくなってくる。
そこへ、二人を手助けする男性があらわれる。二人の家庭へ男性が入り込む。精神的な三角関係がはじまる。ホーキングの苦悩がはじまる。その苦悩を知ってなのだろうか、妻は三人目の子供を妊娠、出産することで、夫婦の絆を証明する。ところが周囲は、その三人目の子供をホーキングの子供ではなく、二人を支えている男性の子供と想像する。そのために妻と男性との精神的恋愛は破綻する。
その後、女性の介護師が家庭に入り込み、ホーキングの世話をするようになる。そうすると、今度はホーキングと女性介護師の間に濃密な感情の交流がはじまる。新たな三角関係だ。介護師は介護の専門家なので、妻よりもホーキングとの交流がスムーズにゆく。介護師も、介護を通じてホーキングの人間性に触れ、愛に目覚めていく。これは、最初の妻が、物理の話を聞きながらホーキングの情熱に引き込まれて恋愛関係に落ちるのにとても似ている。
とても複雑な「愛の略歴」、三つの愛が描かれるのだが、この描き方がとてもうまい。スムーズで、濃密で、しかもさりげない。なんだか矛盾した言い方になってしまうが、最初の愛と結婚、出産、それから男性が家庭に入り込み、まだ「三角関係」とまではいえない段階では(世間が妻と男性の肉体関係を疑わない段階では)、幸福なシーンがプライベートタッチで映像化されている。8ミリフィルムか手軽なビデオのようなラフな映像で、映像の美しさで見せるのではなく、そこにある「幸福」という事実をしっかりとつかみとる。男性は、つつましく、それに寄り添う。彼女の幸せが自分の幸せなのだと、自分の領分を守っている感じがなかなかいい。
他方で、ホーキングのとまどい、同じ家庭に別の男性がいるということに対する悲しみのようなもの、ひそかな疑念のようなものは表情の細部がわかるようにきちんと映画用の映像として処理される。男性から、「妻が昨年死んで、寂しい」というような告白を聞くときの表情の変化がいい。いま、何が起きているのか、だれも言わないが、その言わない部分のこころのなかを知ってしまう悲しみ。ほとんど動かない演技、目や顔の血色(?)の変化で、エディ・レッドメインスが「心理」を浮き彫りにする。
三つ目の恋愛、介護師と出会ってからのホーキングの表情の輝きもいい。それに対する妻の全身のこわばったような演技の対比もいい。介護師がホーキングにひかれていくときの、介護を忘れたような喜びの表情もいい。
で、そういう演技とは別に、この二つ目と三つ目の恋愛の間に挟まったイギリスの風景の映像がすばらしい。ホーキングが気管支の切開手術を終えて、家に帰ってくる。車椅子に座って窓を見ている。そのとき、木が風に揺すられて、まるで動物のようになまなましく動く。あ、ここから新しい何かがはじまるということを、強く感じさせる。
思い返すと、そのシーンだけではなく、何気ない風景、家の中の映像もすべてイギリスそのものの美しさにあふれている。食事のシーンや、ホーキングがひとりで階段を昇り降りするシーン、二階から子供がホーキングが階段をのぼってくるのを見ているシーン、さらにホーキングが博士論文の口頭試問を受けるシーンも、私の感覚ではイギリスそのもの。口頭試問のとき、教授が「座るか」と尋ねる。ホーキングは「立ったままでかまわない」と答える。それはイギリスの「流儀」なのだろうが、なんとも「個人主義的」。どのようなことも、その人が自分の責任で「やる」と言えば、それにまかせる。おせっかいはしない。そういう「強さ」があふれている。
木が風でゆれるシーンは、イギリスでは木さえもが自分の「意思」で動いていると感じさせるのだ。
映画では、何とも言っていないのだが、こういう「個人主義」を見ていると、ホーキングの予測している「ホーキング放射(ブラックホールから粒子が逃げ出す)」という理論さえ、理論が独自の意思で動いている、それはブラックホールの「個人主義」であり、ホーキングはたまたまそれに気がついたとでも言いたくなる。ブラックホールが語りかけてきた「個人主義的な声」をホーキングが聞いただけ、と言いたくなる。
この日本では考えられないような「個人主義」の徹底が、たぶん、この映画のトーンを支えている。ホーキングの恋愛はホーキングが選び取ったもの。そして、それは結婚、子どもの誕生、離婚、再婚という形で「社会化」されている。その「事実」を変更しないかぎりは、それを描くのはまた「映画」の自由ということなのだろう。
(天神東宝5、2015年03月15日)
*
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これは大胆な映画だ。ホーキング博士を描いているので、彼がどんなふうにしてブラックホールについての考えを発見していったか、がていねいに描かれるのかと思っていたら、まったく違っていた。ホーキングの理論は脇役である。
私はホーキングの「略歴」というものを知らなかったのだが、この映画では「私生活」がていねいに描かれている。主役は学術的な「略歴」ではなく、「愛の略歴」。まだ生きているひとの「愛の略歴」をこんなに克明に描くということに驚いてしまった。
