詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須藤洋平『赤い内壁』(2)

2018-09-22 09:41:49 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(2)(海棠社、2018年09月30日発行)

 「プラスチックバット」におさめられた作品群は、私には、よくわからない。それでも、「プラスチックバット」の次の二行、

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

 が強く響いてくる。土方仕事の合間、休憩時間にたばこを吸っている。そのときの気持ちよさそうな顔が目に浮かぶ。といっても、私は須藤を知らないから、知っているだれかの顔というか、そのときの「肉体」の動きを思い浮かべている。
 私は貧乏暮らしなので、高校のとき土方のアルバイトをしたことがある。二学期の授業料を稼ぐのだ。兄が仕事をしている建設現場でいっしょに働いた。私はたばこを吸わないが、兄は吸った。ほかの男たちも吸った。そのときのことを思い出したりする。そこには何か共通する「肉体」の動きがある。
 でも、それは、私の「肉体」ではないし……。
 なぜ、誘い込まれたのだろう。
 全行を読み直してみる。

頂のない食事のような
二人目はまるで別な顔だった
清々しく怖じ気づけば
美しく爆破する舟
常に開かれ、すぐに閉じてゆく
頭蓋の硬さが、今日も俺を脅かす

二つ前の席のやけに童顔の男が
間違いでもさがすように何度か振り返る

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

きっと、それが俺らの魂の色だ

 一連目は、わからない。誰かを殴ろうとしているのか。殴ったのか。「美しく爆破する舟」と「頭蓋の硬さ」は、バットで叩き割られた頭を連想させる。タイトルの「プラスチックバット」のせいである。でも、プラスチックバットだから頭は叩き割られない(と、思う。)
 目を閉じて思い浮かべる幻想、目を開いてかき消す幻想。
 土方仕事で疲れた「肉体」のなかで何かが、揺れている。

 二連目が、具体的で、わかりやすい。見たことがある、こういう光景に出合ったことがある。食堂の席。離れたところから、誰かが何度も見つめ返してくる。「振り返り」見つめてくるので、「見ている/見られている」ということが、わかる。
 「何度か振り返る」、振り返られて見られたことがある。同時に、振り返って見た記憶もある。振り返り、見るのは「何かをさがす」ためなのか。「間違い」を探しているわけではない。もし「間違い」があるとしたら、「振り返り、さがす(見る)」という動詞そのものの中にある。「間違い」は見つからないのに、無意味に「振り返り」「さがす」。
 無駄な時間。「意味」にならない時間。
 そういう「時間」のなかでも、「肉体」は動く。その「肉体」そのものが、「わかる」。「振り返る」とは、どういうことか。「見る」とはどういうことか。「繰り返す」とはどういうことか。ことばで説明するのはむずかしいが、「わかる」。「わかる」から、いま、その姿を見ていないのに、振り返る男の姿が見える。
 この「肉体」の手触りのようなものがあって、そのあとで、

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

 がくるから、「肉体」が自然に何かを思い出すのだ。他人の肉体なのに、自分では経験していないのに、「ああ、気持ちよさそうだ」と感じてしまう。
 このあと、須藤は、

きっと、それが俺らの魂の色だ

 と書いている。「それ」が何を指しているか、わからない。また、私は「魂」というものを見たことがないので、「魂の色」というのも想像することができない。しかし、この「わからない」ことがあるということが、逆にまた、二連目、三連目の「肉体」をさらにくっきりさせる。二連目、三連目は「わかるぞ」と感じさせる。
 私は「誤読」しているのだろうと思う。
 いや、「誤読」にすらならず、何も読んでいないのかもしれないが、いま感じていることを、そのまま書くのである。














*

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