詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須藤洋平『赤い内壁』(3)

2018-09-26 20:24:51 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(3)(海棠社、2018年09月30日発行)

 「ワゴンの記録」。

重ねられた書物から飛び降りた
水鳥の熱い小便のように
女は人混みにまぎれた

 この三行は、どういうふうにつながっているか。「重ねられた書物から飛び降りた」のは「水鳥」か、「女」か。どちらとも読むことができる。「水鳥の熱い小便のように」は「人混みにまぎれた」の「まぎれた」という動詞を修飾しているように読むのが「学校文法」かもしれない。でも、「学校文法」にしたがって読めば何かがわかるとはかぎらない。
 「女は人混みにまぎれた」という「事実」があって、そのほかは、その行を修飾することばだと仮定してもいいが、そんなことをしても何もわからない。なぜ、そんなことばを「修飾節」としてつかったのか。もしかすると「女は人混みにまぎれた」というこよりも、「重ねられた書物から飛び降りた」「水鳥の熱い小便のように」の方を書きたかったのかもしれない。実際に立ち会ったのは「重ねられた書物」だけかもしれない。「書物」もあやしく、「重ねられた」ということだけを見たのかもしれない。「事実」は、どこにあるかわからない。「枕詞」のように、ことばを導くためのものとみなされているものが、ほんとうはいちばん大事な「事実」ということもありうる。。

うなだれて生い茂るはほら穴
ほの暗い穴は軽はずみな男をよび
気の利いた鼠が足をそろえて踏みならす

 「穴」は「女の穴」かもしれないが、性器そのものを描きたいのか、「生い茂る」を書きたいのか「うなだれて」を書きたいのか。あるいは「ほの暗い」を書きたいのか、「軽はずみ」「男」を書きたいのか。「よぶ」という動詞を書きたいのか。
 こんなことは区別できないし、区別しても始まらない。
 ことばは「方便」として「前後」して書かれる。「文体」のなかには必然的に「時間」が入り込む。けれど、整然と順序立てて進む時間、時計の針のように進む時間、あるいは「意識」の流れというものが、ほんとうに存在するのか。
 書かれていることばの順序と、そのことばが現実をつきやぶって須藤の意識をひっかきまわした順序は逆かもしれない。すべてが同時だったかもしれない。
 だから、たとえ、ことばがその順序で書かれていたとしても、その順序にしたがって読むことが「正しい」とはかぎらない。むしろ、ことばの順序を無視して、いま、自分がどのことばに反応しているか、それを見極めることが大事ということもありうる。
 私は、この六行では、

熱い小便

 に全身をつかまれた。私が「熱い小便」になったような感じだ。「熱い小便」は「重ねられた書物から飛び降りた」のか。その「飛び降りる」ときの放物線が「熱い小便」の描く形か。あるいは、「人混み」のなかで「熱い小便」をすることを想像し、ああ、それができたらどんなに楽しいだろうとも思う。ほんとうは、そういうことをしたい。けれども、その欲望はきっとかなえられずに「人混み」に「まぎれ」消えていく。そういうことも思ったりする。須藤は、そうは書いていないのだが。
 いや、書いていないように見えるだけで、書いているのかもしれない。ほんとうは、そう書きたいのだが、書き方がわからずに、こうなっているのかもしれない。

 こういう感想は、感想になっていない。もちろん批評なんかにはなっていない。そんなことは、知っている。私は端から「批評」など書くつもりはない。論理を組み立て、ある評価を「結論」として指し示したいとは思っていない。
 思っていることを、思ったまま、どこまで詩のことばといっしょに動いて行けるか。私のことばを動かして行ける。それ以外は何もしたくはない。

緑けむる海けむる
音楽なんぞ鳴らし慣らした道は
繋がらない変態性欲とともにけむり

 ああ、ここはイメージが「過激」になっていない。「同じ音」が繰り返され、おだやかな「歌」のように聞こえる。「変態性欲」ということばさえ、純粋な性欲、あるいは無欲の性欲(?)のように見えてしまう。聞こえてしまう。
 この「音楽」を聞いたあとでは、というのは、変だが……。
 「生い茂るはほら穴」「ほの暗い穴は」の「は」の繰り返しさえ「音楽」だなあ、と感じ直してしまう。「軽はずみ」のなかにも「は」がある。時間がまきもどされたように、「過去」が「いま」のなかに噴出してくる。

髭を固めた老人と並んで煙突掃除しながら
最小限主義者の血の揺すぶりのように言った
「脅かすつもりじゃなかったんだ」

犬はすっと、背すじを伸ばした。
そして寝る。水を飲んでまた寝る。
(実は3兄弟。上がフリークスで自殺している)