うーん、これがイギリスなのか。イギリスのプライバシー感覚なのか。社会的に認知されている事実なら、その事実を踏み外さないかぎり、どこまで描いても大丈夫ということなのだろう。
ホーキングは学生時代に知り合った女性と結婚する。彼女は、ホーキングが筋萎縮症であることを知っていて、結婚する。「余命2年」と言われたことも知っている。それでも愛しているから結婚する。子供も出産する。しかし、ホーキングの症状が重症化するとだんだん支えるのが苦しくなってくる。
そこへ、二人を手助けする男性があらわれる。二人の家庭へ男性が入り込む。精神的な三角関係がはじまる。ホーキングの苦悩がはじまる。その苦悩を知ってなのだろうか、妻は三人目の子供を妊娠、出産することで、夫婦の絆を証明する。ところが周囲は、その三人目の子供をホーキングの子供ではなく、二人を支えている男性の子供と想像する。そのために妻と男性との精神的恋愛は破綻する。
その後、女性の介護師が家庭に入り込み、ホーキングの世話をするようになる。そうすると、今度はホーキングと女性介護師の間に濃密な感情の交流がはじまる。新たな三角関係だ。介護師は介護の専門家なので、妻よりもホーキングとの交流がスムーズにゆく。介護師も、介護を通じてホーキングの人間性に触れ、愛に目覚めていく。これは、最初の妻が、物理の話を聞きながらホーキングの情熱に引き込まれて恋愛関係に落ちるのにとても似ている。
とても複雑な「愛の略歴」、三つの愛が描かれるのだが、この描き方がとてもうまい。スムーズで、濃密で、しかもさりげない。なんだか矛盾した言い方になってしまうが、最初の愛と結婚、出産、それから男性が家庭に入り込み、まだ「三角関係」とまではいえない段階では(世間が妻と男性の肉体関係を疑わない段階では)、幸福なシーンがプライベートタッチで映像化されている。8ミリフィルムか手軽なビデオのようなラフな映像で、映像の美しさで見せるのではなく、そこにある「幸福」という事実をしっかりとつかみとる。男性は、つつましく、それに寄り添う。彼女の幸せが自分の幸せなのだと、自分の領分を守っている感じがなかなかいい。
他方で、ホーキングのとまどい、同じ家庭に別の男性がいるということに対する悲しみのようなもの、ひそかな疑念のようなものは表情の細部がわかるようにきちんと映画用の映像として処理される。男性から、「妻が昨年死んで、寂しい」というような告白を聞くときの表情の変化がいい。いま、何が起きているのか、だれも言わないが、その言わない部分のこころのなかを知ってしまう悲しみ。ほとんど動かない演技、目や顔の血色(?)の変化で、エディ・レッドメインスが「心理」を浮き彫りにする。
三つ目の恋愛、介護師と出会ってからのホーキングの表情の輝きもいい。それに対する妻の全身のこわばったような演技の対比もいい。介護師がホーキングにひかれていくときの、介護を忘れたような喜びの表情もいい。
で、そういう演技とは別に、この二つ目と三つ目の恋愛の間に挟まったイギリスの風景の映像がすばらしい。ホーキングが気管支の切開手術を終えて、家に帰ってくる。車椅子に座って窓を見ている。そのとき、木が風に揺すられて、まるで動物のようになまなましく動く。あ、ここから新しい何かがはじまるということを、強く感じさせる。
思い返すと、そのシーンだけではなく、何気ない風景、家の中の映像もすべてイギリスそのものの美しさにあふれている。食事のシーンや、ホーキングがひとりで階段を昇り降りするシーン、二階から子供がホーキングが階段をのぼってくるのを見ているシーン、さらにホーキングが博士論文の口頭試問を受けるシーンも、私の感覚ではイギリスそのもの。口頭試問のとき、教授が「座るか」と尋ねる。ホーキングは「立ったままでかまわない」と答える。それはイギリスの「流儀」なのだろうが、なんとも「個人主義的」。どのようなことも、その人が自分の責任で「やる」と言えば、それにまかせる。おせっかいはしない。そういう「強さ」があふれている。
木が風でゆれるシーンは、イギリスでは木さえもが自分の「意思」で動いていると感じさせるのだ。
映画では、何とも言っていないのだが、こういう「個人主義」を見ていると、ホーキングの予測している「ホーキング放射(ブラックホールから粒子が逃げ出す)」という理論さえ、理論が独自の意思で動いている、それはブラックホールの「個人主義」であり、ホーキングはたまたまそれに気がついたとでも言いたくなる。ブラックホールが語りかけてきた「個人主義的な声」をホーキングが聞いただけ、と言いたくなる。
この日本では考えられないような「個人主義」の徹底が、たぶん、この映画のトーンを支えている。ホーキングの恋愛はホーキングが選び取ったもの。そして、それは結婚、子どもの誕生、離婚、再婚という形で「社会化」されている。その「事実」を変更しないかぎりは、それを描くのはまた「映画」の自由ということなのだろう。
(天神東宝5、2015年03月15日)
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