松岡政則『あるくことば』(3)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)
もう一度、松岡の詩について書くつもりでいた。しかし、書く前に愛敬の詩について書こうと思った。実際に、きのう、書いた。で、愛敬の詩の感想を書いてしまうと、まだ書くつもりでいたことがあまりなくなった。愛敬の詩について感想を書きながら、どこかで松岡の詩の感想を書いていたのかもしれない。
松岡の詩については、しばしば書いているので、何を書いたかもよくわからなくなる。すでに書いたことかもしれないし、書こうと思っただけで書かなかったことかもしれない。私は書くと、書いたことをほとんど忘れてしまう。書きながら考えているだけなのだ。結論など、私は信じていないから。
詩集のページの角を折った箇所がいくつもある。そのひとつ。「これからのみどり」。
この行は、覚えている。でも、何を書いたかは覚えていない。聞いた声が肉体の中に入ってきて、松岡の肉体を内部から鍛え直す。「叱る」ということが、そんなふうに具体化する。きっと、他人の声で自分の肉体を鍛え直すときの力、その動き方を覚えているのだろう。
で、その詩のなかに、こんな行がある。
ここは覚えていない。覚えていないけれど、今回、ここに私は棒線を引いている。ページを折るだけではなく、棒線を引いているのは、何か書こうと思ったことがあるからだ。何を書きたかったのか。
「からだのどこかにのこる」の「のこる」だな、と思う。
この行は「みたこと」と書いているが、からだのなかに残るのは「みたもの」とはかぎらないだろう。「聞いたこと」も残る。そして「聞いたこと」は、もしかしたら「声」かもしれないと思う。たとえば「つよい訛り」のその「訛り」というよりも「つよさ」。また「意味」でもない。「叱られた」ときの「叱る」、その「叱りのつよさ」。内容(意味)以上に「つよさ」が大事なのだ。「つよさ」によって、人間は、ことの大事さを知る。「意味」はあとからやってくる。「意味」は、あとで納得できるものである。
この「つよさ」とは「まこと」と言いなおされていると思う。「まこと」とは「ほんとう」ということだが、「ほんとう」というのは人それぞれによって違う。「意味」はひとそれぞれによって違う。何か共通するものがあるとすれば、「意味」ではない「つよさ」であり、それが「まこと」だ。
あ、こんなことは、いくら書いても抽象で終わってしまうか。
で。(と、私は突然、飛躍する。)
私はこの「叱る」と「つよさ」、「つよさ」と「まこと」を「ありがとう」という詩につなげて読む。「ありがとう」は病気のつれあいの髪を洗ってやる詩。この詩は、私は大好きだ。最初に読んだときに、その感想をブログに書いた(と思う)。何を書いたかは、やはり思い出せないのだが。
髪の洗い方あまりにもうまいので、つれあいが、妙ないちゃもんをつける。松岡を叱る。
ここは、涙が出るほど美しい。
「叱る」とき、叱る人はこころを動かしている。「本気」である。「ほんとう」が動いている。この詩の場合、それは「嫉妬」であり、「誤解」かもしれない。でも、「誤解」してでも「叱りたい」。その欲望(?)の奥には、松岡が好きだという「ほんとう」が動いている。「誤解する力」が生きている。
「ほんとう」が動くとき、人は誰でもその人が好きだから「ほんとう」を動かす。それがときには「叱る」ということになる。「声」が「肉体」のなかまで入ってきて、問いただす。その「声」は「つよい」。「ほんとう」の「つよさ」で動いている。
病気なのに、自分では髪も洗えないのに、まだ「つよさ」をもっている。そして、その「つよさ」を松岡を「叱る」ためにつかっている。
もっと、ほかのことのために「つよさ」をつかうべきなのに。
つれあいではなく、(つれあいであってもいいのだが)、誰かに叱られた記憶。その時の声の「つよさ」、そのひとの「ほんとう」が肉体の中に入ってきたときのことが、松岡の「肉体」のなかに「残っている」。残っているから、「つよさ」を「つよさ」として受け止めることができる。
この「つよさ」に反応できるのは「肉体」そのものである。「しんそこ」と松岡は書いている。「心底」かもしれない。けれど「心」というような抽象的なものではない。もっと「肉体」そのものである。「心底」と書くと「意味」になってしまう。だから「しんそこ」と「意味」を引き剥がして書いている。さらに「しんそこ」を「のどのあたり」と言いなおしている。「こころ」は、いま「のどのあたり」で動いているのだ。「のど」は「声」を出す器官である。その「声」を出す器官を「こころ」がふさいでしまっている。だから「返事すらできない」。
「声」ではなく「聲」と、松岡は書いている。そして「聲」の出てくる詩はたくさんある。この「聲」を松岡は「肉耳」で聞いている、というようなことを私は以前に書いたと思う。「肉眼」ということばがあるように「肉耳」というものがある。「心眼」ではなく「肉眼」で「肉体」そのもので「事実」に触れるように、「肉耳」で「事実(ほんとう)」というものを「肉体」のなかに取り込む。
松岡は、「肉耳」の詩人(思想家)だと、私は感じている。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
もう一度、松岡の詩について書くつもりでいた。しかし、書く前に愛敬の詩について書こうと思った。実際に、きのう、書いた。で、愛敬の詩の感想を書いてしまうと、まだ書くつもりでいたことがあまりなくなった。愛敬の詩について感想を書きながら、どこかで松岡の詩の感想を書いていたのかもしれない。
