詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(70)

2018-09-16 09:44:07 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
70 海の発見

 「論理」が詩を動かしている。「論理」だけがある、と言ってもいい。その場合、「論理」に「詩的魅力」がなければ詩にならないのではないか。
 この作品の場合、どこが「詩的魅力」だろうか。
 クセノポンの『アナバシス』を引用しながら、高橋は、こう書いている。

目的を失ったギリシア傭兵隊一万人が 寒気迫る敵地の中
内陸の退却を続け ようやく黒海沿岸に辿り着いた時の叫び
海だ! 海だ! 彼らにとってそれが海の再発見だったように
六歳の私の海の発見もじつは再発見 でなければどうして
驚きがなつかしさに変わったろう? でなければどうして
七十数年後のいまなお 詩が私のすべてでありえよう?

 「発見は再発見である」というのが「論理」の核だが、これはどういう「意味」だろう。
 「発見」というのは、新しいものを見つけることだが、その新しいものとは初めて出現してきたものではなく、すでにあったものだ。すでにそこに存在しているが知らなかったものに気づくことが「発見」である。それは「再発見」されることで「事実」になる。だから「再発見」と呼ばれなければならない。
 しかし、こういう「理屈」は、ギリシアでなければ通用しないわけではない。
 だいたい「六歳の私の海の発見」がなぜ「再発見」なのか、この詩では、その「根拠」がまったく書かれていない。

 この詩は、次の「71 病禍」を読まないことには、何のことかわからないようになっている。















つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

コメント
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