2018年09月20日(木曜日)
74 老いについて
高橋は一篇一篇の詩を独立した状態で書いているわけではないようだ。前に書いた詩をひきずりながら次の詩が書かれることもある。この詩は「72 裸身礼讃」から始まった「若者礼讃」のつづきとして読むことができる。「若者(裸身)」を高橋が礼讃するのは、高橋が「老人」であり、「裸身」の美しさを失っているという自覚があるためだ。
「ひりひりと」は「なまなましく」と言いなおされている。老いを「なまなましく」感じる、と高橋は書く。そして、その「なまなましく」のなかの「若さ」にすがっている。それを「いたいたしい」と言いなおせば「ひりひり」とことばが通い合う。「痛み」として、高橋は「老い」を感じている。「痛み」という感覚は、「若者」にもあって、それは「なまなましい、痛み」だ。「なまなましい」ものは、またその「なまなましい」力によって回復する。ところが「老い」の「ひりひり」は回復とは無縁のものだ。だからこそ、「ひりひり」「なまなましく」は書き分けられている。
高橋は、こう言いなおしている。
「なまなましく(なまなましい)」は「好もしさ」と言いなおされる。そこに「いのち」があり、それがひとを惹きつける。「好もしさ」は「美しい」と言いなおすこともできる。だからこそ「老い」の「醜さ」と対比される。「醜さ」は「頑なさ」と言いなおされる。「頑なさ」ということばのなかには「硬い(固い)」が隠れている。それは「なまなましさ(やわらかさ)」と向き合っている。
これを高橋は、さらに言いなおす。
「剥き出し(無防備)」は「(鎧わない)赤はだか」。しかし、それは「ことば」だけの「赤はだか」であって「肉体」ではない。主語は「魂」。
ことばの運動としての「必然性」は感じられるが、ことばがいくら自在に動いても、「肉体」が消えてしまっている。「肉体」を脇においておいて「老い」をことばの言い換え(言い直し)で語られても、惹きつけられない。
74 老いについて
高橋は一篇一篇の詩を独立した状態で書いているわけではないようだ。前に書いた詩をひきずりながら次の詩が書かれることもある。この詩は「72 裸身礼讃」から始まった「若者礼讃」のつづきとして読むことができる。「若者(裸身)」を高橋が礼讃するのは、高橋が「老人」であり、「裸身」の美しさを失っているという自覚があるためだ。
いまにして思い知る 老いはなんとひりひりと老いなのだろう
なまなましく感じ なまなましく苦しむ まるで若者のように
「ひりひりと」は「なまなましく」と言いなおされている。老いを「なまなましく」感じる、と高橋は書く。そして、その「なまなましく」のなかの「若さ」にすがっている。それを「いたいたしい」と言いなおせば「ひりひり」とことばが通い合う。「痛み」として、高橋は「老い」を感じている。「痛み」という感覚は、「若者」にもあって、それは「なまなましい、痛み」だ。「なまなましい」ものは、またその「なまなましい」力によって回復する。ところが「老い」の「ひりひり」は回復とは無縁のものだ。だからこそ、「ひりひり」「なまなましく」は書き分けられている。
高橋は、こう言いなおしている。
いや 若者の比ではない 若者は好もしさの甲冑に守られているが
老人を守るものは何もない あるものは醜さと頑なさだけ
「なまなましく(なまなましい)」は「好もしさ」と言いなおされる。そこに「いのち」があり、それがひとを惹きつける。「好もしさ」は「美しい」と言いなおすこともできる。だからこそ「老い」の「醜さ」と対比される。「醜さ」は「頑なさ」と言いなおされる。「頑なさ」ということばのなかには「硬い(固い)」が隠れている。それは「なまなましさ(やわらかさ)」と向き合っている。
これを高橋は、さらに言いなおす。
そのくせ魂だけが剥き出しに無防備 これもギリシアが
教えてくれたこと 何も鎧わない赤はだかのギリシアが
「剥き出し(無防備)」は「(鎧わない)赤はだか」。しかし、それは「ことば」だけの「赤はだか」であって「肉体」ではない。主語は「魂」。
ことばの運動としての「必然性」は感じられるが、ことばがいくら自在に動いても、「肉体」が消えてしまっている。「肉体」を脇においておいて「老い」をことばの言い換え(言い直し)で語られても、惹きつけられない。
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