詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

2018-09-30 15:04:06 | 詩集
最果タヒ『天国と、とてつもない暇』(小学館、2018年10月01日発行)

 最果タヒの詩については何度か書いてきた。いつもとは違うことを書きたい。書いてしまえば同じになるかもしれないが。
 「いい暮らし」の書き出し。

美しくなるよりもずっと前。
優しくなるよりもずっと前。
私はあなたを好きでした、

 繰り返される「ずっと前」といことばに、私は傍線を引いた。これが最果のキーワードかもしれない、と感じた。キーワードというのは、わたしの「定義」ではほとんど表にはでてこないことば、「無意識」に動くことばなのだが、「前」に関しては少し前に読んだ気がした。
 詩集を逆戻りしてみる。「生存戦略!」の書き出し。

拒め。肉体より社会より宇宙より糸より毛皮より帽子よ
り食べたものより果てにあるのが、私よりも前からある
私だけの愛情。

 「私より前からある」ということばがある。ここにも傍線を引いていた。
 「ずっと前」というのは「私よりも前」ということ。
 「私」は生まれ、美しくなり、優しくなり、あなたを好きになる。けれど、それは「私」から始まるのではなく、「私より前」から始まっている。
 「私はあなたを好きでした」には「なる」ということばがないが、ここに秘密(キーワード)が隠れている。
 「私」とは無関係に、「美しい」と呼ばれるものが「ある」、「優しい」と呼ばれるものがある。それと同じように「好き」というものがある。「美しい」「優しい」はともに用言である。「好き」は「好く」ということばから派生している。「好く」は動詞である。用言である。つまり、「美しい」も「優しい」も「好く」も動く。動くことで初めて「美しい」「優しい」「好き」が生まれてくる。「美しくなる」「優しくなる」「好きになる」が、いま「美しい」「優しい」「好き」という状態として姿をあらわす。
 まだ名づけられていないものがあり、それが美しく「なる」ことによって「美しい」が生まれてくる。同じように優しく「なる」ことで「優しい」が生まれてくる。好きに「なる」ことで「好き」が生まれてくる。
 そして、この「なる」以前は、「ずっと前」「私より前」としか呼べないことなのである。
 また、「なる以前」(ずっと前、私より前)というものが「ある」ということは、美しく「なる」、優しく「なる」、好きに「なる」ことによって初めてわかることである。いま「美しい」「優しい」「好き」という「状態」に「いる/ある」ことが、「ずっと前/私より前」のどこかにも「ある」。「いま」と「いつかどこか」が結びつき、「美しい」「優しい」「好き」が、全体的な「真実/事実」になる。
 こういうことを、最果は書いている。
 「生存戦略!」は、こう続いている。

       それに手を伸ばすためだけに生まれてき
た、ひとつひとつを脱ぎ捨てて、針よりも細く、弱くな
りながら、届こうとしている、

 「手を伸ばす」という動詞の比喩が強い。「いつか/どこか」に名づけられずに「ある」もの、美しさ、優しさ、好きをつかみ取るために「生まれてきた」。生きることは「いま」から「未来」への動きであるのに、実際にしていることは「生まれる前/私より前」の方に「手を伸ばす」ことなのだ。「未来」へ手を伸ばすのは、「過去」に手を伸ばし、「いま」のなかに「過去」を噴出させるためなのだ。「いま」のなにか噴出してきた「過去」だけが「未来」なのだ。

 私の書いていることは抽象的だろうか。

 しかし抽象性こそが最果の詩の特徴だ。「論理」を動かすことでつかみとることができるもの、浮かび上がらせることができるものを追い求めている。
 私は基本的には、詩とは抽象性を突き破って動く具体そのものだと考えているが、最果にとっては「抽象」の「動き(運動)」が「具体」というものなのだろう。なぜ、「抽象の動き」を「具体」と呼ぶことができるのか。
 「新婚さんいらっしゃい」のなかに、こんな行がある。

きれいだから、選んだんだよ、きれいという価値観は、私というより世界が決め
たもの、と責任転嫁して、ほんとうは、私が決めたものなのだ、

 「決めた」ということばに注目する。「決める」のは「私/最果」なのである。「きれい」は「世界の価値観(世界が決めたもの)」のように見えるが、そうではない。それはあくまでも「私/最果」が「選び」、「きれいである」と「決める」。「選び(手を伸ばし、それをつかみとる)」、そして「ことば」として差し出すことを「決める」。そのとき最果の「きれい」が「いま/ここ」に生み出される。

