長谷川信子『昼の月』(詩的現代叢書31)(書肆山住、2018年08月21日発行)
人間と世界との関係はどうなっているのだろうか。どんなふうに和解(理解)しあって生きているのだろうか。長谷川信子『昼の月』を読みながら、そんなことを考えた。
「肩掛け」は、こんなふうに始まる。
ものの呼び方が変わる。同じものなのに、いつの間にか変わっている。でも、呼び方が変わったのではなく、呼び方を変えることでものそのものを変えてしまったのではないのか。
では、この場合は、どうだろう。
背中にわいた虫。それはほんとうに虫だったのか。お婆やんそのものではなかったのか。虫と呼ぶことでお婆やんとは別の存在のものを出現させた。それは見てはいけないお婆やんの姿か、あるいはお婆やんがぜひとも見てほしかった姿なのか、わからない。けれどもお婆やんという「事実」なのだ。
だからこそ、「お婆やんが死ぬと虫も死んだ」。
ふたつのものがひとつになって、そして消えていく。記憶のなかにふたつとひとつが交錯する。どちらが「ほんもの」かわからない。ふたつとひとつのあいだには、区別がない一瞬の「事実」がある。
「小径の果てに」には、こんな行がある。
この二行を借りて言えば、
であり、虫は「お婆やん」そのものである。「本質」であることになる。
こういう言い方は「お婆やん」をおとしめることになるだろうか。
でも、私は、そう「誤読」してしまう。そして、
ではなく、
と、「誤読」をさらに推し進めたくなる。
「時差」のなかにある、次の連。
「区別」がない。「区別」というものをなくしてまう「力」が人間の「肉体」にある。長谷川は、その「力」に触れている、と感じる。
お婆やんと虫を書いているとき、長谷川は「お婆やんの肉体」と「虫の肉体」を区別せずに、両方を往き来している。「生きる/死ぬ」という「事実」のなかを動いている。「事実」に触れている。
「五月」は美しい詩だ。
「この人」は長谷川がほんとうに見た人間なのか。それとも長谷川から抜け出したもうひとりの長谷川なのか。
「私」と「くだんの人」は入れ代わっているかもしれない。「虫」と「お婆やん」のようなものだ。
「私(人間)」は「私以外のもの」になる瞬間がある。
そこから「私」へ引き返すのか、それとも「私以外のもの」になって生きていくのか。「私以外のもの」になって生きたとき、「私」はどうなるのだろうか。それは「記憶」か「夢」か。あるいは「私以外のもの」が見てしまう「事実」なのだろうか。
そういう「区別」はせずに、私は、その両方(ときには、もっと複数になってしまうことがある)を「長谷川そのものの肉体」と思って読む。「長谷川の肉体」は、ことばにしたものすべての中にある。すべてとつながっている。でもそれでは「論理的」ではないので、方便で「私」と呼んだり「この人」と呼んだり「くだんの人」と呼ぶのだと思った。
「現世に二人しかいない」のではなく、「現世」とは「私」が出現させた「もうひとりの私」である。そのふたつを往き来するとき「現世」が動くのだと思った。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
人間と世界との関係はどうなっているのだろうか。どんなふうに和解(理解)しあって生きているのだろうか。長谷川信子『昼の月』を読みながら、そんなことを考えた。
「肩掛け」は、こんなふうに始まる。
ショールのことを肩掛けと言い
エプロンのことは前垂れと言った
ものの呼び方が変わる。同じものなのに、いつの間にか変わっている。でも、呼び方が変わったのではなく、呼び方を変えることでものそのものを変えてしまったのではないのか。
では、この場合は、どうだろう。
塩屋のお婆やんは
長いこと結核で寝ていたから
背中に褥瘡ができて
そこに虫が湧いていた
お婆やんが死ぬと虫も死んだ
背中にわいた虫。それはほんとうに虫だったのか。お婆やんそのものではなかったのか。虫と呼ぶことでお婆やんとは別の存在のものを出現させた。それは見てはいけないお婆やんの姿か、あるいはお婆やんがぜひとも見てほしかった姿なのか、わからない。けれどもお婆やんという「事実」なのだ。
だからこそ、「お婆やんが死ぬと虫も死んだ」。
ふたつのものがひとつになって、そして消えていく。記憶のなかにふたつとひとつが交錯する。どちらが「ほんもの」かわからない。ふたつとひとつのあいだには、区別がない一瞬の「事実」がある。
「小径の果てに」には、こんな行がある。
鬼になったのではない
鬼の中に女が棲んでいたのだ、と…
この二行を借りて言えば、
虫が湧いたのではない、
お婆やんの中に虫が棲んでいた、
であり、虫は「お婆やん」そのものである。「本質」であることになる。
こういう言い方は「お婆やん」をおとしめることになるだろうか。
でも、私は、そう「誤読」してしまう。そして、
お婆やんが死ぬと虫も死んだ
ではなく、
虫が死ぬとお婆やんも死んだ
と、「誤読」をさらに推し進めたくなる。
「時差」のなかにある、次の連。
気の狂れた女が浜辺を駆けてゆく
--おいでぇ おいでぇ
帰っておいでぇ
あれは少年の母親か
それとも初産だった雌亀か
「区別」がない。「区別」というものをなくしてまう「力」が人間の「肉体」にある。長谷川は、その「力」に触れている、と感じる。
お婆やんと虫を書いているとき、長谷川は「お婆やんの肉体」と「虫の肉体」を区別せずに、両方を往き来している。「生きる/死ぬ」という「事実」のなかを動いている。「事実」に触れている。
「五月」は美しい詩だ。
男性かと思ったがそうではないようだ
かといって 女性にも見えない
以前は どちらかはっきりしていたのだろうが
バスを待っている間に
この人は
そんなものを脱ぎ捨ててしまったのだろう
「この人」は長谷川がほんとうに見た人間なのか。それとも長谷川から抜け出したもうひとりの長谷川なのか。
現世に二人しかいないような風景が
ずっと続くのではない
そんな気持ちになっていると
ストン という音がして目前でバスが止まった
くだんの人が乗り込むと
バスは乗降口を閉じて 発車した
私はベンチに取り残されたが
残されたことを悔やみもせずに
また ぼんやりと
空をながめている
「私」と「くだんの人」は入れ代わっているかもしれない。「虫」と「お婆やん」のようなものだ。
「私(人間)」は「私以外のもの」になる瞬間がある。
そこから「私」へ引き返すのか、それとも「私以外のもの」になって生きていくのか。「私以外のもの」になって生きたとき、「私」はどうなるのだろうか。それは「記憶」か「夢」か。あるいは「私以外のもの」が見てしまう「事実」なのだろうか。
そういう「区別」はせずに、私は、その両方(ときには、もっと複数になってしまうことがある)を「長谷川そのものの肉体」と思って読む。「長谷川の肉体」は、ことばにしたものすべての中にある。すべてとつながっている。でもそれでは「論理的」ではないので、方便で「私」と呼んだり「この人」と呼んだり「くだんの人」と呼ぶのだと思った。
「現世に二人しかいない」のではなく、「現世」とは「私」が出現させた「もうひとりの私」である。そのふたつを往き来するとき「現世」が動くのだと思った。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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