詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」

2019-10-10 09:54:11 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」(「侃侃」32、2019年09月20日発行)

 井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」を読みながら、「抒情はどこへ向かうか」ということばが頭に閃いた。きのうフェイスブックで山本育夫の書き込みに「抒情病」ということばを見かけたせいかもしれない。山本の作品はまだ読んでいないのだが、抒情はたしかに「病」かもしれない。
 どんな病か。どんなふうにことばをむしばむか。あるいは、そこからことばはどんなふうに回復できるか。そういうことを、ちょっと考える。ことばにできるかどうかは、書いてみないとわからないが。
 で、井上瑞貴「白い花はすべて光を反射する」の一連目。

二行目から始まる詩を書きながら
背後の影に住む女に振り返っている
いつでもその日は間に合わないあくる日だけど
なんのあくる日なのかぼくはしらない
私は記憶
遠い耳にささやく雷鳴のような
日没化する日々の消された記憶

 書き出しの「二行目から始まる詩を書きながら」が、「いまの抒情」だともいえるし、かつての「モダニズムの抒情」だともいえる。歴史は繰り返す。どこに特徴があるか。「二行目」と書くことで、存在しない「一行目」を浮かび上がらせる。というよりも、それは「存在しない」ということを、つまり、「ない」ということを浮かび上がらせる。言い換えると、テーマにする。
 ふつうひとは、「ある」ことを書く。「ない」ことは書けない。はずだけれど、ギリシャの昔から「ない」ということが「ある」を発見したひとは、その「ない」を書かずにはいられない。矛盾が「頭脳」を刺戟するのである。
 これが「いまの(そしてモダニズムの)抒情」。「感情」ではなく、まず「頭」をゆさぶる。思考へ向けてことばを動かす。
 これは考えてみれば、ちょっとおかしなことである。
 「抒情」は文字を見ればわかるが「情(感情)」を描くものである。「感情」は「頭(理性)」とは別個のものである。でも、「感情」といわずに「感性」と言いなおすと、「感性」と「知性」はどこかで交錯する。そして、この交錯する「現場」が「いまの(そしてモダニズムの)抒情」ということになる。
 「頭(知性)」への刺戟が「感性(感情)」に反映する。そのときの微妙な動き。
 これは「背後の影に住む女に振り返っている」という古くさいことばをとおったあと、「いつでもその日は間に合わないあくる日だけれど」という、えっ、いま何て言った?と問い返したくなるようなことばになって「頭」を刺戟する。「間に合わないあくる日」というのは、何かに間に合わなかった「あくる日」ではなく、「あくる日」という時間そのものが何かに間に合わないのだ。「あくる日」というのは、まだ来ていない(現実になっていない)日なのに、それが「何か」という現実に間に合わない。これは「『ない』が『ある』」という定義と同じで、ことばの運動としては成り立つ。そして、ことばとして成り立つ以上、そのとき私たちは何かを了解しているのだが、その了解を「わかることば」で言いなおすのはむずかしい。「肉体」がかってに納得しているだけで「頭」は完全に「解明」していない。こういうことを「感性と知性の交錯」といえるかもしれない。「勘違い」かもしれないし、インスピレーションだけが教えてくれ「真実」かもしれない。
 まあ、ことばなので、何とでも言える。どうとでも「論理」にしてしまうことはできる。で、こういうことに深入りしてまうと、窮屈だし、何というか「危険」なものを含んでしまう。だから、私はこれ以上追いかけないし、また、井上の詩もそれを追いかけていない。
 「なんのあくる日なのかぼくはしらない」。「しらない」と突き放した上で、「私は記憶」と飛躍する。「ぼく」は「しらない」。それが「私」であり、「私」とは「記憶」なのだということは、これもまた、テキトウなところで切り捨てて、ここには「ぼく」と「私」が「記憶」というもののなかで交錯しているとだけ指摘しておく。「ぼく」と「私」のどちらが「知性」であり「感性」なのか、読者は好きに考えればいい。井上だって、そこまでは考えて書いていないだろう。ただ「ぼく」のままにしておきたくはなかった。かといった「他人」にしてしまうのもいやなので「私」と呼んでみただけだろう。
 書いている詩人にもわからないことがある。わからないから、ことばに身をまかせるということがある。そして、わからないものに身をまかせるというのが、「抒情」ということでもある。わかった瞬間に「抒情」ではなくなる。
 ここで終われば「いまの抒情」になると思う。でも、こうい中途半端なところでことばを終わらせるというのはなかなかむずかしい。どうしても「結論」のようなものを書きたくなる。「おとしまえ」をつけたくなる。「中断」(あるいは判断停止)ではなく、「結論」がほしくなる。
 詩は昔から「起承転結」が基本で、「知性」も「感性」も「結」を必要とするのかもしれないが、「結」で閉じてしまうと、とたんに「モダニズム」になってしまう。「知らない」はずが「知っている」ものとして存在してしまう。「ない」が「ある」ではなく、「あった」が再び「ある」としてあらわれる。
 あ、抽象的で、わからない? そうだねえ。
 でも、私は、井上の書いている「二連目」を引用したくないのだ。どこがつまらないか、ということも書きたくない。「一連目はおもしろかった」とだけ書いておきたい。別なことばで言いなおせば、「一連目は、現代詩でも抒情が再び動き出した」ことを感じさせるが、「その向かう先(行先)は二連目ではない」と私は感じている、ということだ。
 気になるひとは、ぜひ、「侃侃」32を読んでください。
 (私の書いていることは、新手の詐欺商法かもしれないし、詐欺予防かもしれない。)





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