詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛知トリエンナーレの「問題作」

2019-10-16 19:09:17 | 自民党憲法改正草案を読む
https://youtu.be/WSM9PSOsOFY

「遠近を抱えてパート2」をユーチューブの画像で見た。

どうしてこれが天皇を侮蔑していることになるのだろうか。
たしかに天皇の肖像はバーナーで焼かれている。
だから、天皇を蔑視している?

私はまったく逆にとらえた。
天皇を崇拝するな、というか、天皇を批判しないで戦争を語れないじゃないか、と怒りを感じた。

途中に少女が出てくる。従軍看護となって戦地へ行く。その手紙が読み上げられる。
海のなか(波打ち際)に立っている。海のいろは砂で濁っている。まるで血のように赤い。それは少女が死んだことを暗示している。
この少女、何の罪もない少女が戦争に奉仕させられて死んだのだ。
そのことを「美化」するために、天皇という存在が利用されている。少女の手紙のことばは「天皇の存在」ぬきでは成立し得ない美しさである。
それなのにその戦争を引き起こした天皇は、炎で焼かれてまるで存在しなかったかのように、消えていく。
「焼く」という行為のなかに、どんな「批判」も感じられない。

後半に、少女が砂浜で焼け焦げた写真を拾う。その写真は天皇の写真ではなく、見知らぬ少年(?)のものだ。
それを少女は慈しむようにかざす。
だれか、同じように、遠い戦地で死んでいった少女の写真を手に取って、少女のことを思うひとがいるか。
おそらく「肉親」だけである。「肉親」以外のひとは、少女のことを思い出さない。

これは「理不尽」だろう。
「天皇の肖像」は日本中にあふれ、みんなが「天皇」のことを知っている。そして、多くのひとが「天皇陛下万歳」と言って死んでいった。
その天皇が生き残り、なお敬われている。
少女のことは、だれが敬うのか。何人が敬い、思い出すのか。

「焼く」という行為には、「火あぶり」というものがある一方、その存在を別の次元に高めるというものもある。
「火葬」というのは後者であるだろう。
ここでは作者は「天皇の火葬」をしている。
火葬することで、犯罪者である天皇を「霊」に高めている。
そこにはどんな「批判」も「憎しみ」もない。

この少女は、きちんと火葬され、その「霊」を清められたのだろうか。
そのことを想像するだけで、「天皇」と「少女」の違いの理不尽さに怒りが込み上げてくる。

名古屋市長や、この作品を批判しているひとは、いったい何を考えているのだろう。
私は天皇崇拝者ではない。天皇制度はなくすべきだと考えている。
もし私が天皇崇拝者なら、この作品に感謝するだろう。
親元を離れて死んでいった少女を、「美しい手紙」という形閉じ込め、その「手紙のことば」をととのえる力としての「天皇」を讃美し、その存在を「焼く」という行為を通して、批判の彼方へ消してしまっている。
これでは、いったいだれが、どうやって天皇を批判すればいいのか。
批判封じの作品ではないか。

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ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

2019-10-16 00:05:24 | 映画

ダニー・ボイル監督「イエスタデイ」(★★★★)

