詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「漂流するもの」

2015-03-23 10:06:36 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「漂流するもの」(「短歌と詩、その相似と相違について」日本現代詩人会ゼミナールin福岡、2015年03月21日)

 北川朱実「漂流するもの」は、日本現代詩人会ゼミナールin福岡「短歌と詩、その相似と相違について」(2015年03月21日)の資料テキストに書かれたもの。笹井宏之の短歌「わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒」に触発されて書いたと言う。

海岸にすわって
地球儀を回し続けている

時折
大きな波があらわれ

書き割りみたいなアジアの港を
竜巻が渡っていく

夏が
しずくをこぼして
すぽんと抜け落ちた

手に残った
アイスキャンディの当たり棒が
地球のどこかに流れ着き

未知の生物となって
硬く光っている

そんなふうに
どこかで元気にしている
と思いたい人がいる

松林の向う
扉の開いた冷蔵庫、洗濯機
タイヤのない車

山となった廃品の上に
虹が降りている

 ゼミナールに参加していた東直子が「視界が太平洋のような大きなところへ広がっていく。気持ちがいい詩」というような感想を語った。
 いろいろおもしろいところがある。少しずつ、書いてみる。

海岸にすわって
地球儀を回し続けている

 これは、実際に地球儀を回しているわけではない。想像力のなかで地球儀を回している。笹井の書いた「綿菓子の棒」がどこから流れ着いたのか、と考えるときに、日本のどこか(隣の街、隣の県)という具合に想像したのではない。島崎藤村の「椰子の実」のように、どこか知らないところ、かけ離れた場所を思い描こうとした。
 この「かけ離れた」感じは、たぶん、笹井の「綿菓子の棒」が「海岸に流れ着く」という日常では想像しないようなこと(日常とかけ離れた想像)と関連している。祭りか何かで食べられて、そのまま道端に捨てられた棒。それが海に流れ着く、というようなことはひとは想像しない。海岸の棒(ごみ)を見て、綿菓子の棒を想像する人もめったにいないだろう。
 笹井の短歌は日常を描いているようで日常からかけ離れている。手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いである。いわば、現代詩。そのかけ離れたものを結びつける想像力に刺戟されて、北川は、その想像力のベクトルを延長させている。
 どこかを想像するとき、いきなり具体的な土地、風景を思い浮かべるのではなく、地球儀を思い浮かべ、それを頭のなかで回している。これだとほんとうに空想になってしまうのだが、

時折
大きな波があらわれ

 と、いま座っている海岸にも押し寄せる「大きな波」という「現実」を描くことで、空想を現実に引き寄せる。「大きな波」も空想かもしれないけれど、「地球儀」の中の海岸とは違って、いま/ここにありうる「実在」。「海岸」が実在であるように「大きな波」も実在。それは北川にとってだけではなく、この詩を読むときに読者が感じる実在でもある。自分の見た「大きな波」がそこにある。「肉体」としての「大きな波」。「肉体」がおぼえている「大きな波」。
 そういうものを、また北川は、想像力で破壊する。

書き割りみたいなアジアの港を
竜巻が渡っていく

 北川が実際に「アジアの港を/竜巻が渡っていく」のを見たことがあるかどうかは知らない。私は見たことがない。けれど、その描写の前に「書き割りみたいな」ということばがあるので、これは「地球儀」に通じるような「想像力で何かを体験するための便宜」のようなものだと想像する。北川はアジアの港の竜巻を体験していない。想像力で思い描いている。その想像力を共有したような気持ちになる。これが「上海の港」や「シンガポールの港」だと、簡単にその土地を共有できない。「竜巻が渡っていく」を思い描けない。「地球儀」のように「半分」抽象的だから、その想像力を共有できる。
 この具体と抽象のかきまぜ具合が、北川は、とてもうまい。

夏が
しずくをこぼして
すぽんと抜け落ちた

 これは、どう思い描いていいのか、わかるようなわからないようなイメージ。わからないことばは何ひとつないが、実際にはどういうことか、わからない。わからないのだけれど、つまり、自分のことばで言いなおすことはできないのだけれど、ことばそのものがわかるので、想像力が引っぱられる。
 北川が書いていることをもっとよく見たい。実感したい、と思っていると、
 ほら、

手に残った
アイスキャンディの当たり棒が

 だれもが知っていること、「肉体」でおぼえている「具体的なこと」があらわれる。
 北川は、あくまでだれもが体験したことのある「日常」(肉体)を動かすことで、「想像力」が暴走して「空想」や「抽象」になってしまうのを引き止める。
 引き止めながら、その引き止めた「日常(肉体)」を土台にして、あるいはバネにして、さらに想像力を飛躍させる。この往復のスピードが軽くて、いいなあ。大胆だなあ。

手に残った
アイスキャンディの当たり棒が
地球のどこかに流れ着き

未知の生物となって
硬く光っている

 「アイスキャンディの当たり棒」が「未知の生物とな」るわけはないのだから、この「未知の生物」というのは「比喩」である。人を驚かす何かになって、くらいのことだろう。
 ここでは北川は、笹井の書いている「綿菓子の棒」を「アイスキャンディの棒」と言い換えることで、そういうものが世界にはたくさんあると告げている。捨てられ、忘れられたものが、ある日、想像力を刺戟してくる何かにかわって、輝いて見える。そういうものはたくさんあるはずだ。
 笹井も、「あ、これは綿菓子の棒だ」と思ったとき、それは単なる「綿菓子の棒」ではなく、意思をもって何かを伝えようと輝いているように見えたに違いない。「綿菓子の棒」を生きることで、笹井のなかの何かが光りはじめたのだ。
 同じことを北川は体験している。笹井のことばを追うことで、そして「綿菓子の棒」を「アイスキャンディの棒」と言いなおすことで、自分自身の体験として共有している。
 このあと、この詩のもっともおもしろい行が書かれる。北川のことばが独自に輝きだす。

そんなふうに
どこかで元気にしている
と思いたい人がいる

 椅子から飛び上がって、走り回りたいほど興奮するなあ。
 「元気にしている」って、だれが? アイスキャンディの棒が? 私はまっさきにアイスキャンディの棒が海辺できらきら輝いているのを想像し、それを拾いあげる自分の姿も想像したのだけれど、アイスキャンディの棒って「元気」と関係ある? いや、その前に「未知の生物」と書かれているから、比喩としては生物になっているのだけれど……。
 でも、こんなことは「屁理屈」だからどうでもいい。
 「元気にしている」のは「アイスキャンディの棒」でなければならない、と私は思い、興奮する。近くの海へ元気なアイスキャンディの棒をさがしに行きたい気持ちになった。
 そのあと、

と思いたい人がいる

 「思いたい人」っだれ? いやそれよりも、この「思いたい」は何? 「思う人」なら単純(とはいえないかもしれないけれど)。たとえば「アイスキャンディの棒が元気にしている」と私は北川のことばに誘われて「思った」。だから、もしその一行が「と思う人がいる」なら、「それは私」と簡単に言える。笹井も北川も「思った」人に違いない。「思った」から書いたのだ。
 でも、「思いたい人」なのだ、北川が書いているのは。
 そして、その「思いたい人」ということばに出会ったとき、私は「思う人」ではなく「思いたい人」そのものになった。私は海岸に流れ着いたアイスキャンディの棒が元気に生きていると「思う」のではなく、「思いたい」のだ。
 欲望がうまれた。感情が、北川のことばによって生まれた。発見された。
 この瞬間が詩だ。

 詩は感情を描くのではない。感情をつくりだすのだ。体験を描くのではない。体験を新たしくつくりだすのだ。そして、そのことばのなかで、読者は(作者もそうだろうけれど)、生まれ変わる。新しく生まれる。

 だれもが何かを「思いたい」。「思う」だけではなく、その「思い」を超えた何かを「思いたい」。思うことで生まれ変わりたい。
 笹井が「わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒」と書いたとき、「わたしがし(の棒)であったことなど知」らないで、ただ海岸に流れ着いた何かであってほしいと、笹井は「綿菓子の棒」に思ってもらいたい、そして笹井自身がそう「思いたい」のだ。そう「思いたい」から、そう書いたのだ。
 「思いたい人」は笹井なのだ。
 そして、その笹井をそんなふうに書く北川も「思いたい人」であり、この詩を読み、感動するとき、読者もまた「思いたい人」になる。
 「思いたい人」のなかで、だれもが重なり合う。「共有」ではなく、「共生」だ。あることばを通して、作者と読者がともに生きる。これが詩なんだなあ、文学なんだなあ。
 こんなおもしろいことを書く人には、もっともっと生きていてもらいたい、とも私は思う。笹井はもう死んでいる。でも、そのことばは、歌集のなかで生きている。そのことばには、もっともっと「元気」に生き続けると、私は「思いたい」。そんな「思いたい」も重なる。

 このあと、詩は静かに閉じていく。

松林の向う
扉の開いた冷蔵庫、洗濯機
タイヤのない車

山となった廃品の上に
虹が降りている

 「綿菓子の棒」も「アイスキャンディの棒」も廃品、ごみ。でも、その廃品も、それぞれ私たちの肉体とかかわった「いのち」。あるいは「いきもの」。少し視点を変えてみれば、そこから笹井の書いたよう、そして北川の書いたような詩(虹)が立ち上がってくるかもしれない。

ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
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破棄された詩のための注釈(16) 

2015-03-23 01:11:40 | 
破棄された詩のための注釈(16) 

「車止めの杭を挿すための穴」ということばがあった。そのことばに接続して、「鉄の半パイプ」が埋まってる。いや、「半パイプ」のなかにいちど引き込んだ沈黙が、積みかさなって、だんだん「半パイプ」の縁からあふれようとしている。「受話器」という比喩が突然やってきて、「つかわれなくなったことば」をこだまさせながら、その一番深いところ、つまり「底」に埋めるように主張した。「電話の声を聞いたのは、一時間前なのか、きのうなのか、一億年後のことなのか。」

抜かれて、そばに転がされている車止めは、受話器がつれてきた奇妙な回線のかわりに「断ち切られた悲しみ」ということばを、自分の足元に、斜めに広げたかった。公園の入口の街灯が生み出す影のように。「人間のものではない悲しみの黒を四角い形で草の上に伸ばしているのが見えた」。そう書いたあと、「悲しみ」という文字を傍線で消した。その細い傍線の形で雨が降るのは、三日後である。



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