最果タヒ『天国と、とてつもない暇』(小学館、2018年10月01日発行)
最果タヒの詩については何度か書いてきた。いつもとは違うことを書きたい。書いてしまえば同じになるかもしれないが。
「いい暮らし」の書き出し。
繰り返される「ずっと前」といことばに、私は傍線を引いた。これが最果のキーワードかもしれない、と感じた。キーワードというのは、わたしの「定義」ではほとんど表にはでてこないことば、「無意識」に動くことばなのだが、「前」に関しては少し前に読んだ気がした。
詩集を逆戻りしてみる。「生存戦略!」の書き出し。
「私より前からある」ということばがある。ここにも傍線を引いていた。
「ずっと前」というのは「私よりも前」ということ。
「私」は生まれ、美しくなり、優しくなり、あなたを好きになる。けれど、それは「私」から始まるのではなく、「私より前」から始まっている。
「私はあなたを好きでした」には「なる」ということばがないが、ここに秘密(キーワード)が隠れている。
「私」とは無関係に、「美しい」と呼ばれるものが「ある」、「優しい」と呼ばれるものがある。それと同じように「好き」というものがある。「美しい」「優しい」はともに用言である。「好き」は「好く」ということばから派生している。「好く」は動詞である。用言である。つまり、「美しい」も「優しい」も「好く」も動く。動くことで初めて「美しい」「優しい」「好き」が生まれてくる。「美しくなる」「優しくなる」「好きになる」が、いま「美しい」「優しい」「好き」という状態として姿をあらわす。
まだ名づけられていないものがあり、それが美しく「なる」ことによって「美しい」が生まれてくる。同じように優しく「なる」ことで「優しい」が生まれてくる。好きに「なる」ことで「好き」が生まれてくる。
そして、この「なる」以前は、「ずっと前」「私より前」としか呼べないことなのである。
また、「なる以前」(ずっと前、私より前)というものが「ある」ということは、美しく「なる」、優しく「なる」、好きに「なる」ことによって初めてわかることである。いま「美しい」「優しい」「好き」という「状態」に「いる/ある」ことが、「ずっと前/私より前」のどこかにも「ある」。「いま」と「いつかどこか」が結びつき、「美しい」「優しい」「好き」が、全体的な「真実/事実」になる。
こういうことを、最果は書いている。
「生存戦略!」は、こう続いている。
「手を伸ばす」という動詞の比喩が強い。「いつか/どこか」に名づけられずに「ある」もの、美しさ、優しさ、好きをつかみ取るために「生まれてきた」。生きることは「いま」から「未来」への動きであるのに、実際にしていることは「生まれる前/私より前」の方に「手を伸ばす」ことなのだ。「未来」へ手を伸ばすのは、「過去」に手を伸ばし、「いま」のなかに「過去」を噴出させるためなのだ。「いま」のなにか噴出してきた「過去」だけが「未来」なのだ。
私の書いていることは抽象的だろうか。
しかし抽象性こそが最果の詩の特徴だ。「論理」を動かすことでつかみとることができるもの、浮かび上がらせることができるものを追い求めている。
私は基本的には、詩とは抽象性を突き破って動く具体そのものだと考えているが、最果にとっては「抽象」の「動き(運動)」が「具体」というものなのだろう。なぜ、「抽象の動き」を「具体」と呼ぶことができるのか。
「新婚さんいらっしゃい」のなかに、こんな行がある。
「決めた」ということばに注目する。「決める」のは「私/最果」なのである。「きれい」は「世界の価値観(世界が決めたもの)」のように見えるが、そうではない。それはあくまでも「私/最果」が「選び」、「きれいである」と「決める」。「選び(手を伸ばし、それをつかみとる)」、そして「ことば」として差し出すことを「決める」。そのとき最果の「きれい」が「いま/ここ」に生み出される。
プラトン(ソクラテス)は「イデア」を「想起する」と言った。この「想起する」というとき、「想起される対象(イデア)」は「いま/ここ」にない。「想起される先(未来)」の方にある。「想起」し、それにむけて動いていく。「未来」をつくりだしていく、というのがプラトンの「時間感覚」である。「理想」の追求の仕方である。
最果は、いわば「逆方向」の動きをする。「過去」を「掘り返す」。掘り返していると、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。噴出してきた瞬間、それは「未来」へ向かって動き出す。この動きを「誕生する」と言い換えるならば、最果は「想起」するものを「過去」をつかって「生み出す」のである。産婆術である。そのとき「いのち」がつながる。「いのち」が生き始める。
