詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

服部誕『三日月をけずる』

2018-09-17 16:47:29 | 詩集
服部誕『三日月をけずる』(書肆山田、2018年09月10日発行)

 服部誕『三日月をけずる』。巻頭の「大空高く凧揚げて」がいちばん印象に残った。一人暮らしの母親が死んだ。納戸に紙袋、包装紙、紐の束がしまいこまれていた。

震災でなにもかも失くしてから二十年以上過ぎて
もういちど一から取り置き きちんと仕分けして
若かったころのように
性懲りもなく隠し持っていたのだ
またなんぞの折に使えるさかい
という母の口癖が
畳まれ括られ整理整頓された
この反故屑のあいだから聞こえてくる

いっそ
紙袋の丈夫な紙地を台紙に使い
あるだけの包装紙を張り重ね
色目をうまく貼り交ぜていって
母の似顔絵の描かれた巨大な凧を作ろうか
紐は全部 どんどんどんどんつなげていって
長い長い揚げ糸にする

さあ 大空高く凧を揚げようぞ
母が残したものを使い尽して
空のてっぺんにまで凧を揚げよう
舞い上がれ 舞い上がれ どこまでも
大空高く 母よ 舞い上がれ
おお これこそがなんぞの折だわな

 母の口癖の「またなんぞの折に使えるさかい」が少し形を変えて「これこそがなんぞの折だわな」と繰り返される。ここがとてもいい。
 服部がほんとうに凧をつくったのかどうか、わからない。空想しただけかもしれない。たぶん、空想だけだと思うが、空想だからこそ、よけいおもしろい。空想の中にまで、母の口癖が甦ってくる。しかも、そのままではなく少しだけ形をかえて。形をかえている、という意識は、たぶん服部にはない。自然に変わったのだ。自然に(無意識に)ことばが変わって、その状況にふさわしい形になる。これは、そのことばがそれだけ服部の肉体になじんだものになっているということだ。母はこんな形で服部の肉体の中で生きつづける。
 母のことばは何度も詩集に出てくる。母のことばを登場させている詩が、とてもおもしろい。
 「猫と歩道橋」には、こんな部分がある。

橋のちょうど真ん中あたり
猫を膝に抱いた老婆が粗末な丸椅子に腰かけて
たえまなく車の行き交っている下の国道を一心に眺めていた
猫はしきりにかぼそい声で鳴いている

母は老婆を認めると軽く頭をさげて挨拶した
「あれは誰だっけ?」歩道橋をおりてわたしが訊ねると
「昔、近所にいた、たしか、地震で亡くなった人よ
なんて名だったからしらね」と首を傾げてつぶやいた

 服部の母はすでに死んでいる。その母の面影をつれて歩道橋を渡る。そのとき死んだ母が、阪神大震災で死んだ老婆と挨拶をする。死者は生きている、ということではなく、「ことば」と「態度」がいつまでも生きている。母は知り合いとすれちがうとき「軽く頭をさげて挨拶する」、相手は誰なのか。「昔、近所にいた」「なんて名だったからしらね」とはっきり思い出せない。でも、あ「あの人は亡くなったんだった」と思い出したりする。だから、これは勘違いといえば勘違いなのだが、どの人の肉体にも誰かの肉体というのは生きているので、あながち勘違いとも言えない。いや、勘違いするくらいに誰かを知っている、という生き方がここにひっそりと書かれている。誰にでも共有されている何かを服部は静かに引き継いでいる。母をとおして、そのことを語っている。













*

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三日月をけずる
クリエーター情報なし
書肆山田
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千人のオフィーリア(メモ38)

2018-09-17 15:53:45 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ38)

追いつけない
追いかけても追いかけても

ジェラシー
私のなかから流れ出た川

黒いうねり
光る悲しみ

ジェラシー
私をさらっていってしまう川

澱みに落ちた花びらは
形がなくなるまでぐるぐるまわっている

ジェラシー
私の知らないところまで行ってしまう川

私のこころなのに
私の言うことを聞かない

ジェラシー
太陽が沈んでも海にはたどりつけない川






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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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チャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」(★★★★)

