詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 松岡政則『あるくことば』(3)

2018-09-04 09:20:49 | 詩集
 松岡政則『あるくことば』(3)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 もう一度、松岡の詩について書くつもりでいた。しかし、書く前に愛敬の詩について書こうと思った。実際に、きのう、書いた。で、愛敬の詩の感想を書いてしまうと、まだ書くつもりでいたことがあまりなくなった。愛敬の詩について感想を書きながら、どこかで松岡の詩の感想を書いていたのかもしれない。
 松岡の詩については、しばしば書いているので、何を書いたかもよくわからなくなる。すでに書いたことかもしれないし、書こうと思っただけで書かなかったことかもしれない。私は書くと、書いたことをほとんど忘れてしまう。書きながら考えているだけなのだ。結論など、私は信じていないから。

 詩集のページの角を折った箇所がいくつもある。そのひとつ。「これからのみどり」。

ときどきつよい訛りで叱られたくなる、
そういうからだだった

 この行は、覚えている。でも、何を書いたかは覚えていない。聞いた声が肉体の中に入ってきて、松岡の肉体を内部から鍛え直す。「叱る」ということが、そんなふうに具体化する。きっと、他人の声で自分の肉体を鍛え直すときの力、その動き方を覚えているのだろう。
 で、その詩のなかに、こんな行がある。

みたことはからだのどこかにのこる
でもだいじょうぶ
こうやってあるいておりさえすれば
五月のまことがふれにくる

 ここは覚えていない。覚えていないけれど、今回、ここに私は棒線を引いている。ページを折るだけではなく、棒線を引いているのは、何か書こうと思ったことがあるからだ。何を書きたかったのか。
 「からだのどこかにのこる」の「のこる」だな、と思う。
 この行は「みたこと」と書いているが、からだのなかに残るのは「みたもの」とはかぎらないだろう。「聞いたこと」も残る。そして「聞いたこと」は、もしかしたら「声」かもしれないと思う。たとえば「つよい訛り」のその「訛り」というよりも「つよさ」。また「意味」でもない。「叱られた」ときの「叱る」、その「叱りのつよさ」。内容(意味)以上に「つよさ」が大事なのだ。「つよさ」によって、人間は、ことの大事さを知る。「意味」はあとからやってくる。「意味」は、あとで納得できるものである。
 この「つよさ」とは「まこと」と言いなおされていると思う。「まこと」とは「ほんとう」ということだが、「ほんとう」というのは人それぞれによって違う。「意味」はひとそれぞれによって違う。何か共通するものがあるとすれば、「意味」ではない「つよさ」であり、それが「まこと」だ。
 あ、こんなことは、いくら書いても抽象で終わってしまうか。

 で。(と、私は突然、飛躍する。)

 私はこの「叱る」と「つよさ」、「つよさ」と「まこと」を「ありがとう」という詩につなげて読む。「ありがとう」は病気のつれあいの髪を洗ってやる詩。この詩は、私は大好きだ。最初に読んだときに、その感想をブログに書いた(と思う)。何を書いたかは、やはり思い出せないのだが。
 髪の洗い方あまりにもうまいので、つれあいが、妙ないちゃもんをつける。松岡を叱る。

どこかでおんなの髪を洗ったことがあるのだろうという
だまってないでなんとかいえという
お國はこわれているのに
わたしはしんそこうれしくて
のどのあたりがいっぱいで
もう返事すらできないでいる
(うごくと、濡れるよ

 ここは、涙が出るほど美しい。
 「叱る」とき、叱る人はこころを動かしている。「本気」である。「ほんとう」が動いている。この詩の場合、それは「嫉妬」であり、「誤解」かもしれない。でも、「誤解」してでも「叱りたい」。その欲望(?)の奥には、松岡が好きだという「ほんとう」が動いている。「誤解する力」が生きている。
 「ほんとう」が動くとき、人は誰でもその人が好きだから「ほんとう」を動かす。それがときには「叱る」ということになる。「声」が「肉体」のなかまで入ってきて、問いただす。その「声」は「つよい」。「ほんとう」の「つよさ」で動いている。
 病気なのに、自分では髪も洗えないのに、まだ「つよさ」をもっている。そして、その「つよさ」を松岡を「叱る」ためにつかっている。
 もっと、ほかのことのために「つよさ」をつかうべきなのに。

 つれあいではなく、(つれあいであってもいいのだが)、誰かに叱られた記憶。その時の声の「つよさ」、そのひとの「ほんとう」が肉体の中に入ってきたときのことが、松岡の「肉体」のなかに「残っている」。残っているから、「つよさ」を「つよさ」として受け止めることができる。

 この「つよさ」に反応できるのは「肉体」そのものである。「しんそこ」と松岡は書いている。「心底」かもしれない。けれど「心」というような抽象的なものではない。もっと「肉体」そのものである。「心底」と書くと「意味」になってしまう。だから「しんそこ」と「意味」を引き剥がして書いている。さらに「しんそこ」を「のどのあたり」と言いなおしている。「こころ」は、いま「のどのあたり」で動いているのだ。「のど」は「声」を出す器官である。その「声」を出す器官を「こころ」がふさいでしまっている。だから「返事すらできない」。

 「声」ではなく「聲」と、松岡は書いている。そして「聲」の出てくる詩はたくさんある。この「聲」を松岡は「肉耳」で聞いている、というようなことを私は以前に書いたと思う。「肉眼」ということばがあるように「肉耳」というものがある。「心眼」ではなく「肉眼」で「肉体」そのもので「事実」に触れるように、「肉耳」で「事実(ほんとう)」というものを「肉体」のなかに取り込む。
 松岡は、「肉耳」の詩人(思想家)だと、私は感じている。








*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(58)

2018-09-04 08:30:26 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月04日(火曜日)

58 本能と修練

 彫刻を見ての感想である。

鹿を襲う獅子 獅子に襲われる鹿 と言いなおそうか
鹿を襲う昂りがあるなら 獅子に襲われる悦びもあるはず

 二つは等しく美しい、と高橋は言う。

私たちはあるとき襲う者であり べつのときには襲われる者
神のごとき彫刻家は知っていた 彼の魂以上に彼の腕が
左右いっぽんいっぽんの指先が 本能と修練とによって

 一行目の「言いなおす」という動詞が詩の出発点である。あらゆることは「言いなおす」ことができる。どう言いなおすかが「思想」である。
 「襲う/襲われる」という動詞は、「昂り/悦び」という感情の動きとして言いなおされる。
 彫刻家の仕事も、彫刻家と石という自他の関係で「襲う/襲われる」を言い直しができるだろう。
 彫刻家は石を彫るのではない。石に別の形を与えるのではない。石のなかにはすでに彫り出されるものが隠れている。彫刻家は隠れているものを表に出すだけである。彫っているのか、導かれて彫らされているのか。感情の交錯、鹿の恐怖と悦びのような、区別のつかないものがある。
 しかし、高橋は、そう簡単には言いなおさない。
 「襲う/襲われる」という自他の関係を、彫刻家ひとりの存在の中で反芻する。「魂/腕(指先)」という二元論でとらえ直す。
 「魂」は理想の形を思い描く。「腕(指先)」は現実には存在しない形を具体化するために動く。「襲う/襲われる」は「理想/具体」と言いなおされている。
 さらに刺戟的なことに、「理想/具体(現実)」は「本能/修練」と言いなおされることである。
 高橋にとって「理想」とは「本能」なのだ。
 この瞬間、高橋はギリシア哲学にぐいと近づく。
 世界に起きていることがら、自他の問題を、人間存在の、個人の問題としてことばとして反芻し、そのことばの運動にひとつの形を与える。
 高橋は「ことばの運動」を生み出すのだ。






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