詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(57)

2018-09-03 11:00:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
57 断片

 「56 断片を頌えて」の続篇。ただし、この詩で取り上げられるのは彫像ではない。

引用によって僅かに残された断片は
かつて在った完璧な詩の いわば精髄
それが放つ光は後世を惹きつけて止まない

 「精髄」であるから、他の部分が失われても残ったのか。
 そうとは言えないだろう。
 ごく普通に見えることばであっても、それは「完璧な詩」へとつながっている。その一部であったのだから。「断片」はいつでも「精髄」なのだ。
 この詩で問われているのは「引用」と「精髄」の関係である。いや、「引用」とは何かということである。
 「引用」を高橋は、こう言いなおしている。

そこから新しい詩が始まらなければならない
詩の生命力とは 絶えず始まりを産みつづけること

 「引用」は何かを引いてきてつかうということではない。「始める」ことである。そこにあるものを「到達点」ではなく「出発点」としてとらえ直すこと。
 「断片」は詩にしろ彫像にしろ「完成形」の一部である。しかしそれは「完成形」を到達点と見るから「断片」という定義になるだけである。「完成形」はどこから始まったのか、誰も知らない。「断片」が出発点であったかもしれない。
 残された「断片」を見て、後世の人間は「完成形」を夢想する。同じように、それをつくった人も「断片」にひそむ力を出発点として「完成形」を目指したかもしれない。「事実」は、わからない。
 そして、ひとつの具体的な「断片」から出発するとしても、その「完成形」はひとつとはかぎらない。
 「完成形」がどうであってもかまわないとまではいわないが、問題は「始める」ことである。「断片」としての「事実」。そこから始める。始めることによってできた部分、そこからさらに始める。
 この「始める」を高橋はさらに「産む」という動詞で言いなおしている。
 詩ではなく、これを哲学に応用すると、ソクラテスの「産婆術」になる。ギリシアは「産む」文化である。



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愛敬浩一「冬の始まり」

2018-09-03 10:29:40 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「冬の始まり」(「詩的現代」25、2018年06月07日)

 松岡政則『あるくことば』は一休みして、愛敬浩一「冬の始まり」について。
 「重なる」ということばについて書いていたとき、ふと、思い出したのである。どこかで、「重なる」と通じることばを読んだことがあるぞ、と。
 何だったか思い出せないが、不思議なことに本を開くと、そういうページ、そのことばはふいに目の中に飛びこんでくる。「頭」が覚えているのではなく「目」が覚えている。手に取った本の厚み(重さ)とか感触が、そういうものを引き寄せてくれる。ことばにならなかったことがばが、急に動き始める。
 「冬の始まり」は、こう始まる。

スティーブン・キングは言っている
「われわれは、現実の恐怖と折り合っていくための一助となるべく
ホラーを生産しているのだ」と。
そうだ
私が未だ詩などを書いているのも
確かに「現実の恐怖と折り合っていくため」かもしれない。

 繰り返される「折り合う」という動詞が、松岡の書いている「重なる」と通い合う。「折り合う」というのは「折って、合わせる」であり、この「合わせる」と「重なる」はほとんど同じだ。「折って、重ねる」。ただ「重ねる」のではなく、「折って」がある方が妙に「肉体」を刺戟する。おもしろい。「折る」というのは、何かしらの「無理」がある。そのままではなく「折って」、重ねる。「折る」方に、無理というか、工夫というか、相手に合わせるような力が働いている。
 では、この「折って、合わせる」(折り合う)というのは、具体的にはどういうことか。愛敬は、詩の中で「何を」折って、「何に」合わせようとしているのか。これはなかなか説明がむずかしいのだが。
 詩は、こうつづいている。

あの、震災の後の
あの数年前の
群馬の平野部でも大変だった、大雪の時
父はまだ生きていた。
あの日
後にも先にも
群馬の平野では
あんな大雪を見たこともなかった。
それでも
あの大雪を共に体験できたのは
良かったのかもしれない。
いやいや、もっと禍々しい物語が必要だ。
あの大雪には何か秘密がなかったか
雪の重さで
実家の
裏の物置が傾いたのには
何か別の意味がなかったか。

 父の死と大雪を重ね合わせようとしている。もちろん、父の死と大雪というのは完全に別なものである。そういうものが重なるわけがない。だから、重ねるために、何かを「折る」のだ。
 何かって、何?
 わからないけれどね。
 「禍々しい物語」か。大雪を、冬の現象ではなく、違うものとしてとらえる。大雪の物語をつくりだす。その物語のなかにあるものを「折って」、父の死の方に「合わせる」。
 こういうことって、「論理的(科学的?)」にはできないことなのだけれど、「心情」というのは論理でも科学でもないからね。