松岡の詩については、しばしば書いているので、何を書いたかもよくわからなくなる。すでに書いたことかもしれないし、書こうと思っただけで書かなかったことかもしれない。私は書くと、書いたことをほとんど忘れてしまう。書きながら考えているだけなのだ。結論など、私は信じていないから。
詩集のページの角を折った箇所がいくつもある。そのひとつ。「これからのみどり」。
ときどきつよい訛りで叱られたくなる、
そういうからだだった
この行は、覚えている。でも、何を書いたかは覚えていない。聞いた声が肉体の中に入ってきて、松岡の肉体を内部から鍛え直す。「叱る」ということが、そんなふうに具体化する。きっと、他人の声で自分の肉体を鍛え直すときの力、その動き方を覚えているのだろう。
で、その詩のなかに、こんな行がある。
みたことはからだのどこかにのこる
でもだいじょうぶ
こうやってあるいておりさえすれば
五月のまことがふれにくる
ここは覚えていない。覚えていないけれど、今回、ここに私は棒線を引いている。ページを折るだけではなく、棒線を引いているのは、何か書こうと思ったことがあるからだ。何を書きたかったのか。
「からだのどこかにのこる」の「のこる」だな、と思う。
この行は「みたこと」と書いているが、からだのなかに残るのは「みたもの」とはかぎらないだろう。「聞いたこと」も残る。そして「聞いたこと」は、もしかしたら「声」かもしれないと思う。たとえば「つよい訛り」のその「訛り」というよりも「つよさ」。また「意味」でもない。「叱られた」ときの「叱る」、その「叱りのつよさ」。内容(意味)以上に「つよさ」が大事なのだ。「つよさ」によって、人間は、ことの大事さを知る。「意味」はあとからやってくる。「意味」は、あとで納得できるものである。
この「つよさ」とは「まこと」と言いなおされていると思う。「まこと」とは「ほんとう」ということだが、「ほんとう」というのは人それぞれによって違う。「意味」はひとそれぞれによって違う。何か共通するものがあるとすれば、「意味」ではない「つよさ」であり、それが「まこと」だ。
あ、こんなことは、いくら書いても抽象で終わってしまうか。
で。(と、私は突然、飛躍する。)
私はこの「叱る」と「つよさ」、「つよさ」と「まこと」を「ありがとう」という詩につなげて読む。「ありがとう」は病気のつれあいの髪を洗ってやる詩。この詩は、私は大好きだ。最初に読んだときに、その感想をブログに書いた(と思う)。何を書いたかは、やはり思い出せないのだが。
髪の洗い方あまりにもうまいので、つれあいが、妙ないちゃもんをつける。松岡を叱る。
どこかでおんなの髪を洗ったことがあるのだろうという
だまってないでなんとかいえという
お國はこわれているのに
わたしはしんそこうれしくて
のどのあたりがいっぱいで
もう返事すらできないでいる
(うごくと、濡れるよ
ここは、涙が出るほど美しい。
「叱る」とき、叱る人はこころを動かしている。「本気」である。「ほんとう」が動いている。この詩の場合、それは「嫉妬」であり、「誤解」かもしれない。でも、「誤解」してでも「叱りたい」。その欲望(?)の奥には、松岡が好きだという「ほんとう」が動いている。「誤解する力」が生きている。
「ほんとう」が動くとき、人は誰でもその人が好きだから「ほんとう」を動かす。それがときには「叱る」ということになる。「声」が「肉体」のなかまで入ってきて、問いただす。その「声」は「つよい」。「ほんとう」の「つよさ」で動いている。
病気なのに、自分では髪も洗えないのに、まだ「つよさ」をもっている。そして、その「つよさ」を松岡を「叱る」ためにつかっている。
もっと、ほかのことのために「つよさ」をつかうべきなのに。
つれあいではなく、(つれあいであってもいいのだが)、誰かに叱られた記憶。その時の声の「つよさ」、そのひとの「ほんとう」が肉体の中に入ってきたときのことが、松岡の「肉体」のなかに「残っている」。残っているから、「つよさ」を「つよさ」として受け止めることができる。
この「つよさ」に反応できるのは「肉体」そのものである。「しんそこ」と松岡は書いている。「心底」かもしれない。けれど「心」というような抽象的なものではない。もっと「肉体」そのものである。「心底」と書くと「意味」になってしまう。だから「しんそこ」と「意味」を引き剥がして書いている。さらに「しんそこ」を「のどのあたり」と言いなおしている。「こころ」は、いま「のどのあたり」で動いているのだ。「のど」は「声」を出す器官である。その「声」を出す器官を「こころ」がふさいでしまっている。だから「返事すらできない」。
「声」ではなく「聲」と、松岡は書いている。そして「聲」の出てくる詩はたくさんある。この「聲」を松岡は「肉耳」で聞いている、というようなことを私は以前に書いたと思う。「肉眼」ということばがあるように「肉耳」というものがある。「心眼」ではなく「肉眼」で「肉体」そのもので「事実」に触れるように、「肉耳」で「事実(ほんとう)」というものを「肉体」のなかに取り込む。
松岡は、「肉耳」の詩人(思想家)だと、私は感じている。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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