沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』(編集工房ノア、2018年09月01日発行)
沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』は静かな詩集だ。ことばが、静かだ。巻頭の「一台の自転車のような祈りが道を行く」の一連目。
何が書いてあるのか、わからない。けれど「祈り」ということばと「決めてきた」ということばが響きあい、そこに人間が見えてくる。「抱きしめる」という動詞が、「祈り」と「決める」をつないでいる。
「祈る」というのは何かを「決める」ことなのだと教えられる。「決める」が先にあって、それから「祈る」。
「自転車のような」という比喩はわかりにくい。自転車を引いているのか、自転車に乗っているのか。私は自転車を引いて、人があるいていく姿を思い浮かべた。それでもなお「自転車のような」ということばが「比喩」として響いてくるのは、「決めて/祈る」ことが、自転車に乗るときのように、ペダルを漕ぎ続けること、持続することが「倒れない」ことにつながるからだろう。
「決めた」ことを胸に「抱きしめ」つづける、持ちつづける、維持するということが「祈り」なのだと教えられる。その「持ちつづける」ときの「強さ」がことばを貫いている。
そしてその「強さ」を支えているのは「問い」なのだ。「問い/問う」があるからこそ、それに「答える」があり、その反芻がある。そうやって「つづける」ことができる。単純に信じる(身を任せる)ではないのだ。
この「強さ」(祈り)に通じるものを、「Infant-本の破れ」にも感じた。
「惨憺たる証言が記されている」からこそ、人はそこに「書き込み」をしてしまうのだろう。「問い」と「答え」が交錯する。こころが動き、何かを書かずにはいられない。
その書き込みこそが「祈り」だろう。それを読んだ瞬間、何かを「決めた」のだ。そして、それを胸にしっかりと「抱いた」。でも、抱いても抱いても、こぼれてくるもの、あふれてくるものがある。それが「書き込み」となって、そこにある。
読んだ人の「祈り」(決めたこと)がそこに残っている。本は、読んだ人の「祈り」を抱いたまま、次から次へと人をわたっていく。
「祈り」が引き継がれていく。
詩の最終行。
こう書きながら,沢田の指もまた、そこに書かれている「文字」を、「祈り」をなぞっているのだろう。声に出さず、「祈り」を固く抱きしめるように。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』は静かな詩集だ。ことばが、静かだ。巻頭の「一台の自転車のような祈りが道を行く」の一連目。
一台の自転車のような祈りが道を行く
ある晴れた日に
祈りを抱きしめた人は
まだ問い続けている 河口までの
選ぶほどではない道をそれでも決めてきたことについて
何が書いてあるのか、わからない。けれど「祈り」ということばと「決めてきた」ということばが響きあい、そこに人間が見えてくる。「抱きしめる」という動詞が、「祈り」と「決める」をつないでいる。
「祈る」というのは何かを「決める」ことなのだと教えられる。「決める」が先にあって、それから「祈る」。
「自転車のような」という比喩はわかりにくい。自転車を引いているのか、自転車に乗っているのか。私は自転車を引いて、人があるいていく姿を思い浮かべた。それでもなお「自転車のような」ということばが「比喩」として響いてくるのは、「決めて/祈る」ことが、自転車に乗るときのように、ペダルを漕ぎ続けること、持続することが「倒れない」ことにつながるからだろう。
「決めた」ことを胸に「抱きしめ」つづける、持ちつづける、維持するということが「祈り」なのだと教えられる。その「持ちつづける」ときの「強さ」がことばを貫いている。
そしてその「強さ」を支えているのは「問い」なのだ。「問い/問う」があるからこそ、それに「答える」があり、その反芻がある。そうやって「つづける」ことができる。単純に信じる(身を任せる)ではないのだ。
この「強さ」(祈り)に通じるものを、「Infant-本の破れ」にも感じた。
わたしのダイニングテーブルの上に
市外の図書館から借り出され、届いた一冊の本
捲ると一枚の紙が挿まれていた
この資料には汚れがあります。
(P44、63-65、115、120、155、228)
書き込みがあります。
(そで)
破損個所があります。
(表紙破れ、ワレ P117、130)
その他。
(折れあと P69)
この本のなんというしずかさだろう
あまたのいたみをくぐりきて
その一ページには惨憺たる証言が記されているのに
(注=本文は「P」の後にドットがあるのだが、私のワープロでは
表記できないので省略した)
「惨憺たる証言が記されている」からこそ、人はそこに「書き込み」をしてしまうのだろう。「問い」と「答え」が交錯する。こころが動き、何かを書かずにはいられない。
その書き込みこそが「祈り」だろう。それを読んだ瞬間、何かを「決めた」のだ。そして、それを胸にしっかりと「抱いた」。でも、抱いても抱いても、こぼれてくるもの、あふれてくるものがある。それが「書き込み」となって、そこにある。
読んだ人の「祈り」(決めたこと)がそこに残っている。本は、読んだ人の「祈り」を抱いたまま、次から次へと人をわたっていく。
「祈り」が引き継がれていく。
詩の最終行。
(いかなる指が、そこをなぞったのだろう)
こう書きながら,沢田の指もまた、そこに書かれている「文字」を、「祈り」をなぞっているのだろう。声に出さず、「祈り」を固く抱きしめるように。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
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