2018-09-17 12:45:43 | 映画
監督 チャン・ジュナン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン

 全斗煥大統領による軍事政権下の韓国を描いている。学生が反共取り締まりの警官から拷問を受け、死ぬ。その真相をめぐる攻防。警察と検察、マスコミの攻防。「真実」を告げたいと思っているのはマスコミだけではない。真実を告げたい人は、マスコミを利用しようとも考える。このあたりの動きがとてもおもしろいのだが……。正義派の検事が捜査資料を新聞記者に渡すシーン、記者が解剖医は必ずトイレにやってくると予想しトイレに隠れて待つシーン、看守がエロ本(?)を利用して情報を伝えるシーンなど、こういうことが「事実」を支えていると教えてくれ、とても心強い感じがした。
 一方、見ながら私が考えつづけたことは、いま、日本で起きていることである。
 日本で起きているいろいろなこと、安倍が関係しているさまざまなこと。森友学園、加計学園、女性暴行事件。「真実」を告げるために誰が声をあげるか。前川・前文部次官は、声をあげた。しかし、その声を手がかりにマスコミが「真実」をつきとめるところまではいかなかった。
 その後、森友学園、加計学園事件にしても、さまざまな資料が出てきた。安倍の主張している論理を否定するものが次々に出てきた。しかし、安倍を追い込めなかった。
 どうしてだろう。
 これから書くことは、推測である。「妄想」かもしれない。
 映画の中では、さまざまな拷問がおこなわれている。そのなかの最大の拷問は、要求を飲まないなら(言う通りにしないなら)家族がどうなっても知らないぞ、というものである。愛する家族がどうなってもいいのか。この「ことば」による拷問に、ひとは耐えることができない。言われるがままになる。
 もしかしたら、日本でも同じことが起きているのではないのか。
 国会議員や官僚、さらにマスコミの記者たちは、何らかの「ことばによる拷問(脅迫)」を受けているのではないのか。
 安倍を支持しないなら、次の選挙では自民党として公認しない。対抗馬を立てて、お前を落としてやる。そういうことが平然とおこなわれているのではないか。実際、最近、石破派の大臣が「安倍を支持しないなら辞表を出せ」と言われたと報道されている。大臣を脅すくらいだから、実力のない国会議員を「落とすぞ」と脅すくらい簡単だろう。「安倍を支持しないと、大臣の椅子を与えない(干すぞ)」という脅しも平気でおこなわれている。そして、それに多くの議員が屈している。
 官僚やマスコミで働いている人にも、圧力がかかっているかもしれない。「そういうことをしていると、出世させないぞ」と。前川・前次官にしても、何もわるいことはしていないのに「出会い系のバーに出入りしていた」と新聞に書かれ、菅は記者会見で「そういうところに出入りしていて何もないということは信じられない」という具合に人格を否定することを語っていた。
 前川・前次官はやましいことをしていなかったが、もし「秘密」をもっている人がいたとしたらどうだろう。「秘密をばらすぞ」と。「家族(家庭)はどうなるかな?」自民党の安倍支持派の議員は、どうだろうか。誰も、どんな「秘密」も抱えていないだろうか。
 こういう「脅し」は「拷問」と違って、「証拠」というものが明確には存在しない。「拷問」なら肉体に「傷跡」が残る。「ことばによる脅し」は、こころにしか傷跡が残らない。こころというのは、「見えない」。
 森友学園(佐川事件)では、ひとりの自殺者が出た。しかし、その自殺が森友学園(佐川事件)での圧力によるものであるという「証拠」はない。こころの傷は、生きているときにことばにして訴えない限り、証拠にならない。生きているときに訴えたとしても、「証拠」として採用されるとはかぎらない。
 この「圧力」は、非常に強い。深いところで人間をじわじわと痛めつける。
 「幼稚園に落ちた、日本死ね」という発言が問題になったことがある。そのとき、「そういうことを言うのは共産党だ」というような主張が安倍の口から出たと記憶している。これは「共産党を支持するなら幼稚園にいれないぞ」という「脅し」を間接的に語ったものだ。「もし子どもを幼稚園にいれ、仕事を続けたいなら自民党を支持しろ」と脅しているのだ。
 若者は、この手の「脅し」にとても敏感である。「空気を読む」(忖度する)ことに、大変な労力を払っている。まわりを常に気にしている。
 人手不足が深刻で求人倍率が高い。だからといって、つきたい仕事につけるわけではない。求人率をあげているのは、介護や建築工事というような、厳しい仕事である。つきたい仕事につくためには、安倍批判をしていてはむり。会社の要求にしたがって、従順になるしかない。
 自分では何も考えず(考え、疑問を持つと、脅される対象になる)、「だって安倍しか日本をまかせられるひとはいない」という「ことば」をそのまま復唱する。そういっている限りは、安倍からにらまれる恐れはない。会社の面接でそう答えればいい。いま、会社の面接試験では支持政党を聞いたりしてはいけないことになっているが(信条で人を差別してはいけない)、これが逆に働いている。「信条」を隠して生きていかないと、生きていけない時代になっている。
 「私は共産党支持者です。それが何か問題ですか? 自動車をつくるとき、共産党支持者だと欠陥品になるのですか?」
 そういう人を社員として抱え込まない限り、社会は閉塞する。
 障害者雇用率を国も地方の公共機関も平気でごまかしていた。すべてをごまかし、自分にとって都合のいいことだけを「数字」として出す。それが、いま安倍がおこなっていることだ。社会操作だ。
 映画について少しも書いていない。これでは映画の感想ではない、と思う人がいるかもしれないが、映画を見て思ったことがこういうことである。だから、感想である。ひとは、何かに触れて何を思うか、思ってみるまで見当がつかない。
 (2018年09月16日、KBCシネマ1)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(71)

