山本純子「ハイどうぞ」、和田まさ子「寄りかからない」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)
山本純子「ハイどうぞ」はとても簡単な(?)詩である。読んですぐに情景が浮かぶ。でも、その詩のどの行に感心したのか、感心しながら何を考えたのかを書こうとすると難しい。書かなければいいのかもしれないけれど、私は、書きたい。
砂時計で歯磨きの時間を計っている。しっかり3分間(?)みがきなさい、ということか。その砂時計を見ながら砂漠を空想している。そういう子どもの詩。子どもの気持ちを書いた詩。子どもの気持ちなので、山本の気持ちではない。いわば、嘘。嘘なのに、そこに「真実」をみつけて感動する。
では、その「真実」って、どこにある? なぜ、それが「真実」と言える?
こんなふうに考えると、うーん、難しくなるなあ。ややこしくなるなあ。
砂時計の砂を見ながら、その砂が増えて砂漠になったらというのは、空想。その空想のなかにある「真実」は砂漠には砂が多いということかな。でも、それが「真実」だとしても、それは、あ、子どもらしい空想だなあと感心するのであって、詩の「真実」とは少し違うかもしれない。ここは子どもらしさの証明(?)であって、それがうまく働いているとしたら、嘘が、とても上手くできているということで「真実」とは違うなあ……。
それからつづくオアシス、ヤシの木も空想なんだけれど、
ここは、どう?
私は「ゆっくり」にとても感心したのだ。「ゆっくり」歯を磨く。この「ゆっくり」は「時間」のゆっくりではないなあ。だいたい砂時計で時間を計るのは、早く歯を磨いてしまう(時間不足/ていねいさに欠ける)のを防ぐためで、それは「ゆっくり」歯を磨くための砂時計だ。
「ゆっくり」歯を磨くというのは、子どものしていることとは矛盾している。子どもはいつも「ゆっくり(ていねいに)」歯を磨きなさいとママから言われている。さっさとすませたいのにママが許さない。だから「ゆっくり」歯を磨こうというのは、子どもの気持とは矛盾しているはずである。
けれど、その「矛盾」が、いま、突然、ここに出てきた。そして矛盾しているからこそ、そこに「真実」がある。矛盾でしか言えない「ほんとう」がある。
ここの「ゆっくり」は「時間」の「ゆっくり」ではない、別の「ゆっくり」なのだ。
それは「気持ち」の「ゆっくり」である。砂時計の時間よりも短いかもしれないけれど、「ゆっくり」というのは、あるのだ。
その「ゆんくり」はどんな「ゆっくり」? 「気持ち」の「ゆっくり」って、いうのは簡単だが、どんなこと?
山本は、「ゆっくり」ということばの前に、きちんと書いている。
これはしかし、ほんとうに「月が/天のまんなかにくるまで」ということを意味しているのではない。時間の長さを指しているのではない。だいたい月が天の真ん中まで来るのは、砂漠のことは知らないが、日本でいえば冬の満月くらいだ。寒天の月は空の真ん中に輝くが、夏の月なんかは低いところにあって天の真ん中へ来ないからね。
だから、この「月が/天のまんなかにくるまで」も「時間の経過」とは無関係の「ゆっくり」である。あ、月が天の真ん中にある、と気づいて放心する「ゆっくり」である。山本には天空の月を見て、あ、きれいだなあ、あんな高いところにあるなあと時間を忘れた経験があるのだろう。その経験(肉体がおぼえていること)が、「ゆっくり」のなかにある。
「時間を忘れて」、つまり「いまを忘れて」が「ゆっくり」なのだ。「いまを忘れる」から、それは「永遠」にいる、ということなのだ。ここに「永遠」があるから、詩と感じるのだ。
「時間を忘れる」の「忘れる」という「動詞」が「肉体」のなかで動く。そのときの感じを、私は、無意識のうちに共有する。その「忘れる」に私の「肉体」を重ねる。そして、納得している。「忘我」、「無」の状態で、私が「宇宙」に広がっていく。「忘我」の瞬間、「私」と「宇宙」を区切る何かが「無」になる。それが「永遠」であり、この瞬間が、詩なのだ。
*
和田まさ子「寄りかからない」は、詩の半分を過ぎたところの数行がとてもおもしろい。「春の木を過ぎる/風が来ても木は揺らいだりはしない/木には木の論理がある」と断定した後、
ジムの窓ガラス(ガラスの曇り)、人の息の関係が、「走る人」によって明確になる。走ると息が熱くなる。熱い息がガラスを曇らせる。そういうことを和田は「肉体」として知っている。和田はジムのなかで走っているわけではなく、外からそれを見ているのだが、「肉体」はジムの内部で起きていることを「おぼえている」。この「おぼえている」があるので、そのあとの「ゴールのない試合に/人を立たせている」が他人の風景なのに、自分の「肉体」の「いま」として重なっている。
こういう「動詞」を中心にした「肉体」の「記憶」と「意識の動き(意識の覚醒/発見)」が「人間のことばの論理」であるように、私には思える。「木には木の論理がある」と和田は書いているが、「人間のことば」には「人間のことば」の「論理」がある。それは「肉体(動詞)」のなかを動いて「真実」を共有するという「論理」である。
*
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
山本純子「ハイどうぞ」はとても簡単な(?)詩である。読んですぐに情景が浮かぶ。でも、その詩のどの行に感心したのか、感心しながら何を考えたのかを書こうとすると難しい。書かなければいいのかもしれないけれど、私は、書きたい。
ハイどうぞ って
ママが ひっくりかえした
砂時計
へっていく砂を見るより
ふえていく砂を見ていよう
わたしの
歯をみがいている時間が
砂のようにたまっていくなら
いつか
小さな砂ばくができて
オアシスがあらわれ
そこに
ヤシの木なんか
生えるかもしれない
そしたら
オアシスの水を
コップにすくい
ヤシの木にもたれて
月が
天のまんなかにくるまで
ゆっくり
歯をみがこう
と おもう
砂時計で歯磨きの時間を計っている。しっかり3分間(?)みがきなさい、ということか。その砂時計を見ながら砂漠を空想している。そういう子どもの詩。子どもの気持ちを書いた詩。子どもの気持ちなので、山本の気持ちではない。いわば、嘘。嘘なのに、そこに「真実」をみつけて感動する。
では、その「真実」って、どこにある? なぜ、それが「真実」と言える?
