素晴らしい低空飛行 | |
宮本 隆司 | |
書肆山田 |
阿部日奈子『素晴らしい低空飛行』(書肆山田、2019年09月30日発行)
阿部日奈子の詩は「現実」を題材にしているというより「文学」を題材にしているという印象が強かった。しかも外国の「文学」だ。外国の匂いが緻密に張りめぐらされている。「外国文学」のなかで完結している、といえばいいのか。
今回の『素晴らしい低空飛行』は、趣がかなり異なる。とくに前半の「日記」というか、日々の報告のような作品は、いままでの阿部の緊密な文体の印象からはかなりかけはなれている。「文学」というより「生活」を題材にしている。
しかし、「文学」を「ことば」と置き換えれば、以前の通りとも言える。「緊密」の度合いがかわった。しかし「ことば」と「ことば」の「距離」を常に一定に保つ、その「一体の距離感」を「世界の構造」にするという点では同じだ。それまでの「文学」の舞台が「欧羅巴(と、私はあえて漢字で書いておく)」だったのに対し、今度の詩集では舞台が「あじあ・おせあにあ」(こちらは、あえてひらがなで書いておく)だから、「緊密度」も自然と変わってくるのである。「湿度」と「温度」が人と人の距離を変えるように、ことばとことばの距離を変えるのだろう。そういう「処理」をきちんとしている、という点では、阿部のことばはあいかわらず「文学」そのものである。
その「日記風」の作品群の前に「詩・イカ・潜水夫」という奇妙な詩がある。こういう文体である。
あなたの詩が俺にとって何かと言えば……。焼津に来てから
俺には猫ジンクスというのがあって、三鷹で捨ててきた五匹
の猫と俺には天から割り当てられた食糧が決まっていて、俺
が肉を食べてしまうとそれだけ猫たちの取り分が減るような
気がしています。ここにはイカ料理がいろいろあるので、肉
類はできるだけ(一人のときは絶対に)避けて、なるべくイ
カを注文するようにしています。猫はイカを食べると腰が抜
けるから与えてはいけないと聞いたことがあるし、俺が食べ
れば猫たちが生ゴミの中からイカを見つける確率が下がるん
じゃないかと思うので。
だらだらとしたことば(論理)である。焼津、三鷹という土地の「距離感」がそのまま「俺」と「現実(猫/イカ)」の距離感になったような……つまり、いったいそれがどうしたのだ、あんたの「意味(ジンクス)」なんか、私(読者)には関係ねえぞ、と言ってしまいたくなる「ゆるさ」である。もっとも、これはこれまでの阿部の文体を知っているから感じることなのかもしれないが。
そう感じる一方で。
猫はイカを食べると腰が抜けるから与えてはいけないと聞いたことがあるし、
この一文で、私は、ふっと立ち止まる。「文学全集のことば」ではなく「俗説(暮らしのなかの俗語?)」が入ってくるところが「ゆるい」といえばゆるいのだが、「聞いたことがある」というひとことが、あ、ここだな、ここに阿部節(阿部語)の痕跡があるぞ、と思うのだ。
「文学」のように、すでにあることば(既存のことば)を利用して、ことばそのものをととのえる。「文学」をつらぬく何かと同じように、巷で語られることばには「巷のことば」をつらぬく何かがある。それはあらゆることばをつらぬく「何か」でもあるだろう。
その「何か」とは「何か」。
それを探して、詩集のことば展開する。
前半は「さまよう娘たち」というタイトルでくくられている。「娘たち」と書かれているのだから、それぞれの「日記」に出てくる「女性」はひとりではなく「複数」かもしれないし、ひとりであるけれどその日その日で別の人格をもつということがあるので「複数」として表現できる、だからほんとうは「ひとり」と考えることもできる。
書かれていることは、行く土地土地で違う男と出会い、わかれる、ということである。これは「娘」を「ひとり」と仮定したときのこと。「娘」が複数なら、それぞれの土地で男と出会うというよりも、その土地でたまたま男と出会うということになる。しかし、出会いによって「人」は変わると言えるから、出会いによって「ひとりの娘」が「複数の娘」になったと言いなおすこともできる。
そういう繰り返しの結果、どうなるか。「ジョグジャ再訪」に、こういう部分がある。
いつだったか、漁師街の詩を送ってくださったことがありましたね。狭い路地
には両側から庇が差し掛かり、濃い影を落としている。破れ塀や低い生け垣のう
しろに、あちこち傷んだ不揃いな家が並び、家と家との隙間からは砂浜が見えて
いる。何度も折れ曲がった先に、とつぜん視界が開けて海が見える空き地がある
ことを知りつつ(それとも「予感して」でしたっけ?)〈わたし〉は歩いている
……そんな詩でした。
この〈わたし〉は、最初に引用した詩の「俺」かもしれないが、「娘」が「複数」なら「俺/わたし」も複数であり、また「ひとり」だろうから、それはどうでもいい。私が注目したのは、
ことを知りつつ(それとも「予感して」でしたっけ?)
という部分だ。詩の「要約」なのだから「知りつつ」であろうが「予感して」であろうが、「大差」がないように思うかもしれない。しかし、そのどうでもいいような「細部」こそが、この詩を書いている「娘」には重要なのだ。「知る」と「予感する」はまったく違うことだが、一方で「知りつつ」だったか「予感して」だったか混同するくらいだから、区別がないと言えばないのだ。「意識」が動いていると言うことでは同じなのだ。
たぶん、こういうことなのだ。
何を書こうが、さらにどう書こうが、そこに書かれている「こと」は詩にとって重要ではない。文学にとって重要ではない。重要なのは「意識」が動いていること。ことばは意識を動かしている、ということなのだ。そしてそれはタイトルの「再訪」が示しているように「再び」くりかえすことで明確になる。「文学(ことば)」は繰り返されることで「ことば(文学)」になる。
「詩・イカ・潜水夫」の後半。「俺」はイカや他の魚を食いながら、
ふっともの悲しい気分におそわれる……そういうときに思い
出すのが、あなたの詩、というより、あなたの詩を読んだあ
との余韻のようなものです。そして、いくらなんでももっと
別の読まれ方があろうとは思うけれども、イカを喰いながら
あなたの詩を想う奴がいてもいい、あなたの詩の深度を「イ
カの対極」とか「イカより遥か彼方に」とか「イカと同じく
らい孤独」とか、さまざまに測量する潜水夫がいて、海面を
ぴしゃりと打って躍り上がるボラみたいに、焼津港から気ま
ぐれな合図を送っていることを、あなたはあんがい面白がっ
てくれるかもしれない……と、最近になって考えています。
「再び(繰り返す)」は、「思い出す」ということばのかに静かに隠れている。
ことばはことばを思い出す。ことばはことばに触れて動く。そのときの動きは、ことばを発したものが意図したものとは違うかもしれない。違っていてもかまわない。ことばが動くとき、そこに詩がある。それだけが「事実」なのだ。
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