2018-09-17 11:09:31 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
71 病禍

それにしても不思議なこと ギリシアを体験したのち
ギリシア化したのは それからの日日ばかりではない
ひるがえって それまでの日日 とりわけ少年の日日が
ギリシアの光と影とを くっきりと帯びてしまった

 高橋は、「六歳の海」を「七十数年後」に「ギリシアの海」と重ねる形で思い出している。六歳のときに見た海は、このギリシアの海そのものである、思い出している。これを「再発見」と呼んでいる。
 「再発見」はただ「再発見」するだけではない。つまり、そこにとどまるのではない。

ギリシアの少年が ギリシアの青年に ではなく
ギリシアの青年が きびすを返してギリシアの少年に
而うして 改めて青年をとおり壮年に そうしていまや
黄色いギリシアの老人がここにいる というわけさ

 生き直している。ギリシアの少年として「六歳の高橋」を思い出すだけではない。それからの人生そのものを「ギリシア人」として生き直す。このことを「再発見」と呼んでいる。生き直さなければ「再発見」にはならない、というわけだ。

 この「論理」はとてもよくわかる。しかし、よくわかるからこそ、私は問いたい。「論理」が詩なのか、と。
 「再発見」の過程で、ギリシアの少年、青年、壮年は、何を新たに「発見」したのか。そして、その「発見」の積み重ねの後、いま八十歳を過ぎ、ギリシア人として何を発見しているのか。
 いま、ここに書いている作品をか。
 これでは「自己完結」である。その思考(論理)に「間違い」はどこにもないが、「自己完結」していることばのなかへは高橋以外の人間は入ってゆけない。「論理」はいつでも閉ざされた形で「自己完結」する。
 詩は「自己完結」を破り、その力で「世界」の「完結」を破壊すること。すでに「世界」に存在しているもの(世界が内部に隠しているもの)を、「自己爆発」と同時に明るみに出すことである。いわば「自爆テロ」が詩の行為なのだ。
 自己も世界も「想起」ということばの運動の中で「再発見」されているだけでは、それを詩と呼ぶことはできないのではないのか。












つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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