倒れた日の午前中にも、車を運転していたという父
いやいや、父は死んだ後でも運転すべきだった
職場から病院へ駆けつけた私に
「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように

 あ、ここに「恐怖」が出てくる。
 父が死ぬかもしれない。それは母にとっては、夫が死ぬという「現実の恐怖」である。それを受け入れる(それと折り合いをつける)というのはむずかしい。母親は、自分の恐怖を「折って」しまって、消してしまわないと、いけない。「死」が恐怖なのではなく、「死んでしまうかもしれない」が恐怖である。その気持ちがあるあいだは、父は死ねない。逆に言うと、父が生きているあいだは、母は夫は死ぬかもしれないという恐怖と向き合い続けている。恐怖が父を生かしている。というと、言いすぎになるが、何か、切り離せない力で「死ぬかもしれない(恐怖)」と「まだ生きている」がつながっている。これを「折って」、たたききらないことには「死」はやってこない。
 うーむ。

「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように
その時こそ
死んだ父が起き上がって
また、大雪を降らせ
我々を恐怖のどん底におとしいれても良かった。

 まあ、こういうことは起きない。
 で、「折り合い」がついたのか、つかないのか、わからないまま、父は死ぬ。
 そして。

三回忌も済んだのに
ごく普通に死んだだけなのに
身近な者が死ぬことが
こんなにも重く
いつまでも終わることもなく
いつまでも、いつまでも
腹の奥底の方で
疼くような
痛みが続き
ホラーよりもキツイなんて
考えもしなかった。
ああ、そうか
それが「冬の始まり」ということだったのか。

 愛敬は、彼自身の「折り合い」をつけようとしている。(母親は折り合いがついたかどうかわからないが。)大雪と父の死を結びつける。大雪を思い出すということで、父の死を記憶するということで、「折り合う」のである。「折り合う」ということは、その時を「忘れない」(覚えておく)と言いなおされている。
 これは、父の死と雪の日を「重ねる」ということでもある。でも愛敬は「重ねる」ではなく「折り合う」ということばを選んでいる。この微妙な違い、「折り合う」ということばをつかいたいというところに、愛敬の「肉体」が出ている。
 「折り合って」、そのあとどうなったか。恐怖は消え、かわりに「疼き」と「痛み」がやってきた。愛敬は「腹の奥底」と書いているが、それは「肉体」そのものに刻みこまれる。そういう「肉体の犠牲」が「自己を折る」ということであり、それによって死は現実として受け止められていく。「肉体」のなかで共存する。
 これ以上は、説明できない。私のことばは動いていかない。ただ、ここまで書いてきて、松岡と愛敬は、「肉体」そのものとして違った存在として生きているという「手触り」(手応え?)のようなものが、私の「肉体」のなかに残る。愛敬と松岡がたとえ同じことを書いているのだとしても、私の「肉体」には別々の「肉体」として残る。「重なる」と「折り合う」というふたつの動詞として、残る。
 
 「折る」というのは印をつけることでもある。枝折りは山歩きのとき道に迷わないように歩いたところにある枝を折って目印にする。私は本を読みながら、ページの角を折る。(ドッグイヤーをつくる)。それはやっぱり覚えておくためのものである。ドッグイヤーの場合は、枝折りと違って、紙を「折り合わせる」ということでもある。
 あ、こういうことは愛敬の詩とは関係ないことなのだが。
 でも、関係ないからこそ、実はほんとうは関係している。
 「肉体」の動きというのは、無意識のうちに「肉体」のなかに何かを積み重ねる。それが「動詞」のなかに反映している。それを感じるとき、私は「思想」に触れた気持ちになる。








*

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外国人労働者の問題点(東京医大の入試操作とつなげて考えよう)

2018-09-03 00:07:30 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人労働者の問題点(東京医大の入試操作とつなげて考えよう)
             自民党憲法改正草案を読む/番外223(情報の読み方)

 2018年09月02日の朝日新聞(西部版・14版)の4面。

外国人労働者 遠い「共生」

 という見出しで、問題点を整理している。なぜ、日本が外国人を「労働者」として完全に受け入れないか。移民として認めないか。「受け入れ長期的視点を」という見出しのある部分に、こう書いてある。外国人を労働者として受け入れると、最初は税収増(企業がもうかる)というメリットがあるが、長期的に見ると住宅や教育などにかかる社会的コストの方が上回る。実習制度がはじまる前年、1992年に旧労働省がそう試算した、と書いてある。

