詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

論理はどこへ行ったか。

2018-09-24 09:13:09 | 自民党憲法改正草案を読む
論理はどこへ行ったか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外230(情報の読み方)

 2018年09月24日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の文化面。「論壇誌 9月」に、9月に発行された論壇の批評が載っている。(筆者は、小林佑基)そこに、歴史学者・與那覇潤の「リベラル派の凋落は自業自得だ」(『Voice』)が紹介されている。私は、與那覇の文章を読んでいない。小林が紹介している文章から判断するだけなのだが、びっくりしてしまった。これが「論」なのかと。小林は、こう紹介している。(括弧内の番号は、私が補った。)

 (與那覇は)杉田議員がLGBTを不自然な存在とみなしている事実は隠しようもないとし、「LGBTに関する無知」があったと指摘する。ただ、批判側の中心になったリベラル派の「凋落」と「自己矛盾」も示されたと強調する。なぜなら、(1)同じリベラル派は2年前に「保育園落ちた日本死ね」と題した匿名ブログを取り上げ、「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」とのロジックを展開していたからだ。(2)当時、子育て世代への優遇策を主張した彼らが、同性カップルや独身者に配慮する考えを持っていたのかと問いかけ、それを自制する議論を現在、ほとんどみかけない。

 與那覇の論は二つある。
(1)「保育園落ちた日本死ね」というブログに触発されて、リベラル派は「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」と主張した。
(2)子育て世代への優遇策を主張した彼らが、同性カップルや独身者に配慮する考えを持っていたのか。

 私は疑問に思う。
 (1)に含まれる「子育て支援には最優先で税金を投入せよ」は、単に子育てをしている人(家族)を支援せよ」という主張ではない。そこには子どもの教育に税金を投入せよ、ということである。子育てをしている人(家族)に税金を投入せよ、と言っているのではない。それはすでに「子ども手当て」とか,企業から支払われる「扶養家族手当て」で優遇されている。
 問題は、保育園が少ないということ。保育園をもっとつくれ、保育士をもっと増やせ、というのがリベラル派(?)の主張である。それは「子育て支援」というよりも「子ども支援」だ。
 現実を見てみれば、わかる。幼稚園に子どもを預けることができなかったひとは、働くことをあきらめ、子育てを優先している。その結果、家系が苦しくなったと訴えている。子育てを放棄していない。子育ては放棄できない。
 ここにいちばんの問題がある。
 これを無視して(2)の論理を展開するのは、論理になっていない。
 リベラル派(?)は、同性カップルや独身者にも「子育て費用」として支給されている金を払えと言っているわけではない。同性カップルや独身者も「子育て費用」を要求などしないだろう。同性カップルや独身者は、自分自身の判断で、そうあることを選んでいる。そういう人間が、自分に「子育て費用」が支給されないのは差別だと言うだろうか。
 「子育て」ではなく、「高齢者介護」を例にとるとわかりやすい。親の介護のために「介護休暇」をとる人がいる。そういう制度に対して、まだ親の(あるいは兄弟の)介護をに迫られていない人が、「私が介護休暇をとれないのは差別だ」と言うだろうか。
 どんな「支援」も「対象」を見極め、同時にそれに従事する人との関係で見ないといけない。
 「子育て支援に税金を投入せよ」とは、「子ども支援に税金を投入せよ」ということである。「高齢者介護支援に税金を投入せよ」なら「高齢者支援に税金を投入せよ」ということである。結果的に、実際に「子育て」「介護している人(介護士を含む)」に金が支払われるとしても、それは「子ども」「介護が必要とされる人」への支給である。
 與那覇は、現実の金の流れと、その「効果」を見ていない。

 ここからは、少し別のことを書く。
 安倍は改憲案のひとつに「教育の無償化」をあげているが、これは注意深く吟味しないといけない。安倍はほんとうに「教育の無償化」など考えていない。
 「保育園落ちた日本死ね」という批判を受け止め、政策を実施するとき、どうしてもそこに保育園の増設、保育士の増員という問題が絡んでくる。安倍は、そういうことをするはずがない。「だれでも高等教育が受けられるように」とは言っても、「子どものすべてが保育園、幼稚園に入れるように」とは言っていないことだけを見てもわかる。
 さらに、これは別な角度からも証明できる。
 日本は現在多くの外国人労働者の力を借りている。しかし、その「労働者」として日本に入国しているのは「単身者」が中心である。家族、子どもぐるみで「研修生」が来ているわけではない。家族で来れば、それなりの住居の手当てが必要だ。子供が産まれる、あるいは子連れでくるなら、子どもの教育にも金をかける必要がある。日本で働く外国人の国籍がさまざまになれば、学校運営はとてもたいへんである。そういうところに金をかけたくないから、「単身者」しか受けいれないのだ。
 「子どもの教育」は、すでに「選別/差別」されている。こういうことは実際に外国人の子どもがまわりにあふれてこない限り、「見えない」。見えないけれど、実際に起きていることなのだ。
 朝鮮学校の問題に目を向ければ、すぐわかる。そこで学んでいる人たちは、日本で生まれた。それなのに税金が投入されていない。差別されている。
 外国人労働者が増え、外国人の子どもたちが日本で暮らし始めれば、同じことが起きるのだ。

