詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『あるくことば』(2)

2018-09-02 16:23:29 | 詩集
松岡政則『あるくことば』(2)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 「島のくらし」に美しい一行がある。

ひとの目、というよりも土地そのものにみられている

 「土地」が松岡を見ている。「土地」に松岡は見つめられている。これは島では人と土地が一体になっているということか。
 というよりも。
 「土地」から、ある瞬間瞬間に「人」があらわれるということだろうなあ。人は「土地」から生まれるというが、ある瞬間瞬間に、人が生まれてくるのだ。
 人だけではない。

地蔵堂そばの樟の巨木
そこからまっ黒な夜がはじまる

 土地から樟が生まれてくる。生えてくる。これは自然の力。けれど、その一本の木が樟になるというとき、そこには自然の力が働いているだけではない。
 松岡が樟を見る。そのとき樟は生えてる。生まれてくる。そしてあっと言う間に巨木になる。「そこからまっ黒な夜がはじまる」と松岡は書いているが、松岡が一本の木を見つめ、それが樟であるとわかる、巨木であると知るとき、その瞬間に世界が「はじまる」。そして、その世界によって松岡自身がとらえ直される。松岡もまた「生まれ」、そこから松岡が「はじまる」。

炎昼だろうがのぼりたくなる坂道だ
デッパリを斫り落として
石のツラを作っているのがいる
からだの使いかたがどこか父のそれと重なる
       (注・「斫り落とす」の「斫」を松岡は石ヘンに「斥」と書いている。
          私のワープロはその文字を持たないので代用した。)

 「はじまる」は「重なる」と言う形で言いなおされている。復習されている、というべきか。復習される、言い直し、自分の肉体をそこにあるものに重ねるとき、世界が始まる。
 この詩では、実際に父の姿と「重なる」のは「石のツラをつくっている(人/男)」だが、その「重なり」を意識するとき、そこには松岡の「肉体」も重なる。重なりを松岡は自分自身の肉体で復習している。復習したからこそ「重なる」と断言できる。
 もちろんこの「重なり」には「同一」のものと「異質」のものがある。だからこそ「始まり」でもある。つまり、それは「生み出す」こと、「出産」でもある。何かが「生み出され」、その「生み出された」ものによって、世界が「始まる」。世界は「統一」される。「始まり」から「始まる」世界だけが見えてくる。見えてくると同時に、「見られる」という逆の「重なり」もある。松岡の肉体は、世界(土地)によって、重ねられている。その不思議な「感じ」が「見られている」ということばのなかにある。

ヤカンの口からじかに茶をのんで
石垣をまもる者の務めだとわらう

 「じかに」はここでは直接的にはヤカンから茶碗に茶を注がずにという意味だが、それ以上に強い響きで迫ってくる。ここでは何もかもが「じか」なのだ。直接、肉体がつながる。あいだに何もいれない。間接的に「接続」するのではなく、「じか」に「重なる」。「じか」であることが「重なり」には大事なのだ。「生む」というのは、あるもののなかから、直接、じかに、何かを生み出すことだ。「はじまり」はいつも「じか」に始まるのだ。あいだに何も介在させない。
 「じか」を生きることが、生きるものの務めなのだ。

からだのどこかに石英の輝きを隠しもつ、
かつて島びとのだれしもが石工であっただろう
ひとごとのようで自分ごとなのだ

 「じか」は、「隠しもつ」という形で言いなおされ、「重なり」と響きあう。「隠す」とて、その何かの上に何かを「重ねる」。土地(島)から生まれた人は、その体の中に「石英」をもっている。それが島で生まれた人間の証拠である。石工であるということは、石を加工するだけではない。自分を加工する、つまり育てるということだ。道をつくるということだ。すべては「自分(肉体)」のことである。その「自分の肉体」というのは、「島の肉体(島という土地)」のことでもある。それは「重なって」いる。人は石を積むことで(石垣をまもることで)、「島になる」のだ。
 これが「いのち」の「はじまり」。世界の「はじまり」。

だいぶ下った道の岐れでふりむくと
おとこがまだこっちをみていた
かるく会釈をしたが返事らしきものはない
それがなんだ
どくどくと夏のいのち
くる日もくる日も坂をのぼるいのち
容赦のないいい夏だと思った
夏がこれほど夏であったためしはない物を言うな

 「じか」は「容赦のない」と言いなおされている。それが「世界」だ。肉体が直接つかみとり、肉体がそのなかで変わっていくしかない世界だ。
 「容赦のない」とは「ことばのない」でもある。「ことば」がないから「じか」なのだ。「物を言うな」は「ことばを言うな」である。

 いくつものことばが響きあい、交錯し、世界を生み出している。肉体を甦らせている。こういう「ことばの運動」を私は「思想」と呼んでいる。
 「西洋の現代思想」のさまざまなキーワードは「思想」というものではない。それは仮の「結論」である。「思想」にはただ「はじまり」だけがあり、「結論」はない。「はじまり」はただ延々と「途中」をつくるだけであり、その「途中」こそが「思想」である。「途中」を歩きつづけることだけが「肉体」を育てる。
 「結論」をふりかざす人は、いつでも「途中」を他人にまかせている。自分の「肉体」を動かしていない。
 松岡は、そういうことをしない。「肉体」を動かし、「途中」を語り続ける。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(56)

2018-09-02 14:10:39 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
56 断片を頌えて

 「54 海辺の墓」「55 美しい墓」と違って、この詩からは、私はギリシアを感じる。断片化した「胸像」を見て書いた詩である。胸像は木ではないから朽ちてはいない。また虹のように消えることもない。
 その断片を見ながら、高橋はこう書いている。

私たちは 残された部分から 在りし全体を
在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を
想像する むしろ創造することに 導かれる

 もし高橋がほんとうに木の方が死を弔うのに「ふさわしい」と考えているのなら、石の胸像ではなく木の胸像を見たときにこそ、ここに書かれていることを言うだろう。
 それが木の像であっても、「残された部分から 在りし全体を/在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を/想像する」と言えるだろう。
 そこにないもの(欠落したもの)を想像する、さらにそこから理想を創造するというとき、「素材」は問題ではない。想像する/創造するのは、人間の力である。石や木が運動するのではなく、人間が動き、石や木に形をあたえるのだ。
 ここにあるのも「事実」というよりは、むしろ「ことば」であるに過ぎない。
 ただしこの詩のことばは、ギリシアにしっかり根付いている。石の胸像を出発点としているだけではなく、「想起する」(しかも集中力を持って想起する)ということが、ギリシアの古典哲学そのものだからである。
 想起するとき、そこにあらわれる完全な姿(形)こそ、ギリシア哲学が語るものだ。

 ノミ後の残るギリシアの像の方がローマ時代の像よりも強いと言ったのは和辻哲郎だが、ギリシアの像には「完全な形」を夢見る集中力がある。それが「断片」にも生き残っている、と私も思う。








つい昨日のこと 私のギリシア
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