 プラトン(ソクラテス)は「イデア」を「想起する」と言った。この「想起する」というとき、「想起される対象(イデア)」は「いま/ここ」にない。「想起される先(未来)」の方にある。「想起」し、それにむけて動いていく。「未来」をつくりだしていく、というのがプラトンの「時間感覚」である。「理想」の追求の仕方である。
 最果は、いわば「逆方向」の動きをする。「過去」を「掘り返す」。掘り返していると、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。噴出してきた瞬間、それは「未来」へ向かって動き出す。この動きを「誕生する」と言い換えるならば、最果は「想起」するものを「過去」をつかって「生み出す」のである。産婆術である。そのとき「いのち」がつながる。「いのち」が生き始める。
 この「いのちを生み出す」「生み出されたいのちが生き始める」ということばをつらぬく運動が最果の詩であり、それは「ずっと前/私(最果)よりも前」を「根源」としている。
 男の詩人なら、たとえば谷川俊太郎ならば、「ずっと前/私より前」を「未生」と言う。哲学者ならば「混沌」とか「無」ということばであらわす。
 しかし、最果は、そいう「男ことば」をつかわずに、彼女自身の「肉体」で動かしている。「手を伸ばす」というような具体的な「肉体」の力で。
 抽象的だけれど、若い人に人気があるのは、そういうところに「秘密」があるのかもしれない。

 私は……。
 私は、かなりとまどっている。こういうふうにことばと向き合い、ことばを動かすのが「現代」の人間なのだと、わかったふりをする(誤読する)が、それについていくことができない。
 「肉体」と「意識」、「意識」と「ことば」の関係を、最果のようには割り切れない。詩を引用しながら、言いなおすと、こうなる。
 「クリーニング」という作品。

終わりが来ないことに慌てている、もがいている、溺れ
ている、ここに水があったっけ? もがいている、出ら
れない場所にいる気がして、足がつかない気がして、流
れていく気がして、自分というものが溶けて消えてもこ
の意識だけが残る気がしている、

 私は「意識だけが残る」と意識を「理想化」することができない。
 あるいは「雲の詩」の次の行。

あなたより、わたしより、先に死んでいったものたちの魂が、幽霊という言
葉で侮辱されていくけれど、

 「魂」は「幽霊」と同じように、私には理解できない。それは「意識」を動かすための「意識」、つまり「方便」にしか過ぎない。そこには「肉体の論理」、「肉体の運動」が存在しないと私は判断している。
 私は最近、若い人たちの「肉体感覚」の欠如に、とても恐怖を感じている。そのことが、最果の詩を読むときも影響しているかもしれない。










天国と、とてつもない暇
クリエーター情報なし
小学館


*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか7月号注文


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『つい昨日のこと』(84)

2018-09-30 10:58:26 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
84 犬のギリシア

 「83 老人と犬」には現実の犬は登場しなかったが、この作品では「ギリシアには 何処にも犬がいる」と高橋が街でみかけた描かれている。しかし「犬」の描写では終わらない。ギリシアの経済破綻寸前の状況にふれたあと、詩はこう展開する。

いつ崩壊するかわからない この人間世界は
犬の目に どう映っているのだろう
そして その視界をつかきまよぎる旅人の翳は?
翳は去るや見る間に老い 冥府への道を急ぎ
犬は永久に生まれ変わり 死に変わる

 「死に変わる」か。「生まれ変わる」という表現があるのだから、「死に変わる」という言い方があってもいいのかもしれない。
 「死にざま」ということばが、いつのまにか「生きざま」にとってかわったように。
 しかし、一般に「死に変わる」とは言わない。なぜだろう。「死ぬ」とこの世から存在しなくなる。ほんとうに「変わった」のかどうか、確かめられないからだろう。
 「生まれ変わる(生まれ変わり)」もそれが事実であるかは確かめられないが、いま、この世にいる存在について、そういう具合に思うことはできる。想像することができる。
 けれど「死に変わる(死に変わり)」は想像の出発点に「存在」がない。「死んだ」という事実、「死体」という事実はあるが、それはあくまで「この世」に存在するものであって、「死の世界」で確かめることはできない。
 これは「論理」がつくりだした「誤謬」というか、「誤読」というか、「ことば」でのみ「想起」できる何かである。
 想像力は、いつでも「間違える」。想像力とは事実を歪める力であると言ったのはバシュラールだったか。
 しかし、それが「間違い」であっても、ことばにした瞬間、それが「事実」のように出現してしまう。「間違い」を「論理的」に出現させる、生み出してしまうのが、詩という装置かもしれない。

 「死に変わる」。これは、詩にしか書けないことばである。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする