詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北方四島と沖縄(日本のキューバ問題)

2018-09-13 10:49:12 | 自民党憲法改正草案を読む
北方四島と沖縄(日本のキューバ問題)
             自民党憲法改正草案を読む/番外225(情報の読み方)

 2018年09月13日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

露大統領「年内に平和条約」提案/首相に 北方領土棚上げ/日本、応じぬ方針

 という見出し。
 領土問題よりも、日露平和条約締結が先、とプーチンは提案した。安倍は、それに対して即座に応対できなかった。「事前通告」がなかったためらしい。
 これで「外交に強い」というのだから、あきれる。

 ということはさておき。

 ロシアが北方四島を日本に帰さないのは、軍事(地理)的に見れば当然である。ロシアにとって、北方四島は「キューバ」なのである。
 かつて「キューバ危機」があった。フルシチョフ、ケネディ時代である。ソ連はキューバに核ミサイルを設置しようとした。キューバに核ミサイル(軍事基地)があれば、アメリカに強いにらみを利かせることができる。しかしアメリカの強い反発を招き、断念した。そのことに重ね合わせてみよう。
 ロシアが北方四島を返還しないのは、北方四島が日本(日本の米軍基地)を牽制する「キューバ」だからである。北海道まで、すぐ。つまり、戦争になったときロシア大陸から攻撃するよりも侵攻しやすい。そして何よりも北方領土のロシア軍基地(いまは、まだないようだけれど)が攻撃されたら攻撃されたで、そこを攻撃されている間にアメリカ本土を攻撃できる。つまりアメリカの軍事行動を北方四島とアメリカ本土に分散できる。さらに、小さい島なので戦争の「捨て石」にできる。
 キューバも、「捨て石」にされかけたのである。キューバを守る、という「名目」で。

 これは沖縄についても言えるだろう。
 アメリカは沖縄を中国、北朝鮮ににらみを利かせる「キューバ」のように利用している。ソ連がキューバにしようとしたことをしている。
 もし戦争が起きたとき、沖縄に中国、北朝鮮の攻撃を集中させることで、アメリカ本土を防衛する。相手の攻撃を分散させることができる。中国、北朝鮮は、大陸間弾道弾があるとはいえ、「目の前」の基地を放置することはできない。
 アメリカにしてみれば、最悪の場合、沖縄を捨てればいいだけである。沖縄を捨てるということは日本を捨てるということである。
 ソ連にとって、キューバが米軍の支配下になろうが、ソ連本土にとってはあまり影響はない。アメリカにとっては、キューバにソ連軍の基地があるのとないのでは、大きな違いである。ソ連にとってはキューバは「捨て石」だった。経済援助はするが、いざとなったら捨てる、という存在だった。

 アメリカ(トランプ)が日本(安倍)に対して「好意的」であるのは、ただそれだけである。「捨て石」をもっている、というのがアメリカの強みである。
 だいたい戦争というのは、侵略(侵攻)していった方が負ける。アメリカはベトナム戦争でそれを体験している。それでも中東で戦争を繰り返しているのは、中東には「イスラエル」があるからだ。ユダヤ人を敵に回してはアメリカの経済が動かない。だから必死で中東から撤退しない。ユダヤ人が「献金」してくれないことには、アメリカ議員が生活できない。
 日本(安倍)も、一種の「金づる」である。中国、北朝鮮が攻撃してくるかもしれないとあおれば、どんどん軍備を購入する。アメリカの軍需産業はもうかる。軍備というのは消費するだけのものである。戦争が始まれば、さらにもうかる。それがアメリカの経済学だ。

 日本は小さな島国である。そして、その島国は、中国、北朝鮮、ロシアの「鼻先」にある。そのことを自覚して戦略を立てないといけない。
 日本がもしキューバだったなら、という視線でとらえ直さないといけない。
 日本はアメリカにとって、ソ連時代のキューバと代わりがないのである。
 どれだけ軍備を増強しても、無駄である。増強すればするほど、最初に攻撃しなければならない「標的」になる。戦争が始まれば「前線」として利用され、「捨て石」にされるだけである。アメリカの「捨て石」にもなれば、中国、北朝鮮、ロシアの「捨て石」にもなる。戦場が「日本」に限定されれば、「本土」は安心。戦争の結果、どれだけ荒廃しようが、そこは彼らの「国」ではない。戦争は、そこに暮らしている人のことなど何も考えない。日本に暮らしているのが日本人で、中国人でも、北朝鮮人でも、ロシア人でも、アメリカ人でもないなら、なおさらそうである。アメリカがベトナムで展開したように、どんな卑劣な攻撃でもするだろう。

 安倍には、この自覚がまったくない。
 他の国と「対等」であるとか、「上等」であると思ってはならない。日本が「戦場(捨て石)」にならないためには何をすべきかから考えないといけない。
 先に「日本に暮らしているのが日本人で、中国人でも、北朝鮮人でも、ロシア人でも、アメリカ人でもない」と書いたが、実際には多くの中国人や北朝鮮人も暮らしている。もし日本を「戦場」にするなら、そのひとたちの救出が大問題になる。(安倍が、朝鮮半島の日本人をどうやって救出するか、と考えるのと同じように。)だから、簡単には攻撃できない。
 ここにこそ、問題解決の糸口がある。いま、世界は「国境」「民族」の垣根がなくなりつつある。それを平和に利用する方法を考えないといけない。
 安倍は、逆に民族差別をあおり、国民の間にも分断をつくりだして、日本を「内戦状態」にしている。安倍のまわりにたくさんの「キューバ」を抱え込み、自分だけ、のうのうとしている。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(67)

2018-09-13 09:31:32 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
67 ギリシア病二

街なかから振り返るアクロポリスに 遠近法は存在しない
すくなくとも 東洋風の水蒸気の 曖昧模糊の遠近法は

 この二行は非常に印象的だ。
 「遠近法」と言えば、私は「一点透視」を真っ先に思い出してしまう。近くのものを大きく、遠くのものを小さく。最終的に「小さい」は「点」になる。
 水墨画などにみられる「濃淡の遠近法(水蒸気の遠近法)」は絵を線ではなく面で意識するようになってから「遠近法」と理解できるようになった。
 しかし、高橋は「水蒸気の遠近法」から出発している。

ギリシアでは 遠いもの近いもの 等しくやたら克明
以来 どんな対象も 正確無比に表現しなければ納まらない

 「曖昧模糊」と「正確無比」が対比されている。

極東の水の女神の曖昧には 曖昧の黄金分割比例を

 「曖昧模糊」は「水(水蒸気)」、「正確無比」は「黄金分割比例」という具合に動いていくが、この「黄金分割比例」は「光」と言いなおすことができる。東洋が「水(蒸気)」の世界観でできているのに対し、ギリシアは「光(透明な空気)」を前提としている。この指摘はわかるが、では、高橋はいま世界をどんな「遠近感」で詩を統一しようとしているのか。
 「遠近感」には二種類ある、と分類する。そういう「知」の力を身につけることが「ギリシア病」(ギリシアの精神になること)というのか。
 東洋の遠近法を「水蒸気の遠近法」と呼ぶのなら、そうではない「黄金分割比例」にもとづく「ギリシアの遠近法」で世界を実際に描いて見せる必要がある。「ギリシアの遠近法」で描かれた世界を見せられれば、読者は、「あ、高橋はたしかにギリシア病にかかっている」と思えるが、「東洋の遠近法とは違う」という指摘だけでは「ギリシア病」というものが伝わらない。「ギリシア病」にかかった視線で「高橋の遠近法」を描いて見せてくれなければ、「病気」かどうかわからない。その病気には感染力がない。
 無害なものは詩ではない。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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