詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(60)

2018-09-06 08:27:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
60 ディオティマ たち

二千五百年後の私にも マンティネイアの婦人がいた
それも一人ではない 人生の節目節目に異なる貌で
登場しては そのつどエロスについて教えてくれた
当然エロスにもそのつど異なる貌 その変貌こそが
エロスの本質なのだ といまならわかる このいのちも

 「59 エロス頌」の続篇である。
 「変貌」は「変貌する」と動詞にして読んでみる。いまとは違う「異なる貌」(「エロス頌」では「異形」と書かれていた)に変化する、と。
 この「変貌する」という動詞がこの詩のキーワードだろうか。
 「そのつど」という副詞の方が重要だ。
 「そのつど」は「節目節目」を言いなおしたもの。「節目」というのは「切断」であると同時に「接続」であり、「終わり」であると同時に「始め」でもある。
 そこには「始まる」が含まれている。
 「始める」は「立つ」でもある。「出立(する)」ということばがある。「出発(する)」にひとしい。
 そして、この「そのつど」の特徴は、繰り返しである。「繰り返す」という動詞が含まれている。しかし、同じ繰り返しではない。そのつど、違う繰り返しである。「変わる」を繰り返すのだ。
 「変貌する」の「変わる」は、新しく生み出し続ける。あるいは生まれ変わるるのである。
 「繰り返す」ではなく、「そのつど/生まれる」と動詞を読み替えた方が、高橋の思想(肉体)に近づくだろう。
 恋をするたびに、ひとは生まれ変わる。恋の相手が複数なら、恋する高橋自身も複数である。
 「ディオティマ」ではなく、一呼吸おいて「たち」という複数をあらわすことばがつづいている。高橋は「高橋 たち」になる。新しい「エロス」自身に高橋は生まれ変わる。それを可能にするのがギリシアだ。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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