詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(61)

2018-09-07 12:25:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」

61 曙の指

そこで せめて「曙」に 枕詞「薔薇色の指持つ」を与えた

 「与える」という動詞が強い。「呼ぶ」「名づける」に通じるのだが、ことばはすべて自分を「与える」ことなのだ。「与える」ことでいっしょに生きる。
 それは単に「与えられた」ものといっしょに生きるだけではなく、そのことばを聞いている人ともいっしょに生きる。聞いている人といっしょに生きるために、「与える」のだ。「与える」ことで、聞いている人を、そこへひっぱっていく。
 このとき、共生は共犯にかわる。

 しかし、高橋は、こうつづける。

その指とて 見る間に爪先に青黒い泥をためた歪な指に
むしろ はじめから病気の指なのだ と知っていたからこそ

 私は高橋のことばにいつも「死の匂い」を感じる。
 死は絶対的なものである。あるいは超越的なものである。それが「ある」ことを私は知っているが、体験したことはない。いつでも「他人」のものであって、私のものであったことがない。
 でも、高橋は、何らかの形で死を体験している。
 「知っていた」ということばが高橋の象徴する。
 高橋はすべてを体験ではなく、ことばで「知る」。ことばが動かしている「事件」を「事実」と高橋のことばを交流させる。高橋は「現実」ではなく、「ことば」を発見し、「ことば」を知る。
 ことばはたいていの場合、死んだ人のことばだ。死んだ人から、ことばを学ぶ。それは、ことばのなかに死を発見し、知るということにひとしい。
 この詩に書かれていることも、高橋はすべて「知っていた」。
 「知」を共有し、「知」の共犯者として、高橋は生きている。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴亀算

2018-09-07 10:34:57 | その他(音楽、小説etc)

 鶴亀算。鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?
 こういう問題を解くとき、小学校低学年では「鶴亀算」をやる。
 全部鶴だと仮定する。そうすると12羽になる。ここから7をひく。残りが5。5が亀の数。残り2が鶴。5×4+2×2=24。

XとYをつかう方法もある。Xが亀、Yが鶴なら。
X+Y=7と、4X+2Y=24、Y=7-X
4X+2Y=24 のYにY=7-Xをあてはめて、
4X+2(7-X)=24という式に変換する。
4X+14-2X=24
4X-2X=24-14・・・・2X=10・・・X=5 
いわゆる「連立一次方程式」だね。

 で、何がいいたいかというと。

 最近の多くのひとは、こういう計算を自分でしない。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?」という問題に出合ったら、それをそのままネットで検索する。答えは亀5匹、鶴2羽と出ている。それをそのまま自分の答えにしてしまう。途中を省略する。つまり、考えない。

 これからが問題。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。鶴は何羽? 亀は何匹?」そういう質問だったら、どうする? 
 いくつかの答えがあるだろうと思う。私は、とりあえず、二つくらいを考える。
(1)先生、この問題間違っています。ひとは誰でも間違えるからね。
(2)一匹の亀が足を一本なくしていた、ということも考えられる。現実は、すべてが知っている通りにはできていない。

 必要なのは「答え」を出すことではない。
 疑問を持つこと。考えること。
 きちんと用意された質問にはいつも「答え」がある。それは誰が解いても同じ答えになる。
 でも、現実は「用意された質問」ではできていない。
 そのとき、どうやって考えるか。
 ネットに「答え」なんか、載っていない。
 ほんとうの「問題」はいつでも個人的(個別的)で、「答え」も個別的だからだ。

 「完成された答え」を探してきても何の役にも立たない。それは「他人の答え」。いいかえると「他人にとって都合のいい考え」。現実では、いつも自分で「答え」を引き受けるしかない。
 
 こんなふうに考えてみよう。
 ペットに亀を飼っている。そのうちの1匹は事故で片足をなくしてしまった。そのとき、その亀は、あなたにとって亀ではないのか。もしかするといちばん大事な亀かもしれない。その1匹のことを「排除」して、「現実」を考えることができる?
 もしだれかが、「足が一本足りないから、それは亀じゃない」と言ったら、あなたはどう思う?
 どうやって「現実」を引き受ける?

 論理がずれている?

 いや、私は「ずらしている」のだ。「ずらした部分」に私の言いたいことがある。




追加すると、こういうこと。
先生、私は家で亀を飼っています。
一本足がないんです。
でもとても大切な亀なんです。
この亀のために、「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。亀の一匹が事故で足をなくしました。でも、いっしょに遊びたいと言っています。鶴と亀は、何匹(何羽)かな」という質問をつくってもらえませんか?

この問題は「算数」を超えている?
でも「現実の算数」は、常に「頭の算数」を破っている。
破れ目に、どうやって「死文の算数」を組み込ませるか。
これが重要。

あらゆるところに「現実の問題」があふれている。
自分にとっての「事実」から「現実」を見つめないと、何も始まらない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする