詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

王秀英『よその河』

2019-10-31 19:19:13 | 詩集
王秀英『よその河』(epoch叢書2)(東宝社、2019年08月01日発行)

 王秀英『よその河』の詩集のタイトルになっている作品。全行引用する。

韓国から来日して
日本人の友ができるのは
幸運だといえる

口数少ない彼女は
雲が流れるように
さざ波が揺れるように
寂しさを拭ってくれた

外国人には簡単に
家を貸してくれない日本で
友は保証人になり
悲しみを癒してくれた

初めて経験した地震の恐怖に
自分の家族のように
心配してくれた

四季折々の花見にも
たくさんの祭りにも
連れて行っては私の日本での生活を
豊かにしてくれた

いつしか二人とも白髪が増え
人生の夕暮れの窓際で
彼女は私の手を握りしめて言った

うちはあんたを
韓国人やと思ったことは一度もない
いつかて 日本人やと思ってたんや
そのくらいあんたが好きなんや

 最終連の四行で、私は、あれっと思った。違うのではないだろうか。そう思ってタイトルを読み直す。そうすると「究極の差別」という副題がついていた。読み始めたとき、それを目にしていたはずだが、読み進んでいる内に「どこにも差別なんか書いてないけどなあ」と思い、しだいに忘れていったのだ。そして完全に忘れたころ、最後の四行が突然あらわれる。
 ひとはだれでも「ひとり」である。他人とは完全に違う。違うことを認めて、それからいっしょに生きる方法を探す。「違う」と思わないかぎり、それはひとをひととして認めたことにはならない。これを差別という。
 このことを王が、はっきりと書いてくれたことに、ありがとうと私は言いたい。王が書かなかったら、こういう態度が「差別」であると気がつかないひとが大勢いるのだ。もしかすると「韓国人は韓国へ帰れ」とヘイトスピーチを繰り返しているひとと同じくらい多いかもしれない。「韓国人は韓国へ帰れ」と主張するひとの根拠は「日本に住むなら日本をヘイトしてはいけない(批判してはいけない、ではなくヘイトしてはいけない、と多くのひとがいう)」、つまり「同化しろ」ということである。それは裏を返せば「同化」するなら日本にいてもいい、「同化」したひとだけ受け入れるということである。そして、この「同化」は「日本人になれ」ということである。王の友人は「日本人になれ」とは言わずに「日本人やと思ってた」と言っているが、これは「日本人になっている」と思っていたということなのだ。「花見」に連れていってくれたのも、王が韓国人だからではなく、「日本人なら花見をする」という押しつけだったかもしれない。

 詩から少し離れるが、この「同化」を求める動きは、とても強くなっている。韓国人に対してだけではない。日本人に対しても「同化」を要求する動きがある。
 芸術とは、究極の「個人主義」である。「他人」とは違う表現をすることが「芸術」のはじまりである。それなのに愛知トリエンナーレでは、「自分の考えている日本人のやることではない」という判断で作品が批判され、企画が中止された。
 「天皇を崇拝しなければいけない、肖像を焼くというのは日本人のすることではない」「慰安婦の訴えを聞くことは、日本の歴史を貶めることである」という主張は、そういう批判をするひとたちと「同じ天皇観」「同じ歴史観」を持てということ、「天皇観」「歴史観」において「同化」しろ、ということだ。そしてこの一部の人間の「同化要求」に河村名古屋市長は賛同し、権力は「表現の自由」を侵してはならないという憲法規定を破った。憲法違反をした。
 大浦信行の作品とパフォーマンスは、私から見ると天皇中心主義にしか見えない。「流通言語」で言えば「スーパー右翼」の世界観だが、「スーパー」であるためにそれが理解されず、天皇は崇拝する対象であるという次元への「同化」を強要されたことになる。なんとも滑稽なことである。
 「同化」は、あくまで「同化」を求めるひとと同じ水準での「同化」でなくてはならないのである。

 ここから王の詩にもどって。
 もし王が花見のとき、「和歌」を詠んだとする。そしてそれが古今や万葉の歌をひきついだ「日本の伝統美」としての「和歌」ではなく、新しい美を気づかせてくれた作品だったらどうなるだろう。つまり「同化」を越えて、オリジナルな世界にまで達していたらどうなるだろう。そこには、どうしても韓国人のアイデンティティにつながる表現がふくまれ、その結果として、新しい世界(つまり、それまで日本人が気づかなかった情景)が出現するのだとしたら、どうなるだろう。きっと「違和感」をもって排除されるのではないだろうか。
 「地震」についても同じことが言える。地震は、日本人にとっても怖いものである。その日本人のように「怖い」と訴えるではなく、王が「あ、この揺れが地震というものですか。地球からバランス感覚を試されていると思うと愉快ですね」と言えば、王は「韓国人は、やっぱり日本人とは違う」と排除されたかもしれない。
 王の、友人への対応が、たまたま友人が考える「日本人」の姿と同じだった、王が日本に「同化」していると感じたから、王を受け入れていたというだけのことかもしれないのである。
 友人は、王にどんな傷を残したのだろう。
 「去りゆく」を読むと、最初はわくわくし、最後は寂しくなる。でも、それは王にとっての必然であり、私は望んではいけないことを望んだのだ。私の寂しさは私の必然であり、王の王の必然である。寂しいから母国語で夢を見るのだ。

日本語が降ってきた
雨の日は雨になって
雪の日は雪になって

日本語が流れてきた
太陽が昇ると朝は明るい声で
月が出る夜は優しい声で

人生半ば
初めて耳にした

日本語は時々胸を
凍らせたが
歳月と共に熟れていき

寂しい人に会ったときは
寂しい姿で
悲しい人に会ったときは
涙色で伝わってきた

言葉も歳をとり
私の老いに寄り添い
痩せてきた

夢の中ではもう
母国語だけが
吹雪いている

 ふたつのことばを行き来しなければならない寂しさを抱えながら、それでも王が日本語で詩を書いていてくれている。
 このことに、やはり私はありがとうといいたい。最初の二連の美しさは、日本語だけで育ってきた人間には書けないものだと思う。王が見つけてくれた美しさである。王が日本語につけくわえてくれた美しさである。







*

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英語民間試験はだれのためのもの?