こんなふうに考えると、うーん、難しくなるなあ。ややこしくなるなあ。
砂時計の砂を見ながら、その砂が増えて砂漠になったらというのは、空想。その空想のなかにある「真実」は砂漠には砂が多いということかな。でも、それが「真実」だとしても、それは、あ、子どもらしい空想だなあと感心するのであって、詩の「真実」とは少し違うかもしれない。ここは子どもらしさの証明(?)であって、それがうまく働いているとしたら、嘘が、とても上手くできているということで「真実」とは違うなあ……。
それからつづくオアシス、ヤシの木も空想なんだけれど、
月が
天のまんなかにくるまで
ゆっくり
歯をみがこう
ここは、どう?
私は「ゆっくり」にとても感心したのだ。「ゆっくり」歯を磨く。この「ゆっくり」は「時間」のゆっくりではないなあ。だいたい砂時計で時間を計るのは、早く歯を磨いてしまう(時間不足/ていねいさに欠ける)のを防ぐためで、それは「ゆっくり」歯を磨くための砂時計だ。
「ゆっくり」歯を磨くというのは、子どものしていることとは矛盾している。子どもはいつも「ゆっくり(ていねいに)」歯を磨きなさいとママから言われている。さっさとすませたいのにママが許さない。だから「ゆっくり」歯を磨こうというのは、子どもの気持とは矛盾しているはずである。
けれど、その「矛盾」が、いま、突然、ここに出てきた。そして矛盾しているからこそ、そこに「真実」がある。矛盾でしか言えない「ほんとう」がある。
ここの「ゆっくり」は「時間」の「ゆっくり」ではない、別の「ゆっくり」なのだ。
それは「気持ち」の「ゆっくり」である。砂時計の時間よりも短いかもしれないけれど、「ゆっくり」というのは、あるのだ。
その「ゆんくり」はどんな「ゆっくり」? 「気持ち」の「ゆっくり」って、いうのは簡単だが、どんなこと?
山本は、「ゆっくり」ということばの前に、きちんと書いている。
月が
天のまんなかにくるまで
これはしかし、ほんとうに「月が/天のまんなかにくるまで」ということを意味しているのではない。時間の長さを指しているのではない。だいたい月が天の真ん中まで来るのは、砂漠のことは知らないが、日本でいえば冬の満月くらいだ。寒天の月は空の真ん中に輝くが、夏の月なんかは低いところにあって天の真ん中へ来ないからね。
だから、この「月が/天のまんなかにくるまで」も「時間の経過」とは無関係の「ゆっくり」である。あ、月が天の真ん中にある、と気づいて放心する「ゆっくり」である。山本には天空の月を見て、あ、きれいだなあ、あんな高いところにあるなあと時間を忘れた経験があるのだろう。その経験(肉体がおぼえていること)が、「ゆっくり」のなかにある。
「時間を忘れて」、つまり「いまを忘れて」が「ゆっくり」なのだ。「いまを忘れる」から、それは「永遠」にいる、ということなのだ。ここに「永遠」があるから、詩と感じるのだ。
「時間を忘れる」の「忘れる」という「動詞」が「肉体」のなかで動く。そのときの感じを、私は、無意識のうちに共有する。その「忘れる」に私の「肉体」を重ねる。そして、納得している。「忘我」、「無」の状態で、私が「宇宙」に広がっていく。「忘我」の瞬間、「私」と「宇宙」を区切る何かが「無」になる。それが「永遠」であり、この瞬間が、詩なのだ。
*
和田まさ子「寄りかからない」は、詩の半分を過ぎたところの数行がとてもおもしろい。「春の木を過ぎる/風が来ても木は揺らいだりはしない/木には木の論理がある」と断定した後、
スポーツジムの大きなガラスから見える走る人
薄くざらついた人々の吐息で
室内の熱気がガラスをしめっぽくさせ
ゴールのない試合に
人を立たせている
ジムの窓ガラス(ガラスの曇り)、人の息の関係が、「走る人」によって明確になる。走ると息が熱くなる。熱い息がガラスを曇らせる。そういうことを和田は「肉体」として知っている。和田はジムのなかで走っているわけではなく、外からそれを見ているのだが、「肉体」はジムの内部で起きていることを「おぼえている」。この「おぼえている」があるので、そのあとの「ゴールのない試合に/人を立たせている」が他人の風景なのに、自分の「肉体」の「いま」として重なっている。
こういう「動詞」を中心にした「肉体」の「記憶」と「意識の動き(意識の覚醒/発見)」が「人間のことばの論理」であるように、私には思える。「木には木の論理がある」と和田は書いているが、「人間のことば」には「人間のことば」の「論理」がある。それは「肉体(動詞)」のなかを動いて「真実」を共有するという「論理」である。
ふふふ (ジュニアポエムシリーズ) | |
山本 純子 | |
銀の鈴社 |
なりたいわたし | |
和田 まさ子 | |
思潮社 |
*
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。