服部誕『三日月をけずる』(書肆山田、2018年09月10日発行)
服部誕『三日月をけずる』。巻頭の「大空高く凧揚げて」がいちばん印象に残った。一人暮らしの母親が死んだ。納戸に紙袋、包装紙、紐の束がしまいこまれていた。
母の口癖の「またなんぞの折に使えるさかい」が少し形を変えて「これこそがなんぞの折だわな」と繰り返される。ここがとてもいい。
服部がほんとうに凧をつくったのかどうか、わからない。空想しただけかもしれない。たぶん、空想だけだと思うが、空想だからこそ、よけいおもしろい。空想の中にまで、母の口癖が甦ってくる。しかも、そのままではなく少しだけ形をかえて。形をかえている、という意識は、たぶん服部にはない。自然に変わったのだ。自然に(無意識に)ことばが変わって、その状況にふさわしい形になる。これは、そのことばがそれだけ服部の肉体になじんだものになっているということだ。母はこんな形で服部の肉体の中で生きつづける。
母のことばは何度も詩集に出てくる。母のことばを登場させている詩が、とてもおもしろい。
「猫と歩道橋」には、こんな部分がある。
服部の母はすでに死んでいる。その母の面影をつれて歩道橋を渡る。そのとき死んだ母が、阪神大震災で死んだ老婆と挨拶をする。死者は生きている、ということではなく、「ことば」と「態度」がいつまでも生きている。母は知り合いとすれちがうとき「軽く頭をさげて挨拶する」、相手は誰なのか。「昔、近所にいた」「なんて名だったからしらね」とはっきり思い出せない。でも、あ「あの人は亡くなったんだった」と思い出したりする。だから、これは勘違いといえば勘違いなのだが、どの人の肉体にも誰かの肉体というのは生きているので、あながち勘違いとも言えない。いや、勘違いするくらいに誰かを知っている、という生き方がここにひっそりと書かれている。誰にでも共有されている何かを服部は静かに引き継いでいる。母をとおして、そのことを語っている。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
服部誕『三日月をけずる』。巻頭の「大空高く凧揚げて」がいちばん印象に残った。一人暮らしの母親が死んだ。納戸に紙袋、包装紙、紐の束がしまいこまれていた。
震災でなにもかも失くしてから二十年以上過ぎて
もういちど一から取り置き きちんと仕分けして
若かったころのように
性懲りもなく隠し持っていたのだ
またなんぞの折に使えるさかい
という母の口癖が
畳まれ括られ整理整頓された
この反故屑のあいだから聞こえてくる
いっそ
紙袋の丈夫な紙地を台紙に使い
あるだけの包装紙を張り重ね
色目をうまく貼り交ぜていって
母の似顔絵の描かれた巨大な凧を作ろうか
紐は全部 どんどんどんどんつなげていって
長い長い揚げ糸にする
さあ 大空高く凧を揚げようぞ
母が残したものを使い尽して
空のてっぺんにまで凧を揚げよう
舞い上がれ 舞い上がれ どこまでも
大空高く 母よ 舞い上がれ
おお これこそがなんぞの折だわな
母の口癖の「またなんぞの折に使えるさかい」が少し形を変えて「これこそがなんぞの折だわな」と繰り返される。ここがとてもいい。
服部がほんとうに凧をつくったのかどうか、わからない。空想しただけかもしれない。たぶん、空想だけだと思うが、空想だからこそ、よけいおもしろい。空想の中にまで、母の口癖が甦ってくる。しかも、そのままではなく少しだけ形をかえて。形をかえている、という意識は、たぶん服部にはない。自然に変わったのだ。自然に(無意識に)ことばが変わって、その状況にふさわしい形になる。これは、そのことばがそれだけ服部の肉体になじんだものになっているということだ。母はこんな形で服部の肉体の中で生きつづける。
母のことばは何度も詩集に出てくる。母のことばを登場させている詩が、とてもおもしろい。
「猫と歩道橋」には、こんな部分がある。
橋のちょうど真ん中あたり
猫を膝に抱いた老婆が粗末な丸椅子に腰かけて
たえまなく車の行き交っている下の国道を一心に眺めていた
猫はしきりにかぼそい声で鳴いている
母は老婆を認めると軽く頭をさげて挨拶した
「あれは誰だっけ?」歩道橋をおりてわたしが訊ねると
「昔、近所にいた、たしか、地震で亡くなった人よ
なんて名だったからしらね」と首を傾げてつぶやいた
服部の母はすでに死んでいる。その母の面影をつれて歩道橋を渡る。そのとき死んだ母が、阪神大震災で死んだ老婆と挨拶をする。死者は生きている、ということではなく、「ことば」と「態度」がいつまでも生きている。母は知り合いとすれちがうとき「軽く頭をさげて挨拶する」、相手は誰なのか。「昔、近所にいた」「なんて名だったからしらね」とはっきり思い出せない。でも、あ「あの人は亡くなったんだった」と思い出したりする。だから、これは勘違いといえば勘違いなのだが、どの人の肉体にも誰かの肉体というのは生きているので、あながち勘違いとも言えない。いや、勘違いするくらいに誰かを知っている、という生き方がここにひっそりと書かれている。誰にでも共有されている何かを服部は静かに引き継いでいる。母をとおして、そのことを語っている。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
三日月をけずる | |
クリエーター情報なし | |
書肆山田 |