63 オルフィズム讃
とはじまる詩。「光」と「闇」は、どう動詞化されるか。
「光」は「金/銀(貴金属)」と言いなおされている。「闇」は「蟻穴」「迷路」「奴隷」「絶望」と言いなおされ、それをつなぐものとして「掘り当てる」という動詞が動いている。「掘る」は「闇」を動詞化したものだろう。「迷路」をさらに掘る。そうすると「金脈(光るもの)」に「当たる」。つまり、それは単純な動詞ではなく、複合動詞なのだ。
複合動詞だからこそ、その動詞を名詞化すると「生死」ということばになる。「生死」は「光と闇」を言いなおしたことばである。単純なものではなく「複合」していてわかりにくいものだからこそ「奥義」という具合に言いなおされる。
しかし、これではあまりに「論理的」すぎる。つまり「肉体」で発見したものというよりは、ことばを動かして、ことばでつかみとったものにしか見えない。
だからだろう。詩は、さらに「ことば」のなかへ進んでゆく。
「恐ろしい真実」とは、やはり「光と闇」の複合である。「恐ろしい」が「闇」、「真実」が「光」。これはさらに「明らかな言葉(光)」「謎(闇)」と言いなおされる。「匿す」という動詞は、「闇につつむ(謎につつむ)」という形になって動いているが、そう書いてしまうと闇のなかに謎が溶け込んでしまい、「匿す」ことが逆にあらわす(明らかにする)に変化してしまう。「光」は「闇」のなかでこそ強く光る。
「論理」はいつでもこんなふうに「詭弁」になる。どうとでも言いなおすことができる。頭では動かせない「肉体」そのものの「動詞」を書かなければ詩にならないのではないか。
「論理」はどんなに美しくても、ことばの「死」であると、私は思う。
光のギリシアだけでなく 闇のヘラスも 厭わず直視せよ
とはじまる詩。「光」と「闇」は、どう動詞化されるか。
模範は 古代の地下の蟻穴の迷路に追い込まれた鑛堀り奴隷
彼らの絶望の鶴嘴が掘り当てたのは 金脈や銀脈ばかりではない
それら貴金属よりさらに貴重な 人生の生死の奥義なるもの
「光」は「金/銀(貴金属)」と言いなおされている。「闇」は「蟻穴」「迷路」「奴隷」「絶望」と言いなおされ、それをつなぐものとして「掘り当てる」という動詞が動いている。「掘る」は「闇」を動詞化したものだろう。「迷路」をさらに掘る。そうすると「金脈(光るもの)」に「当たる」。つまり、それは単純な動詞ではなく、複合動詞なのだ。
複合動詞だからこそ、その動詞を名詞化すると「生死」ということばになる。「生死」は「光と闇」を言いなおしたことばである。単純なものではなく「複合」していてわかりにくいものだからこそ「奥義」という具合に言いなおされる。
しかし、これではあまりに「論理的」すぎる。つまり「肉体」で発見したものというよりは、ことばを動かして、ことばでつかみとったものにしか見えない。
だからだろう。詩は、さらに「ことば」のなかへ進んでゆく。
彼らの教祖が振り返ったとき 化った石とは その恐ろしい真実
その石をこそ求めよ して掘り当てた暁には 明らかな言葉ではなく
謎として匿せ 後に続く者がつねに新たに 自ら掘り当てるべく
「恐ろしい真実」とは、やはり「光と闇」の複合である。「恐ろしい」が「闇」、「真実」が「光」。これはさらに「明らかな言葉(光)」「謎(闇)」と言いなおされる。「匿す」という動詞は、「闇につつむ(謎につつむ)」という形になって動いているが、そう書いてしまうと闇のなかに謎が溶け込んでしまい、「匿す」ことが逆にあらわす(明らかにする)に変化してしまう。「光」は「闇」のなかでこそ強く光る。
「論理」はいつでもこんなふうに「詭弁」になる。どうとでも言いなおすことができる。頭では動かせない「肉体」そのものの「動詞」を書かなければ詩にならないのではないか。
「論理」はどんなに美しくても、ことばの「死」であると、私は思う。
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