この「いのちを生み出す」「生み出されたいのちが生き始める」ということばをつらぬく運動が最果の詩であり、それは「ずっと前/私(最果)よりも前」を「根源」としている。
男の詩人なら、たとえば谷川俊太郎ならば、「ずっと前/私より前」を「未生」と言う。哲学者ならば「混沌」とか「無」ということばであらわす。
しかし、最果は、そいう「男ことば」をつかわずに、彼女自身の「肉体」で動かしている。「手を伸ばす」というような具体的な「肉体」の力で。
抽象的だけれど、若い人に人気があるのは、そういうところに「秘密」があるのかもしれない。
私は……。
私は、かなりとまどっている。こういうふうにことばと向き合い、ことばを動かすのが「現代」の人間なのだと、わかったふりをする(誤読する)が、それについていくことができない。
「肉体」と「意識」、「意識」と「ことば」の関係を、最果のようには割り切れない。詩を引用しながら、言いなおすと、こうなる。
「クリーニング」という作品。
私は「意識だけが残る」と意識を「理想化」することができない。
あるいは「雲の詩」の次の行。
「魂」は「幽霊」と同じように、私には理解できない。それは「意識」を動かすための「意識」、つまり「方便」にしか過ぎない。そこには「肉体の論理」、「肉体の運動」が存在しないと私は判断している。
私は最近、若い人たちの「肉体感覚」の欠如に、とても恐怖を感じている。そのことが、最果の詩を読むときも影響しているかもしれない。
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最果タヒの詩については何度か書いてきた。いつもとは違うことを書きたい。書いてしまえば同じになるかもしれないが。
「いい暮らし」の書き出し。
美しくなるよりもずっと前。
優しくなるよりもずっと前。
私はあなたを好きでした、
繰り返される「ずっと前」といことばに、私は傍線を引いた。これが最果のキーワードかもしれない、と感じた。キーワードというのは、わたしの「定義」ではほとんど表にはでてこないことば、「無意識」に動くことばなのだが、「前」に関しては少し前に読んだ気がした。
詩集を逆戻りしてみる。「生存戦略!」の書き出し。
拒め。肉体より社会より宇宙より糸より毛皮より帽子よ
り食べたものより果てにあるのが、私よりも前からある
私だけの愛情。
「私より前からある」ということばがある。ここにも傍線を引いていた。
「ずっと前」というのは「私よりも前」ということ。
「私」は生まれ、美しくなり、優しくなり、あなたを好きになる。けれど、それは「私」から始まるのではなく、「私より前」から始まっている。
「私はあなたを好きでした」には「なる」ということばがないが、ここに秘密(キーワード)が隠れている。
「私」とは無関係に、「美しい」と呼ばれるものが「ある」、「優しい」と呼ばれるものがある。それと同じように「好き」というものがある。「美しい」「優しい」はともに用言である。「好き」は「好く」ということばから派生している。「好く」は動詞である。用言である。つまり、「美しい」も「優しい」も「好く」も動く。動くことで初めて「美しい」「優しい」「好き」が生まれてくる。「美しくなる」「優しくなる」「好きになる」が、いま「美しい」「優しい」「好き」という状態として姿をあらわす。
まだ名づけられていないものがあり、それが美しく「なる」ことによって「美しい」が生まれてくる。同じように優しく「なる」ことで「優しい」が生まれてくる。好きに「なる」ことで「好き」が生まれてくる。
そして、この「なる」以前は、「ずっと前」「私より前」としか呼べないことなのである。
また、「なる以前」(ずっと前、私より前)というものが「ある」ということは、美しく「なる」、優しく「なる」、好きに「なる」ことによって初めてわかることである。いま「美しい」「優しい」「好き」という「状態」に「いる/ある」ことが、「ずっと前/私より前」のどこかにも「ある」。「いま」と「いつかどこか」が結びつき、「美しい」「優しい」「好き」が、全体的な「真実/事実」になる。
こういうことを、最果は書いている。
「生存戦略!」は、こう続いている。
それに手を伸ばすためだけに生まれてき
た、ひとつひとつを脱ぎ捨てて、針よりも細く、弱くな
りながら、届こうとしている、