 何を書いているか、ぜんぜん、わからない。いや、正確に言うと、わからないのは「関係」である。「つながり」である。ひとつひとつのこと、一行一行は、「わかる」。言いなおすと、その「わかる」は「ほんとう」と感じられるということである。
 「ことば」なのに、「ことば」ではなく「事実」とし目の前に浮かんでくる。
 これは書き出しからそうなのである。一行一行(あるいは、ひとことひとこと)が全部「ほんとう」である。「ほんとう」のものは何か不思議な力で「共存」している。それは、ある意味では「暴力」である。共存してほしくないものまで共存している、現実に存在するのが「世界」だからである。この暴力に耐えられずに、ひとは「論理」でそれを整理整頓する。ひとは「世界」を整えて、自分を守っている。
 須藤は「学校文法」にしたがって「世界」を整えようとはしていない。整える前に「事実」をことばにしてしまう。整えられた世界を破壊し、その瞬間に、ぐさっと刺さってくる断片を受け止めている。
 たとえばビルが爆発したとする。ガラスの破片が飛び散り、体中につきささる。そのとき、そこには「時間差」(順序)というものがあるはずだが、ひとは「順序」を識別できない。すべては「一瞬」のうちに起きてしまう。
 須藤は、その「一瞬」を「一瞬」そのままの形でことばにしようとしていると思って読めばいい。あらゆる行に前後(時間差)はない。「方便」として、そう書いているだけである。読む人間は、いちばん先に感じた痛み(衝撃)を中心にして、「世界」を追体験すればいい。
 もちろん、正確な追体験などできない。
 だから私は「誤読」を、「誤読」そのままとして、書く。弁解はしない。これが、私の須藤との「出会い方」なのだ。ほかの方法では、出会えない。「出会い」で何がわかるわけではない。須藤のことなど何もわからない。しかし、「須藤がいる」ということだけはわかる。この瞬間を、私は「詩の体験」と呼んでいる。



























*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(80)

2018-09-26 14:15:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
80 ヒポクラテスより

「メリポイエの青年 過度の飲酒と房事ののち
発熱が続いて病臥 悪寒と嘔気を訴えた
錯乱気味だが行儀よく 沈黙を守っていた」
もし医聖が 症例の一つとして記録しなければ
二千数百年後に 知られることもなかった人物像
「二十四日目死亡」と終わることで 些かな永遠化

 カヴァフィスの詩(墓碑銘シリーズ)を思わせる作品。括弧内は引用、ヒポクラテスのことば。高橋は、それを説明し、最後に「永遠化」と書き加えているだけなのだが、私はこの詩に強く惹かれた。
 引用されているヒポクラテスのことばが簡潔である。ヒポクラテスが書いた通りなのか、高橋が簡潔に書き直したのか。どちらかわからないが、余分なものがなく、「神話」の文体である。
 高橋がここで「永遠化」と呼んでいるのは「具体」のことである。「具体」は「一つ」ということばで言いなおされている。「永遠」は「一つ」ということ。「普遍」というよりも「個別(具体)」であることが「永遠」の核心なのだ。
 「二十四日目」の「具体的」な数が、それを象徴する。「日にち(時間)」に明確な区切りを刻みつけている。連続する「抽象的なもの」を切断し、「個別(具体)」にすることで「肉体」そのものに引きつける。
 そして、それが「記録」される。「永遠化」の「化」とは「記録する」ということによって成り立つ。「ことば」は何かを記録し、記録することで「永遠」を生み出す。そこにある「ことば」を読み取り、理解する。そのとき「永遠化」の「化」ととりはらわれ、「永遠」そのものになる。
 その繰り返される運動が、ここに書かれている。

 ただ、カヴァフィスなら、「永遠化」とは書かなかっただろう。念押し(?)などせずに、ヒポクラテスをただ引用する。つまり反復することで、そのことばを「永遠」にしただろう。カヴァフィスのしたことを読者が繰り返すとき、そこに「永遠」があらわれる。それを「永遠」と判断する人もいれば、気づかずに通りすぎる人もいる。そのことばの前で立ち止まるのは、いま生きている人ではなく「二千数百年後」の人であってもかまわない。そう判断し、ことばを切って捨てただろう。
 私は中井久夫のカヴァフィスしか知らないのだが。



つい昨日のこと 私のギリシア
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人権はどこへ行ったか(生産性の問題、2)

2018-09-26 09:35:30 | 自民党憲法改正草案を読む
人権はどこへ行ったか(生産性の問題、2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外231(情報の読み方)

 2018年09月25日の毎日新聞夕刊(西部版・4版)の特集ワイド(2面)。びっくり仰天し、またやっぱりそうなのか、と思う記事が載っていた。

日本で生まれ育った少年 ファラハッドさん
強制送還でいいのか
労働者は必要 でも「移民」反対 外国人の人権は?