2019-10-31 10:33:48 | 自民党憲法改正草案を読む
英語民間試験はだれのためのもの?
             自民党憲法改正草案を読む/番外301(情報の読み方)

 2019年10月31日の読売新聞(西部版・14版)に、萩生田の「身の丈」に応じた受験の続報が載っている。自民党内にも「受験機会に嵯峨できるのは問題があるのではないか」という声が出始め、試験実施を先送りにする案が出ているという。
 それをつたえる記事の最後の部分。(二面)

 政府内には「大多数の大学や高校の関係者は予定通りの実施を前提に準備している。受験機材などに巨額の投資をした試験団体から国が損害賠償を請求される恐れもある」(文科省幹部)と予定通りの実施を求める声も根強い。

 私は、怒っていいのか、笑っていいのかわからなくなるくらい悲しくなった。
 一番問題の「受験生」のことを、この発言をした「文科省の幹部」は考えていない。受験によって一生の全てがきまるわけではないだろうが、受験生は一生のすべてがかかっていると思い受験に臨む。その受験生のためなら、どんな犠牲があってもいいじゃないか。どうして、そう考えられないのだろう。
 それにしても「損害賠償を請求される恐れ」には、まいる。結局、「金」のことし考えないのが官僚であり、その「金」を中心に見ていくと、また違ったものも見えてくる。
 この文科省幹部は「受験機材などに巨額の投資をした試験団体」と書いているが、その「巨額の投資」はどこへ行ったのか。「受験機材」の製作、販売会社である。つまり、今回の「英語民間試験」では「受験機材関係者」が「利益」を上げることができる。いままで売れなかった機材が、年に一回(あるいは二回)つかわれるだけのために売れる。そのもうけは、きちんと「税金」のかたちで国に納められるかな? もしかすると「おかげで大もうけさせていただきました。これは気持ちばかりのものですが……」という具合に文科相幹部やそれにつながる政治家にも還元されるのではないのかな? 萩生田には、どんなメリットがあるのかな?
 きっと「萩生田さんは、機材メーカーからキックバックがあったからそれでいいだろうけれど、私ら試験問題をつくっている側には何のメリットもないじゃないですか。試験が延期になって大損した。どうしてくれるんですか」と苦情をいわれるのを恐れてるんだね。(これを言いなおしたのが、損害賠償請求だけれど)。そして、もしそういう苦情がよせられるのだとしたら。
 きっと、それは。
 民間英語試験を受ける受験生は、いつも検定試験を受けるひとの数よりはるかに多い。つまり受験料収入も莫大なはずである。なんといっても民間試験を受けないことには大学受験ができない。この民間試験期間の収益は、きちんと納税されるかな? やっぱり一部は官僚や政治家に還元されるのではないのかな? 萩生田がなんとしてでも民間試験を導入したいのは、「利益還元」を期待しているからじゃないのかな?
 私は、そんなことも考えるのである。

 ひとはいつでも本音がもれてしまう。どんなに隠しても、ことばには、そのひとの思っていることが出てきてしまう。
 だから新聞を読むのが楽しい。その日のニュースの量しだいで削除されてしまうかもしれないものが、ときどき「おまけ」のようにして残っている。そして、そういう部分にこそ、笑いだしたいような、泣きだしたいような、「むごたらしい本音」がむき出しになっている。言った本人は「隠して話している」つもりなんだろうけれど。 



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(2)

2019-10-31 08:49:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (聞きそびれた昨日の言葉は)

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のように美しい

 「聞きそびれた」のになぜそれが「美しい」とわかるのか。「美しい」は断定として書かれているが、ほんとうは「想像」である。美しいと「思っている」(考えられる)。つまり、思うこと、考えることが「美しい」つくりだす。そして思うこと、考えることを具体的にするのが「ことば」である。「聞きそびれたことば」と「ことばを想像することば」が出会っている。それこそ、聞きそびれたことばと嵯峨の「肉体」のなかにあることばが「虹」となって詩のなかに広がっている。
 この現実には存在しない美しさは、詩にとって、魔力である。いつも「嘘」という危険をはらんでいる。だから嵯峨は、その美しさを否定してみせる。

しかしその虹を地上に引き下ろしてみると
それは一条の縄でしかない

 具体的な「内容(意味)」よりも、「その」「それ」と繰り返される指示詞が、嵯峨のことばを動かす力になっている。前に書いたことを何度も意識しなおしている。論理的であろうとしている。その厳しさが、そのまま「美しい」を否定する。「縄」は「虹」とおなじように「比喩」にすぎない。「ことば」を論理が、いや、論理になろうとする力が支配している。

 この詩の構造、前に書いたものを、後で消す(否定する)という視点から、きのう読んだ詩を読み直すとどうなるか。

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう

 海を掻きまぜるとき海が否定するのではなく、もしかすると「青い小枝」を否定しようとしているのではないか。あるいは「吹き折られる」という悲劇的な美しさを否定しようとしているのではないか。そういうことも考えてみる必要がある。そこに、もしかすると嵯峨の抒情の「核」のようなものがあるかもしれない。


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