 自分と違う意見の人を「リベラル派」と断定する與那覇は、リベラル派に属さない人なのだろう。
 そういう人が、どういうことを言っているのか、私は個別に確かめたことはないが、たとえば(1)の問題なら、「子育てには母親が絶対必要だ」というような言い方をする。一方で、女性に社会で働くことを要求しながら、他方で子育てを母親に限定して押しつけるという矛盾した論を展開する。
 たぶん、そういう人たちは、特別な「家族像」を描いている。いるまの日本ではほとんど姿を消してしまった「家庭像」を思い描いている。
 子供が産まれた。母親が働くのなら祖父母が孫の面倒を見ればいい。昔ながらの「大家族制度」で子育てを充実する。これが「理想」なのだ。祖父母に介護が必要なころには、子ども(孫)はすでに社会で働いているだろう。女性は退職し、家で両親(孫にとっての祖父母)の介護をする。孫たちは、働いて家系を支える。「家庭内」で「子どもの教育」「高齢者の介護」を完結する。「国家(つまり安倍政権)」に金銭的負担をかけない。これが、究極の「生産性の高いシステム」ということになる。
 だからこそ、2012年の自民党の憲法改正案には

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 と書かれているのである。そして、それは憲法の前文の、

活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 と直結している。
 「生産性(経済発展)」が最優先であり、そのためにかつての「大家族制度(家長制度)」を復活させる。「国家」という「家族」の頂点に安倍が居座り、「独裁」をふるう。それが安倍の狙いのすべてだ。そのためには戦争も引き起こす。戦争になれば、「家族内(国家内)」で対立している余裕はない。すべて安倍にしたがって状況を乗り切るしかない。
 安倍は、自分では死の恐怖に向き合わず、国民を死の恐怖で支配する。
 そういう体制をつくるために、「教育の無償化」をてこに、教育に介入する。政権批判をする「学問」を封じ込める。

 教育とは、いったいだれのためのものなのか。そのことを考えないといけない。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(78)

2018-09-24 05:17:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月24日(月曜日)

78 神聖喜劇

 ソクラテスとプラトンを描いている。
 私にとってソクラテスは最大の謎である。ソクラテスの言っていることは、私の考える限り「論理」的に正しい。けれど、その論理の正しさはソクラテスのいのちを守れなかった。いのちを守れなくて、どうして正しいと言えるのか。
 ソクラテスの論理は間違っているのではないか。
 でも、私は、「間違い」を見つけることができない。
 この問題を高橋がどう解決したのか、よくわからない。こう、書いている。

老いさらばえて尊厳ある自然死なんて 何処にもありはしない
あるのは 汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期ばかり
七十過ぎてなお強健なソクラテスが何より怖れていたのは それ

 これはほんとうか。私にはわからない。ソクラテスは「汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期」を恐れたかどうか、それはどのことばをもとにすれば、そう判断できるのか。高橋は、ここでは書いていない。
 つづけて、こう書く。

だからこそ 神界を否定した科に自死せよという 虚偽の判決を
かえって神神からの慈悲にあふれる贈りもの と悦んで受け容れ
獄舎の夕べ 信奉者たちの嘆きに囲まれ 従容と毒杯を飲み干した

 「だからこそ」ということばは、この詩でとても重要だ。
 高橋は、ソクラテスが老いの死を恐れたという根拠を示していない。それなのに、高橋は自身の想像(?)を根拠として、「だからこそ」とさらにことばを先へと動かしている。想像に想像を重ねる。
 まるで想像を押し進めれば、想像が「事実」に変わるかのようだ。

 詩は、たしかに、そうなのかもしれない。
 詩は「客観的事実」でなくていい。「個人的な事実」(主観的な事実)でいい。「主観」が強ければ強いほどいい。「強さ」が「事実」なのだ。

死の場面は描かないという作劇術暗黙の決めごとを 敢えて破り
もと悲劇作者志望の若きプラトンが いきいきと描いたのは
この最期の大団円 すくなくとも喜ばしい破局と断じてのこと

 「強さ」は「いきいき」と言いなおされている。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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