須藤洋平『赤い内壁』(3)(海棠社、2018年09月30日発行)
「ワゴンの記録」。
この三行は、どういうふうにつながっているか。「重ねられた書物から飛び降りた」のは「水鳥」か、「女」か。どちらとも読むことができる。「水鳥の熱い小便のように」は「人混みにまぎれた」の「まぎれた」という動詞を修飾しているように読むのが「学校文法」かもしれない。でも、「学校文法」にしたがって読めば何かがわかるとはかぎらない。
「女は人混みにまぎれた」という「事実」があって、そのほかは、その行を修飾することばだと仮定してもいいが、そんなことをしても何もわからない。なぜ、そんなことばを「修飾節」としてつかったのか。もしかすると「女は人混みにまぎれた」というこよりも、「重ねられた書物から飛び降りた」「水鳥の熱い小便のように」の方を書きたかったのかもしれない。実際に立ち会ったのは「重ねられた書物」だけかもしれない。「書物」もあやしく、「重ねられた」ということだけを見たのかもしれない。「事実」は、どこにあるかわからない。「枕詞」のように、ことばを導くためのものとみなされているものが、ほんとうはいちばん大事な「事実」ということもありうる。。
「穴」は「女の穴」かもしれないが、性器そのものを描きたいのか、「生い茂る」を書きたいのか「うなだれて」を書きたいのか。あるいは「ほの暗い」を書きたいのか、「軽はずみ」「男」を書きたいのか。「よぶ」という動詞を書きたいのか。
こんなことは区別できないし、区別しても始まらない。
ことばは「方便」として「前後」して書かれる。「文体」のなかには必然的に「時間」が入り込む。けれど、整然と順序立てて進む時間、時計の針のように進む時間、あるいは「意識」の流れというものが、ほんとうに存在するのか。
書かれていることばの順序と、そのことばが現実をつきやぶって須藤の意識をひっかきまわした順序は逆かもしれない。すべてが同時だったかもしれない。
だから、たとえ、ことばがその順序で書かれていたとしても、その順序にしたがって読むことが「正しい」とはかぎらない。むしろ、ことばの順序を無視して、いま、自分がどのことばに反応しているか、それを見極めることが大事ということもありうる。
私は、この六行では、
に全身をつかまれた。私が「熱い小便」になったような感じだ。「熱い小便」は「重ねられた書物から飛び降りた」のか。その「飛び降りる」ときの放物線が「熱い小便」の描く形か。あるいは、「人混み」のなかで「熱い小便」をすることを想像し、ああ、それができたらどんなに楽しいだろうとも思う。ほんとうは、そういうことをしたい。けれども、その欲望はきっとかなえられずに「人混み」に「まぎれ」消えていく。そういうことも思ったりする。須藤は、そうは書いていないのだが。
いや、書いていないように見えるだけで、書いているのかもしれない。ほんとうは、そう書きたいのだが、書き方がわからずに、こうなっているのかもしれない。
こういう感想は、感想になっていない。もちろん批評なんかにはなっていない。そんなことは、知っている。私は端から「批評」など書くつもりはない。論理を組み立て、ある評価を「結論」として指し示したいとは思っていない。
思っていることを、思ったまま、どこまで詩のことばといっしょに動いて行けるか。私のことばを動かして行ける。それ以外は何もしたくはない。
ああ、ここはイメージが「過激」になっていない。「同じ音」が繰り返され、おだやかな「歌」のように聞こえる。「変態性欲」ということばさえ、純粋な性欲、あるいは無欲の性欲(?)のように見えてしまう。聞こえてしまう。
この「音楽」を聞いたあとでは、というのは、変だが……。
「生い茂るはほら穴」「ほの暗い穴は」の「は」の繰り返しさえ「音楽」だなあ、と感じ直してしまう。「軽はずみ」のなかにも「は」がある。時間がまきもどされたように、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。
何を書いているか、ぜんぜん、わからない。いや、正確に言うと、わからないのは「関係」である。「つながり」である。ひとつひとつのこと、一行一行は、「わかる」。言いなおすと、その「わかる」は「ほんとう」と感じられるということである。
「ことば」なのに、「ことば」ではなく「事実」とし目の前に浮かんでくる。
これは書き出しからそうなのである。一行一行(あるいは、ひとことひとこと)が全部「ほんとう」である。「ほんとう」のものは何か不思議な力で「共存」している。それは、ある意味では「暴力」である。共存してほしくないものまで共存している、現実に存在するのが「世界」だからである。この暴力に耐えられずに、ひとは「論理」でそれを整理整頓する。ひとは「世界」を整えて、自分を守っている。
須藤は「学校文法」にしたがって「世界」を整えようとはしていない。整える前に「事実」をことばにしてしまう。整えられた世界を破壊し、その瞬間に、ぐさっと刺さってくる断片を受け止めている。
たとえばビルが爆発したとする。ガラスの破片が飛び散り、体中につきささる。そのとき、そこには「時間差」(順序)というものがあるはずだが、ひとは「順序」を識別できない。すべては「一瞬」のうちに起きてしまう。
須藤は、その「一瞬」を「一瞬」そのままの形でことばにしようとしていると思って読めばいい。あらゆる行に前後(時間差)はない。「方便」として、そう書いているだけである。読む人間は、いちばん先に感じた痛み(衝撃)を中心にして、「世界」を追体験すればいい。
もちろん、正確な追体験などできない。
だから私は「誤読」を、「誤読」そのままとして、書く。弁解はしない。これが、私の須藤との「出会い方」なのだ。ほかの方法では、出会えない。「出会い」で何がわかるわけではない。須藤のことなど何もわからない。しかし、「須藤がいる」ということだけはわかる。この瞬間を、私は「詩の体験」と呼んでいる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
「ワゴンの記録」。
重ねられた書物から飛び降りた
水鳥の熱い小便のように
女は人混みにまぎれた
この三行は、どういうふうにつながっているか。「重ねられた書物から飛び降りた」のは「水鳥」か、「女」か。どちらとも読むことができる。「水鳥の熱い小便のように」は「人混みにまぎれた」の「まぎれた」という動詞を修飾しているように読むのが「学校文法」かもしれない。でも、「学校文法」にしたがって読めば何かがわかるとはかぎらない。
「女は人混みにまぎれた」という「事実」があって、そのほかは、その行を修飾することばだと仮定してもいいが、そんなことをしても何もわからない。なぜ、そんなことばを「修飾節」としてつかったのか。もしかすると「女は人混みにまぎれた」というこよりも、「重ねられた書物から飛び降りた」「水鳥の熱い小便のように」の方を書きたかったのかもしれない。実際に立ち会ったのは「重ねられた書物」だけかもしれない。「書物」もあやしく、「重ねられた」ということだけを見たのかもしれない。「事実」は、どこにあるかわからない。「枕詞」のように、ことばを導くためのものとみなされているものが、ほんとうはいちばん大事な「事実」ということもありうる。。
うなだれて生い茂るはほら穴
ほの暗い穴は軽はずみな男をよび
気の利いた鼠が足をそろえて踏みならす
「穴」は「女の穴」かもしれないが、性器そのものを描きたいのか、「生い茂る」を書きたいのか「うなだれて」を書きたいのか。あるいは「ほの暗い」を書きたいのか、「軽はずみ」「男」を書きたいのか。「よぶ」という動詞を書きたいのか。
こんなことは区別できないし、区別しても始まらない。
ことばは「方便」として「前後」して書かれる。「文体」のなかには必然的に「時間」が入り込む。けれど、整然と順序立てて進む時間、時計の針のように進む時間、あるいは「意識」の流れというものが、ほんとうに存在するのか。
書かれていることばの順序と、そのことばが現実をつきやぶって須藤の意識をひっかきまわした順序は逆かもしれない。すべてが同時だったかもしれない。
だから、たとえ、ことばがその順序で書かれていたとしても、その順序にしたがって読むことが「正しい」とはかぎらない。むしろ、ことばの順序を無視して、いま、自分がどのことばに反応しているか、それを見極めることが大事ということもありうる。
私は、この六行では、
熱い小便