監督 ダニー・ボイル 出演 ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ

 これは何というか、イギリス以外では絶対つくることができない「味」を持った映画。どこが「イギリス味」かというと、みんな、相手がだれであろうが自分の「身分」を離れないということ。うーん、イギリスというのは徹底的に「階級社会」なのだ。自分の属する「階級」とは「親密」につきあうが、そうでなければ知らん顔。たとえ知っていても、知らない顔をする。これは逆の言い方をすると「分断社会」、「個人主義の社会」ということにもなるのだけれど。
 象徴的なのが、主人公ヒメーシュ・パテルの歌(といってもビートルズの歌)だけれど聞いたシンガー・ソングライターのエド・シーラン(本人/私は知らないけれど、有名人らしい)が主人公の家を尋ねてくる。主人公の父親は、彼を見ても「エド・シーランに似ているなあ」「本人だよ」「ふーん」という感じ。「階級(住む社会)」が違うから、何の関係もない。たとえ有名人だとしても、それがどうした?という感じ。主人公にとってはびっくり仰天だが、それは主人公とエド・シーランとの関係であって、父親とエド・シーランは無関係。言い換えると、究極の個人主義とも言える。(「ノッティングヒルの恋人」にも似た感じの味がある。大女優・ジュリア・ロバーツとイギリスの普通の男が恋愛するけれど、それでどうした、という感じで周囲が見ている。)
 だから、というと奇妙に聞こえるかもしれないけれど。
 ヒメーシュ・パテルが「新曲」と言って家族に「レット・イット・ビー」を弾き始める。でも最初の部分だけで、つぎつぎに邪魔が入って最後まで歌えない。家族や父親の友人は「聞きたい」とは口では言うが、真剣に聞く気持ちは全然ない。どうせ、つまらない曲、自己満足の曲だと思っている。思っているけれど、口にはしない。この「個人主義」もなかなかおもしろい。日本だと、「聞きたい」と言った手前、最後まで聞く。でも、イギリスは気にしない。聞く方には聞く方の「事情」がある。そっちを優先させてしまう。ヒメーシュ・パテルは「家族」だけれど、音楽という違う「階級」にも属していて、そんなもの私の知ったことじゃないと、両親も、その友人も、どこかで思っている。
 最後のコンサートシーン。父親が楽屋(といっても、ホテルの一室)を尋ねてくる。そこで何をするかといえば、皿に載っている手つかずのサンドイッチを見つけて「それ、全部食べるのか」と息子に聞く。ヒメーシュ・パテルは、父親に全部やってしまう。いったい全体、これはどういう親子? でも、これがたぶんイギリスの「親子関係」なのだ。一緒にいても、それぞれの「領域」があり、個人と個人の「つきあい(社交)」がある。それを優先する。つまりは「個人」を優先する。
 これが映画(ストーリー)と何の関係がある?
 とっても深い関係がある。この奇妙な「個人主義」(階級の分断)と共存こそが、この映画の神髄なのだ。
 ビートルズ。世界のアイドルだが、イギリス人にとっては世界と共有する音楽でとはなく、あくまで個人とビートルズの関係にすぎないのだ。「すぎない」と書くと語弊があるが。あくまでひとりの人間としてビートルズが好き。他のひとがビートルズが好きであっても、その「好き」はひとりとは関係がない。「個人」とビートルズが音楽を共有するのであって、「個人」が「大勢のファン」と共有するものではないのだ。
 このことをはっきりと語るのが、ビートルズを知っているふたり。ふたりは、ビートルズを知っていて、そのことをヒメーシュ・パテルに告げに来る。「盗作」というか「剽窃」だと知っているけれど、非難しない。逆に、「ビートルズを世界に広げてくれてありがとう」と言う。ビートルズと世界のひとりひとり(個人)がつながる。そのことに悦びを感じている。ちょっとイスラム教徒の神と個人の関係に似ているかなあ。そこにあるのは「個人契約」だけ。あくまで「個人」がビートルズを楽しむ。
 アメリカの音楽業界の「一致団結」してビジネスにしてしまう感覚とは大違い。
 ヒメーシュ・パテルはアメリカ資本主義が提供する大成功をほっぽりだす。全部の曲を無料ダウンロードできるようにして、ヒメーシュ・パテルは「自分」にもどって行く。みんなが好き勝手にビートルズを楽しめばいい。大勢で楽しむのはそれはそれで楽しいが、「個人」で楽しんでもいいのだ。みんなで楽しまないといけないというものではない。
 いいなあ、この「愛し方」。「階級」で分断されているから、「独立」というか「自立」の精神も強いのだ。「個人」でいることの「自由」を知っている。たしかに自由は「個人」であることが大前提だ。ダニー・ボイル監督は「私はこんなふうにビートルズが好き」と、自分のビートルズの愛し方を映画にしたのだ。
 ジョン・レノンとの出会い、会話の部分も、そういうことを語っていると思う。
 イギリスの「個人主義」はいつ見ても美しいと私は感じる。絶対に自分を離れない。生まれ育った世界に自己という足をくっつけて生きている。ヒメーシュ・パテルが、ビートルズの「ことば」を思い出せなくて、リバプールを尋ね歩くことも、そういうことを象徴している。知っていることしか、ことばにできない。(ということを、ビートルズを覚えているふたりが主人公に語る。)ビートルズが、なんとも不思議な形でスクリーンいっぱいに広がる。ビートルズを聞きながら、イギリスへ行ってみたくなる、ビートルズの歩いた場所を歩きたくなる映画だ。

 (2019年10月15日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)


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