61 曙の指
そこで せめて「曙」に 枕詞「薔薇色の指持つ」を与えた
「与える」という動詞が強い。「呼ぶ」「名づける」に通じるのだが、ことばはすべて自分を「与える」ことなのだ。「与える」ことでいっしょに生きる。
それは単に「与えられた」ものといっしょに生きるだけではなく、そのことばを聞いている人ともいっしょに生きる。聞いている人といっしょに生きるために、「与える」のだ。「与える」ことで、聞いている人を、そこへひっぱっていく。
このとき、共生は共犯にかわる。
しかし、高橋は、こうつづける。
その指とて 見る間に爪先に青黒い泥をためた歪な指に
むしろ はじめから病気の指なのだ と知っていたからこそ
私は高橋のことばにいつも「死の匂い」を感じる。
死は絶対的なものである。あるいは超越的なものである。それが「ある」ことを私は知っているが、体験したことはない。いつでも「他人」のものであって、私のものであったことがない。
でも、高橋は、何らかの形で死を体験している。
「知っていた」ということばが高橋の象徴する。
高橋はすべてを体験ではなく、ことばで「知る」。ことばが動かしている「事件」を「事実」と高橋のことばを交流させる。高橋は「現実」ではなく、「ことば」を発見し、「ことば」を知る。
ことばはたいていの場合、死んだ人のことばだ。死んだ人から、ことばを学ぶ。それは、ことばのなかに死を発見し、知るということにひとしい。
この詩に書かれていることも、高橋はすべて「知っていた」。
「知」を共有し、「知」の共犯者として、高橋は生きている。
つい昨日のこと 私のギリシア | |
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