詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文部省次官の引責辞任、その次は?

2018-09-21 23:05:46 | 自民党憲法改正草案を読む
文部省次官の引責辞任、その次は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外229(情報の読み方)

 2018年09月21日の読売新聞夕刊(西部版・4 版)の一面。

戸谷文科次官 引責辞任/接待汚職、局長1 人も/相次ぐ不祥事 教育行政打撃

という見出し。
 前川・前次官につづき、「事務方トップが2代続けて不祥事の引責辞任に追い込まれる異例の事態になった」と書いてある。
 ここで疑問。
 問題になっているのは「接待汚職」だが、それはほんとうに文科省だけで起きているのか。他の省庁では「接待汚職」はないのか。
 根拠もなく、私は、こんな風に妄想している。
 安倍は、文科省を狙い撃ちしている。安倍にとって不都合なことを言わせないぞ、という意思表示とみている。
 なぜ、文部省を狙い撃ちするか。
 教育は、洗脳に都合がいい。教育への介入を増やしたいのだ。
 安倍は「教育の無償化」を憲法改正の一項目に掲げているが、これは注意深く見守らないと大変なことになる。
 今でも朝鮮学校への「無償化」は行われていない。日本で生まれ、日本で育った子供への教育が差別されている。
 この差別は、見えない形で他の民族(人種)差別に応用されている。
 「外国人研修生」という名目の労働者は、日本に「単身」で来ている。家族では来ていない。日本が家族を拒んでいる。家族で来れば、受け入れのための社会環境づくりに金がかかる。そこに金をつぎ込んでいては安い賃金で「研修生」を搾取する意味がなくなる。
 もし「研修生」に子供が生まれれば、その教育環境も必要。金がかかる。だから、そうならないように、「単身」でしか受け入れていない。
 日本はすでに外国人の労働者抜きでは、社会が成り立たない。私がときどき利用するコンビニも、きっと従業員が確保できずにつぶれるだろう。
 それなのに、安倍は「外国人排除」を貫こうとしている。
 学校現場で、この方針を貫く必要がある。そのための「文部科学行政」を推し進める必要がある。
 文科省次官の辞任ではなく、次に誰が次官になるか。その人物は、安倍とどういう関係か。そのことに目を向けないといけない。
 私は、政界や官界の人間関係などまったく知らない。マスコミは、その辺りを集中的に取材し、報道してほしい。きっと、安倍の「息のかかった」人間が次官になるはずだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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須藤洋平『赤い内壁』(1)

2018-09-21 12:00:11 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(1)(海棠社、2018年09月30日発行)

 須藤洋平『赤い内壁』は「赤い内壁」「プラスチックバット」「ワゴンの記憶」とみっつの章に分かれている。
 きょうは「赤い内壁」を読んだ。
 とてもおもしろく、ぐいぐい引き込まれる。一気に読み通した方がいいのかもしれないが、ぐっと我慢した。
 立ち止まりたいからである。

 巻頭の「染み出るピンク色の手の中で」は、

一度、股を通過した蟻は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れ
やしない。

 と、始まる。「蟻」が何のことかわからない。
 この「わからない」が私には重要だ。わからないとわかったときから、私は考え始める。
 詩は、こう続いていく。

アルコールを垂れ流した大男は思う。死にたいんじゃなく、
(確かに身体は面倒だが)別に死んだって構いやしないってこと。
それでも中には、何度も何度も、小さな蟻になろうとして、いつ
しか圧縮されていた記憶があふれ、ピストルに弾を込める奴もい
るだろう。けれど、それは別に不思議なことでもなんでもない。
僕も似たような時があった。ただ、こういう奴等は、何かと偉大
な力のようなものを感じることが多いようだ。
実際に僕もそうだった。

コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。

袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。

それはつまり全面降伏を認めた時だ。

 読み進んでも、わからない。わからないけれど、「偉大な力」と「全面降伏」が固く結びついていることが感じられる。そして、その「接着剤」のようにして、

コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。

袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。

 という「ことば」がある。
 「コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し/叩き割り短い雄叫びを上げた時」は、「アルコールを垂れ流した大男」と結びつく。
 コンビニでウイスキーを買って、駐車場でラッパ飲みする。それから瓶を叩き割る。男の口からウイスキーが垂れている。アスファルトの上には瓶に残っていたウイスキーが垂れ流しになっている。「雄叫び」と、自分への怒り、絶望の声かもしれない。「死にたいんじゃなく」ということばも、それに重なる。
 私は、どうすることもできなくて、自分で自分を制御することもできなくて、怒り、絶望している男を想像する。そして、怒り、絶望した瞬間、「偉大な力」を感じている、という「矛盾」のようなものに引き込まれる。
 絶望している瞬間に感じる「偉大」とはなんだろうか。「生きてしまっている」ということではないだろうか。生きているから「怒り」も「絶望」もある。
 途中に出てきた「ピストルに弾を込める」というのは「自殺」のことかもしれない。絶望して、自殺を試みる人(試みた人)もいる。そのときも、その人は「生きてしまっている」ということを向き合っていた。
 そういうことを思っていると、突然、「蟻」が「大男/僕」と結びつく。「僕」は「大男」であると同時に「蟻」である。
 そこから書き出しにもどる。「蟻」を「僕/大男」と書き換えてみる。読み直してみる。

一度、股を通過した「僕/大男」は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れやしない。

 「股」は「女の股」、「母の股」のことだ。「通過する」は、セックスではなく、「生まれる」ということだ。人間は誰でも「女の股」を通って生まれてくる。そして、生まれてきてしまったら、「踏まれてもそう簡単には潰れやしない。」
 これは須藤の実感なのだ。
 何もかもがいやになって、絶望し、怒りの声をあげる。「こう生きろ」と押しつけてくる社会に対して、「全面降伏」する。その瞬間に、まだ「自分は生きている」(自分を生かしてくれている力がある)と感じる。
 人間は死なない。いや、死ねないのだ。
 詩は、続いている。

何かが手助けしてくれた。医者でもない、カウンセラーでもない、
家族なんて端からいない。
それはずっと自分の中にあるものだった。
おそらく、体液だ。皮肉にも体液のしなやかさだったのだ。
もし、偉大な存在がほんとうにいるのなら、言うだろう。

「それは、私の手の中でこしらえたものだ」と。

染み出るピンク色の両の手の中で。

 最後がまた、わからないのだが、わからないものはわからないままにしておく。
 「偉大な力」を「それはずっと自分の中にあるものだった」ということばをとおして、私は「生きている力」と読み替える。
 須藤は、「生きている力」と向き合っている。「生きている力」は須藤を突き破って動こうとしていく。それは、混乱(困惑)を引き起こす。しかし、そこから逃げずに、須藤は向き合う。つまり「偉大な力」そのものになる。
 一篇の詩に。
 それは血がにじむ。血がにじんでピンク色をしている。
 残酷と美の、不思議な結合。結晶、と呼べるかもしれない。
 「赤い内壁」には、そういう美しさが、やさしさにかわって、静かに動いている。

「ちくび、かくせるまでのばすのゆめ」
はっきりとは聞きとれなかったが、真黒い髪を弄りながらあなた
は笑い、
そして、机の上にあった画集を開き
「これ好き!」
と言い、開いて見せてくれたのは、
シャガールの『緑色のバイオリン弾き』だった。
「僕も好き」言うと、いきなりハグしてきた。

 ことばが自然に動いている。幸せというのは、こういう具合に、ことばがリズムをもって動く瞬間なのだ。
 なんとやさしい人間なのだろう、とこころが震える。

鼻の下にうっすらと髭を生やし、
毛玉のついたセーターを着て、
黒縁メガネのレンズはいつも汚れていて、

あなたと野生のカモシカを見てみたい。
僕はあなたを殴ってしまうこともあるかもしれない。
あなたの胸元を乱暴にはだけてしまうかもしれない。

あなたを指差し、
「同じ顔をしたの何人いるんだよ!」
笑う奴らにはどうあがいていも勝てないかも知れないけれども、
フナムシには時折、立ち向かってくるものもいる。

あなたの服を優しく脱がせたい
あなたと背向いて生きたい。
よじ登る、赤い内壁を。











*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(75)

2018-09-21 10:24:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月21日(金曜日)

75 若さと死

後世はギリシアに 永遠の若さを求める

 と書き出されるので、若い人がテーマかと思うと、そうではない。詩の主人公はソクラテスである。ソクラテスを、高橋は、こう描写している。

彼さえも 老衰の果ての死を怖れていた
これなど すでにじゅうぶんに老人鬱
彼は言いがかりの罪科に これ幸いと飛びつき
敢然と 名誉ある受難の死を選んだ
老いの結果ではない 尊厳ある死を

 私は、そう考えたことがない。
 私はソクラテスを老人と考えたことがない。ソクラテスは、プラトンが描く登場人物の中で、いつもいちばん若い。いちばん若い考え方をする。結論どころか「出発点」も持たずに考え始める。そこには「始める」という動詞が先にあり、それから「考える」がやってくる。
 他人の考え、そのことばを点検するところから始める。何にも頼らずに。それは「既成」の「ことば」を捨てるということ。「老人の知恵」を捨て、「ことば」を「始める」。
 「永遠の若さ」とは、そういうソクラテスの生き方ではないだろうか。
 ソクラテスが批判されたのは(嫌われたのは)、ソクラテスが老いなかったからだ。まるで子どものように、「なぜ」を繰り返した。ソクラテスは「永遠の子ども」だった。

 ソクラテスの「死」は、私にいつも疑問である。
 私にとって「死」は人間の最大の不幸である。
 ソクラテスの「ことば」は正しい。論理的に正しい。けれど、それは「死」をはねつけることができなかった。それは、ソクラテスの論理(ことば)が正しかったのではなく、どこか間違っているのだ。
 でも、まだ、だれもどこが間違っているのか、指摘できない。「正しい」ことばとして、いまも読み継がれている。
 ソクラテスはいつでも「生まれてきたまま」の何かである。いつでも「生まれる」何かである。「生まれつづける」というのがソクラテスの生き方であり、ソクラテスは永遠に年をとらない。死んでしまっても、まだ、「生まれつづけている」。




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