 5-10年働き、家族を呼び寄せ学齢期の子ども2人を持つと、メリットの4・7倍、年1兆4243億円のコストが発生する。扶養家族が増えると税収は下がり、住宅費や教育費などが必要になる。外国人が単身で働くうちはメリットが4倍にのぼる。実習生に家族帯同が認められなかった背景には、この試算がある。

 「扶養家族が増えると税収は下がり」というのは、扶養家族手当てを企業が支払うので、その分だけ法人税(?)が相殺されて少なくなる、ということだろうなあ。外国人が支払う税金(所得税)そのものは減らないから。ようするに、企業がもうからなくなる。だから、家族といっしょではだめ、単身で、という冷酷な制度になった。
 住宅費、教育費というのも、外国人が支払う「家賃」や「教育費」のことではないなあ。住宅を整備しないといけない、外国人向けの教育を整えないといけない。それに金がかかる。朝鮮学校の教育費は、民主党の時代に「無償化」されたが、自民党になって「無償化」は取り消された。いろいろな国からやってくる人の子どもの教育はどうするか。どう試算したか知らないけれど、金がかかる。だから、金がかからないように、「単身」に限定し、なおかつ日本に定住しないように、追い返す。
 これを「実習制度」という「きれいなことば」で隠している。
 傑作なのは、次の部分である。

 「そのコストをだれが負担するのか。国か地方か、それとも企業か。結論は出ず、限定的な受け入れに決まった」。当時を知る旧労働省幹部は振り返る。

 国も地方も企業も、外国人労働者がいないと社会が動かないことを認識している。でも、金は払いたくない。「生産性」重視の思想がはびこっている。
 さらに、こうも書いてある。

 当初は製造業を中心に17職種だけだったが、屋上屋を架すように制度は拡大され、現在では農水産業など77業種に拡大。建前とは違って事実上、単純労働の受け皿になっている。非正規社員と同じく景気変動の波にあわせた雇用調整に使われ、10年前のリーマン・ショックでは実習生もリストラされた。

 むごいものである。「奴隷制度」とも批判されたので、これを緩和して「在留資格」を創設するというのが安倍の狙いだが、その制度でもやっぱり家族の帯同は認めないという。
 帰国した外国人がこういうことを自分の国で語り始めたらどうなるだろう。もう日本には誰も来なくなる。日本はもう滅びているとしかいいようがないが、それを加速させるのが安倍政権である。
 安倍にとって都合のいいことだけを並べ立て、不都合は隠す。優遇されたいなら、安倍の「友達(支援者)」になれ、と要求する。優遇されるのは、いっしょに寿司を食い、ゴルフをするほんの一握りの「友達(支援者)」に過ぎないのに、みんな「自分こそは友達」と目の色を変えている。総裁選で安倍に投票したって、「大臣」になれるのはごく一部。ほかの国会議員は「干される」。石破と少しも変わらないのに、そのことに気づいていない。
 あ、脱線してしまったか。

 ちょっと話を元にもどすと。
 外国人に対して、労働力としてなら歓迎するが、家族同伴は国(地方自治体)の出費がかさむからだめというのは、よくよく考えると、こういうことにならないか。
 いま、安倍は、「働き方改革」という名の元に女性を働かせようと躍起になっている。一方で、少子化対策のために、「子供を産め」とけしかけている。子供を産めないのは「生産性が低い」そうである。
 しかし、働く女性が次々に妊娠し、出産する。出産休暇、育児休暇をとる。子どもが増えて学校を造らなければならない。教師も必要になる。コストがかかる。そうなったら、どういうのだろうか。
 女性は、妊娠・出産にともなうデメリットが多い。女性を雇うな、ということにならないか。重要なポストに女性を登用するな、ということにならないか。実際、東京医大では、そういう理由で女性の合格率を操作していたのではないか。
 日本人であっても差別されるのだ。女性は実際に差別されている。
 外国人実習生の問題は、単に外国人実習生の問題ではなく、日本の労働システムの問題である。労組は外国人労働者と連携し、日本の労働システムそのものを変える運動をしないといけない。
 いまは、そのチャンスである。
 でも、連合なんて、「経営者予備軍」(自民党支持予備軍)に過ぎないから、自分の「権益」を守ることしかしない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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