 という見出しがついている。
 少年は16歳。出稼ぎで来日したイラン人の父と日系ボリビア系の母の長男。神奈川県で生まれ、神奈川県立高校に通っている。家族の会話は日本語で、両親の母語はほとんど話せない。
 父親は短期在留ビザで入国した。期限が切れても滞在していたので逮捕された。そして家族に退去強制令が出た。現在、退去強制令の無効確認を求めて係争中だが、国側は、事実関係に争いがないから「尋問の必要はない」とはねつけている。人権については、何も考えていない。
 この問題は、これからどんどん起きてくる。
 日本は外国人を「労働力」として搾取する方針を取っている。「研修生」などの「名目」で呼び寄せ、働かせ、一定の期間を過ぎると追い返す。長期間働かせると「賃金」をあげないといけない。だから期間を限定し、期間が過ぎた人を追い返し、新しい「労働力」を補給し続ける。賃金面からみた「生産性」を重視している。
 ところが、人間というのは、単に「労働力」ではない。「力」として抽象化できない。生きている存在である。働いて、暮らしていれば、そこに必然的に人との出会いがある。恋愛もすれば、その結果、子どもも産まれる。あるいは「研修生」が「家族(夫婦)」で来日すれば、やはり子どもが生まれることも考えられる。子どもの教育に金がかかる。家族も金を出すが、国(あるいは自治体)も金を出すことになる。せっかく「安い労働力」で「生産性」をあげているのに、他の部分で取り崩してしまう。そうならないようにするために、「労働力」を「単身者」に限定している。外国人を「労働力」としてのみあつかうシステムを日本は作り上げている。
 こういうものは破綻するしかない。その例がこの少年の問題に集約されている。
 繰り返しになるが、人が暮らしていれば、そこには絶対に「恋愛」が入ってくる。「家庭」が生まれ、「家族」が誕生する。杉田は、LGBTのカップルは子供を産まない。だから「生産性」がない。そういう人たちに税金をつかうのは間違っている、と主張した。その一方で、外国人が日本に来て、その結果として子どもが生まれることに対しては「生産性」の問題を逆にとらえている。子供が産まれる。家が必要だ。教育が必要だ。そういうものに金を使うのは「生産性」重視の政策に反する。
 つまり、「生産性」についてダブルスタンダードなのだ。二重の基準で人間の行動を裁いている。そして、そのダブルスタンダードを支えているが「差別意識」である。LGBTのひとは、多数派ではない。だから差別してもいい。外国人は多数派ではない。だから差別してもかまわない。「人権感覚」がまったくないのだ。日本は「生産性(経済効率)」だけを基準にして、人間を峻別している。「生産性が低い」と判断すれば、その人を排除しようとする。
 杉田がつかった「生産性」ということばは、安倍の基本姿勢なのだ。

 もし、この「生産性」を「戦争」にあてはめるとどうなるだろうか。
 子どもは、将来「戦力」になる。(生産性、戦争遂行に貢献しうる。)だから、子どもを殺すということはしないかもしれない。「沖縄スパイ戦史」では少年たちがゲリラ兵として徴用されていた実態を描いていた。しかし、老人はどうか。戦えない人はどうなるか。全員、マラリアの危険がある地帯に追いやられる。生き延びることができた人もいるが、多くの人が、死んだ。これは殺されたのである。一般の市民は、スパイになってしまうかもしれない。情報を敵に渡すことになるかもしれないからである。また、そうやって戦力以外の人間を殺してしまえば、その人たちが生きるために育てていた牛などを奪い、兵士の食糧にもできる。「生産性」に貢献できる、ということである。

 ファラハッドさん問題は、単に、彼の一家だけの問題ではない。そういう問題の奥には、日本の人権を無視したシステムがある。それは「生産性重視」というシステム、「資本主義」の病根である。安倍が独裁者でいるかぎり、「資本家」だけがもうかり、他の国民は搾取されるという社会が増幅する。
 近くのコンビニで買い物をしてみるだけで、現在の暮らしがいかに「外国人」に頼っているかがわかる。外国人が働いてくれない限り、コンビニは次々に潰れるだろう。建設現場、介護の現場も、必死に外国人を雇い入れようとしている。外国人頼みなのに、一方で外国人を排除しようとしている。
 大阪なおみがテニスで優勝すれば「日本人」と呼ぶ。しかし、彼女が四大大会に出ることのできないアマチュアだったら、どうか。ダルビッシュはどうか。ケンブリッジは、どうか。「日本人」として取り上げられるだろうか。個人として尊重されるか。
 スポーツは「国籍」など、だれも気にしない。プレーを見るとき、「どの国の人」かを気にしない。ただ、自分にはできないことをやってのける「肉体」、それを支える「精神」を見ている。「その人」を見ている。ボルトがオリンピックで走るとき、人は、ボルトが何秒で走るか、それだけを見る。連覇するのかどうか、それだけを見ている。
 日本が「労働力」を求めるなら、国籍を無視して「労働力をもった人間」を尊重すべきである。それは、「労働力をもった人間(労働者)」が「労働者」としていちばん活躍するのにふさわしい「環境」を用意しなければならない、ということである。安心して「家庭」がもてる、安心して「子どもの教育」ができる、という環境を整えないといけない。「労働力」を「労働者」として、「労働者」を「人間」として育てていくシステムが必要である。
 「生産力」ではなく「共存力」へ向けてのシステムづくりが必要なのだ。

 ファラハッドさん問題は毎日新聞が取り上げなければ、ほとんどの国民は知ることがなかっただろう。私も知らなかった。そういう知らない問題が、身の回りにたくさん隠されているはずである。













#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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