に全身をつかまれた。私が「熱い小便」になったような感じだ。「熱い小便」は「重ねられた書物から飛び降りた」のか。その「飛び降りる」ときの放物線が「熱い小便」の描く形か。あるいは、「人混み」のなかで「熱い小便」をすることを想像し、ああ、それができたらどんなに楽しいだろうとも思う。ほんとうは、そういうことをしたい。けれども、その欲望はきっとかなえられずに「人混み」に「まぎれ」消えていく。そういうことも思ったりする。須藤は、そうは書いていないのだが。
いや、書いていないように見えるだけで、書いているのかもしれない。ほんとうは、そう書きたいのだが、書き方がわからずに、こうなっているのかもしれない。
こういう感想は、感想になっていない。もちろん批評なんかにはなっていない。そんなことは、知っている。私は端から「批評」など書くつもりはない。論理を組み立て、ある評価を「結論」として指し示したいとは思っていない。
思っていることを、思ったまま、どこまで詩のことばといっしょに動いて行けるか。私のことばを動かして行ける。それ以外は何もしたくはない。
緑けむる海けむる
音楽なんぞ鳴らし慣らした道は
繋がらない変態性欲とともにけむり
ああ、ここはイメージが「過激」になっていない。「同じ音」が繰り返され、おだやかな「歌」のように聞こえる。「変態性欲」ということばさえ、純粋な性欲、あるいは無欲の性欲(?)のように見えてしまう。聞こえてしまう。
この「音楽」を聞いたあとでは、というのは、変だが……。
「生い茂るはほら穴」「ほの暗い穴は」の「は」の繰り返しさえ「音楽」だなあ、と感じ直してしまう。「軽はずみ」のなかにも「は」がある。時間がまきもどされたように、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。
髭を固めた老人と並んで煙突掃除しながら
最小限主義者の血の揺すぶりのように言った
「脅かすつもりじゃなかったんだ」
犬はすっと、背すじを伸ばした。
そして寝る。水を飲んでまた寝る。
(実は3兄弟。上がフリークスで自殺している)
何を書いているか、ぜんぜん、わからない。いや、正確に言うと、わからないのは「関係」である。「つながり」である。ひとつひとつのこと、一行一行は、「わかる」。言いなおすと、その「わかる」は「ほんとう」と感じられるということである。
「ことば」なのに、「ことば」ではなく「事実」とし目の前に浮かんでくる。
これは書き出しからそうなのである。一行一行(あるいは、ひとことひとこと)が全部「ほんとう」である。「ほんとう」のものは何か不思議な力で「共存」している。それは、ある意味では「暴力」である。共存してほしくないものまで共存している、現実に存在するのが「世界」だからである。この暴力に耐えられずに、ひとは「論理」でそれを整理整頓する。ひとは「世界」を整えて、自分を守っている。
須藤は「学校文法」にしたがって「世界」を整えようとはしていない。整える前に「事実」をことばにしてしまう。整えられた世界を破壊し、その瞬間に、ぐさっと刺さってくる断片を受け止めている。
たとえばビルが爆発したとする。ガラスの破片が飛び散り、体中につきささる。そのとき、そこには「時間差」(順序)というものがあるはずだが、ひとは「順序」を識別できない。すべては「一瞬」のうちに起きてしまう。
須藤は、その「一瞬」を「一瞬」そのままの形でことばにしようとしていると思って読めばいい。あらゆる行に前後(時間差)はない。「方便」として、そう書いているだけである。読む人間は、いちばん先に感じた痛み(衝撃)を中心にして、「世界」を追体験すればいい。
もちろん、正確な追体験などできない。
だから私は「誤読」を、「誤読」そのままとして、書く。弁解はしない。これが、私の須藤との「出会い方」なのだ。ほかの方法では、出会えない。「出会い」で何がわかるわけではない。須藤のことなど何もわからない。しかし、「須藤がいる」ということだけはわかる。この瞬間を、私は「詩の体験」と呼んでいる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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