72 裸身礼讃
とはじまる詩はタイトル通り裸身を礼讃している。
と語ったあと、最後の三行が私にはよくわからない。
「梁」。高橋は「うつばり」というルビを振っている。柱と柱を結び、屋根を造る土台。それは「夏空」を隠す。屋根があると空は見えない。その「梁」が裸体を淫らにしたのか。そう単純ではない。「それ(裸体)を見る目に入った梁のせい」と高橋は書いている。
「見る目」。裸体を見る目も、梁を見る目も、同じ人の目である。「見る」という動詞よりも「入る」という動詞の方が、この詩では重要である。
「見る」は能動だが、「目に入る」は受動だ。
「東洋」の視線(見方)がギリシアに「入ってきた」。その結果、それまで「健康」としかとらえられなかった裸体が淫らになった。裸体は「隠すもの」。夏空を屋根が隠すように、閉ざされた場でしか見せてはいけないもの、という「思想」(ものの見方)が入ってきて、そのときから「淫ら」に変わった。
だが、「入る」という動詞を基本に考えれば、逆のことも言える。東洋に「裸体は健康である。清朗なものである」という思想がギリシアから「入って」きて、裸は淫らであるという「思想」を叩き壊す。覆い隠す思想(屋根/梁)を取っ払って、夏空の下に解放する必要がある。
たぶんそういうことを主張したくて高橋はこの詩を書いている。ギリシアに来て「裸体礼讃」の光を浴びて、高橋は健康になった、と言いたいのだと思う。
でも、こういう主張はあまりにも「論理的」すぎる。「肉体」が感じられない。「梁」という「比喩」が詩の「衣装」になってしまっている。「詩の裸体」を隠すものになってしまっている。
「礼讃」に必要なのは「ことば(理論)」ではなく、「好き」という感情だ。「理論」を突き破って動く本能(衝動)だ。
オリュンピアでは 若者たちは一糸まとわぬ裸
とはじまる詩はタイトル通り裸身を礼讃している。
生まれたままだから公明正大 すこしも淫らではない
ギリシアの夏空のように ひたすら清朗で健康そのもの
と語ったあと、最後の三行が私にはよくわからない。
淫らにしたのは それを見る目に入った梁のせい
梁ははるか東の沙漠から 海上を熱風とともに飛来
清朗を嫉み 健康を憎む偏狭な神が送った
「梁」。高橋は「うつばり」というルビを振っている。柱と柱を結び、屋根を造る土台。それは「夏空」を隠す。屋根があると空は見えない。その「梁」が裸体を淫らにしたのか。そう単純ではない。「それ(裸体)を見る目に入った梁のせい」と高橋は書いている。
「見る目」。裸体を見る目も、梁を見る目も、同じ人の目である。「見る」という動詞よりも「入る」という動詞の方が、この詩では重要である。
「見る」は能動だが、「目に入る」は受動だ。
「東洋」の視線(見方)がギリシアに「入ってきた」。その結果、それまで「健康」としかとらえられなかった裸体が淫らになった。裸体は「隠すもの」。夏空を屋根が隠すように、閉ざされた場でしか見せてはいけないもの、という「思想」(ものの見方)が入ってきて、そのときから「淫ら」に変わった。
だが、「入る」という動詞を基本に考えれば、逆のことも言える。東洋に「裸体は健康である。清朗なものである」という思想がギリシアから「入って」きて、裸は淫らであるという「思想」を叩き壊す。覆い隠す思想(屋根/梁)を取っ払って、夏空の下に解放する必要がある。
たぶんそういうことを主張したくて高橋はこの詩を書いている。ギリシアに来て「裸体礼讃」の光を浴びて、高橋は健康になった、と言いたいのだと思う。
でも、こういう主張はあまりにも「論理的」すぎる。「肉体」が感じられない。「梁」という「比喩」が詩の「衣装」になってしまっている。「詩の裸体」を隠すものになってしまっている。
「礼讃」に必要なのは「ことば(理論)」ではなく、「好き」という感情だ。「理論」を突き破って動く本能(衝動)だ。
つい昨日のこと 私のギリシア | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |