詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木貴子『嘘の天ぷら』

2018-09-19 19:37:31 | 詩集
佐々木貴子『嘘の天ぷら』(土曜美術社出版販売、2018年09月30日発行)

 佐々木貴子『嘘の天ぷら』はタイトルが語っているように、「嘘(ことば)」がテーマである。ことばでしかあらわせないことを語っている。

今夜は
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

何がホントで
何が嘘

騙され続ける幸福に
サヨナラ言って

涙をこらえて
カラリと揚げましょう

嘘の天ぷら
傷つく前に
一人で食べる

 この詩は、詩集の本編(?)を構成している作品群とは少し違っているのだが、佐々木の詩がことばでできていることをよくあらわしている。
 「歯に衣を着せた」という一行は、「衣」が「天ぷら」を連想させる。そして同時に「嘘」というものが、「こころ」に「着せた」何かであることをも教えてくれる。「衣」という名詞にひっぱられて見逃してしまうが、「着せる」という「動詞」が佐々木の思想(肉体)をあらわしている。
 「裸」というか「ほんもの」がある。それをそのまま存在させるのではなく「衣(衣装)」を着せて人前に出す。そうすると、ここからは「天ぷら」の話ではなく、これは「人間」の話になる。
 でも、「衣」は、それでは「にせもの」なのか。
 そうとは、なかなか断言できない。
 「衣」は自然にできるわけではない。やはり「人間」がつくるものだからである。
 というようなことを佐々木は書いているわけではないが。

 佐々木が書いているのは「具(裸/ほんもの)」と「衣(嘘)」が、簡単に入れ代わってしまうということである。入れ代わってしまうというよりも、入れ替えずにはいられないのかもしれない。
 で、このときに「論理」というものが動く。
 「論理」というのは不思議なもので、動かしていけば「結論」にたどりつく。「論理」と「結論」はとても「閉鎖的な関係」にある。「結論」にしてしまえば、それは「結論」になる。「異論/反論」を挟む余地はない。つまり「完結」してしまう。「閉ざす」ことで「完結」を強力なものにしてしまう。
 「天ぷら」と違って、固まってしまった鉄のようなものだ。

 「影」という詩は、は「影」のない「わたし」が主人公である。「影」がないから「影踏み」ができない。それである日、死んだ子の影を接着剤でくっつけることになる。その影は、一度くっつけると、もう剥がせなくなる。そのうちにわたしと影は入れ替わり、影ではなくわたしが入れ代わる。「影は頭が良かったので、成績はぐんぐん良くなった。」そのため、家族も影を大事にする。わたしは見向きもされなくなる。

ひたすら踏まれ続ける日々。血が流れた。わたしの血が学校中に滲みた。

 これは学校(成績の良い子が、良い子という判断)によって殺される「わたしという個性」を象徴的に語っている。その結果、どうなるか。

時々、思い出したように影が下を向いて、ごめんね、と言う。勉強が忙しいので、誰も影踏みをしない。誰一人として影を見ない。今日、影はわたしを細かく切り刻んだ。もう、わたしには血の一滴も無い。

 佐々木の「論理」は「象徴/比喩/嘘」をつかって、「いま/ここ」を別の角度からとらえなおすという展開をする。そこには矛盾がない。もともと「論理」のために用意された「嘘/比喩/象徴」なのだから、矛盾が生まれるはずがない。
 で。
 こういう「完結した論理」が好きな人には、佐々木の詩はおもしろいだろうなあ。
 「論理」をひっくりかえすことを「詩」ととらえる、あるいは「新しい論理」の「新しい」を「詩」ととらえる人間には、おもしろいだろうなあ。
 まあ、そうでない人にもおもしろいかもしれない。
 私も、最初は、おもしろいと思って読んだ。でも、つづけて読んでしまうと、ああ、またか、と思ってしまう。「論理の新しさ」というのは、一度見てしまうと「新しさ」を失ってしまう。どんなに変更を加えてみても、「完結」へ向かって動いていくしかないものである。
 ときどき、思い出したようにして読めばいいのかもしれない。
 「嘘」は、どうしても飽きてしまう。














*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(73)

2018-09-19 08:13:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
73 ギリシアの冬

 ギリシアの冬を私が知ったのは、映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督)からだった。それまではギリシアに冬があるとは知らなかった。濡れた泥に映る冬の空。その美しさ。まるでふるさとの北陸の風景そのままに暗くて冷たい。私は、あの映画でギリシアがなつかしいものにかわった。そのときは、まだ行ったことがなかったのだが。(テオ・アンゲロプロスの映画からは、霧のギリシア、雨のギリシアも知った。その灰色と黄色い雨合羽の組み合わせの美しさも知った。)
 高橋はロンゴスの作品からギリシアの冬を知った、と書いている。高橋も実際にはギリシアの冬を知らない。

ただし 片鱗なら見たことがある アッティカのとある浜辺 雪のちらつく中
下っ腹の出た老人男女十数人が 寒中水泳を始めようと騒いでいたっけ
ほんと 老人には痩せがまんが 痩せがまんには冬が似合う

 ここには実感が書かれているなあ、と感じる。「下っ腹の出た老人」は「下っ腹」は出ているが、全体を見れば痩せているのだろう。痩せているから下っ腹が出て見える。その「痩せた」印象から「痩せがまん」ということばが自然に出てくる。
 このあと詩は、こう締めくくられる。

若者に冬は似合わない ことに眩しい裸の若者たちには

 「72 裸身礼讃」を引き継いで、この詩が書かれていることがわかる。
 しかし、こんなふうに簡単に老人と若者、冬と夏の光を対比されてもおもしろくない。せっかく老人の姿を描いたのに、それをぱっと消してしまう。もっと老人と冬との関係、そのときの「実感」を別なことばで言いなおしてもらいたい。冬は夏を思い出すためにだけあるのではないだろう。












つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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