「手を伸ばす」という動詞の比喩が強い。「いつか/どこか」に名づけられずに「ある」もの、美しさ、優しさ、好きをつかみ取るために「生まれてきた」。生きることは「いま」から「未来」への動きであるのに、実際にしていることは「生まれる前/私より前」の方に「手を伸ばす」ことなのだ。「未来」へ手を伸ばすのは、「過去」に手を伸ばし、「いま」のなかに「過去」を噴出させるためなのだ。「いま」のなにか噴出してきた「過去」だけが「未来」なのだ。
私の書いていることは抽象的だろうか。
しかし抽象性こそが最果の詩の特徴だ。「論理」を動かすことでつかみとることができるもの、浮かび上がらせることができるものを追い求めている。
私は基本的には、詩とは抽象性を突き破って動く具体そのものだと考えているが、最果にとっては「抽象」の「動き(運動)」が「具体」というものなのだろう。なぜ、「抽象の動き」を「具体」と呼ぶことができるのか。
「新婚さんいらっしゃい」のなかに、こんな行がある。
きれいだから、選んだんだよ、きれいという価値観は、私というより世界が決め
たもの、と責任転嫁して、ほんとうは、私が決めたものなのだ、
「決めた」ということばに注目する。「決める」のは「私/最果」なのである。「きれい」は「世界の価値観(世界が決めたもの)」のように見えるが、そうではない。それはあくまでも「私/最果」が「選び」、「きれいである」と「決める」。「選び(手を伸ばし、それをつかみとる)」、そして「ことば」として差し出すことを「決める」。そのとき最果の「きれい」が「いま/ここ」に生み出される。
プラトン(ソクラテス)は「イデア」を「想起する」と言った。この「想起する」というとき、「想起される対象(イデア)」は「いま/ここ」にない。「想起される先(未来)」の方にある。「想起」し、それにむけて動いていく。「未来」をつくりだしていく、というのがプラトンの「時間感覚」である。「理想」の追求の仕方である。
最果は、いわば「逆方向」の動きをする。「過去」を「掘り返す」。掘り返していると、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。噴出してきた瞬間、それは「未来」へ向かって動き出す。この動きを「誕生する」と言い換えるならば、最果は「想起」するものを「過去」をつかって「生み出す」のである。産婆術である。そのとき「いのち」がつながる。「いのち」が生き始める。
この「いのちを生み出す」「生み出されたいのちが生き始める」ということばをつらぬく運動が最果の詩であり、それは「ずっと前/私(最果)よりも前」を「根源」としている。
男の詩人なら、たとえば谷川俊太郎ならば、「ずっと前/私より前」を「未生」と言う。哲学者ならば「混沌」とか「無」ということばであらわす。
しかし、最果は、そいう「男ことば」をつかわずに、彼女自身の「肉体」で動かしている。「手を伸ばす」というような具体的な「肉体」の力で。
抽象的だけれど、若い人に人気があるのは、そういうところに「秘密」があるのかもしれない。
私は……。
私は、かなりとまどっている。こういうふうにことばと向き合い、ことばを動かすのが「現代」の人間なのだと、わかったふりをする(誤読する)が、それについていくことができない。
「肉体」と「意識」、「意識」と「ことば」の関係を、最果のようには割り切れない。詩を引用しながら、言いなおすと、こうなる。
「クリーニング」という作品。
終わりが来ないことに慌てている、もがいている、溺れ
ている、ここに水があったっけ? もがいている、出ら
れない場所にいる気がして、足がつかない気がして、流
れていく気がして、自分というものが溶けて消えてもこ
の意識だけが残る気がしている、
私は「意識だけが残る」と意識を「理想化」することができない。
あるいは「雲の詩」の次の行。
あなたより、わたしより、先に死んでいったものたちの魂が、幽霊という言
葉で侮辱されていくけれど、
「魂」は「幽霊」と同じように、私には理解できない。それは「意識」を動かすための「意識」、つまり「方便」にしか過ぎない。そこには「肉体の論理」、「肉体の運動」が存在しないと私は判断している。
私は最近、若い人たちの「肉体感覚」の欠如に、とても恐怖を感じている。そのことが、最果の詩を読むときも影響しているかもしれない。
天国と、とてつもない暇 | |
クリエーター情報なし | |
小学館 |
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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