生田亜々子『戻れない旅』(現代短歌社、2018年08月27日発行)
生田亜々子『戻れない旅』は文学フリマ福岡でみつけた一冊。生田亜々子は、ホールの片隅に、壁を背にしてひっそりと座っていた。
巻頭の連作は「生きているものだけに降る雨」というタイトルがついている。そして、その第一首。
私は、いきなりつまずいた。
情景はすぐに思い浮かぶ。満ち潮になって、川を潮が逆流する。その潮の動きを光の動きでとらえている。
これはたぶん夕方だろう。詠い出しの「流れ」は水の流れを指しているのだが、それは「時」の比喩ともなっている。時が流れ、夕方になる。そのとき満ちてくる潮は、遠い夕陽の静かな光を運んでいる。やがて消えていく光である。やがて消えていくけれども、生きている証として静かに光っている。暗さを含むことで逆に印象的になる光だ。
私がつまずいたのは「汽水」ということばを生田が選んでいる点である。わざわざ「汽水」という必要があるのか。それが、私の最初のつまずきである。そのあと「上がり」ということばにもつまずいた。私のことばには「潮上がる」はなかった。「上げ潮」ということばがあるから「潮上がり」でもいいのだろうが、私は「潮上がり」ということばをつかったことがなかった。私には「潮上る」しかない。なぜ「潮上がり」なのか。「汽水」と関係があるのかもしれない。「汽水」のなかにある「き」、つまり「か行」の音。な「が」れ、「ぎゃ」く、ひ「か」り、は「こ」ばれて、「き」すい、しおあ「が」り。生田の「肉体」のなかでは「か行」が響いているのだろう。そう理解した上でも、なお私は「潮上がり」についていけないのだ。
生田は、この「しおあがり」の「が」を、どう発音するのだろうか。九州のひとだからたぶん破裂音の「が」だろう。鼻濁音の「が」として発音することはないだろう。私の「肉体」のなかに、その破裂音「が」が突き刺さり、ちょっとひるんだ、というのが第一印象なのだ。語中の破裂音の「が行」にはすっかりなれてしまっていたつもりだし、自分でも破裂音で発音するようにしているのだが(そうしないと、九州のひとには「な行」と勘違いされる)、耳慣れないことばなので、それについていけなかったのだ。音というのは、なかなか執念深い「肉体」を持っている。
そういうことがあったので、ページをめくるのをすこしためらった。でも、何かがページをめくれ、次の歌を読め、と私の「肉体」を突き動かす。
この矛盾した「動き」のなかに、何かが隠れている。生田の書きたいことが隠れている、という感じがするのである。それは「時間」というものではないか、と感じたのだ。「時間」には「過ぎ去る時間」と「停滞する時間」がある。そしてその「停滞する時間」というのはただ停まっているというよりも、「満ち潮」のように遠くからやってくる「未来」によって引き起こされる。流れに棹さして「過去」から「いま」、さらに「未来」へと時間が流れていくのではない。「過去」から「いま」へ流れてくる動きとは別に、「未来」から「いま」へと押し寄せてくるものがある。それを聞き取れ、と私のなかの声が語りかけてくる。
で、その声に押されるようにして、私は読み進む。
「伝えたいことばかりある」のは「伝えていない」からである。ここにも「時間の流れ」の矛盾のようなものがある。なぜひとは伝えたいことを伝えないのか。そして伝えないのなら、なぜそのことにこだわるのか。「ほんとうは伝えたい」からだ。いまでも「つたえたい」と思っている。思ってしまう。そのせめぎ合う「いま」をそのままにして、「切手の絵柄」が変わってしまう。この変化は「過去」が動いてそうなったのか、あるいは「未来」がいまへやってきて、そのために起きたのか。「伝えたい」と思った時間を起点にして言えば、その変化は「満ち潮」のようにやはり遠い「未来」からやってきたのである。
この歌でも、私は「絵柄」という音につまずいた。どうも、生田の「音」は私の「音」とは違う基準で動いている。私はふと九州へ初めてやってきたときに感じた「違和感」を思い出す。日本語だから「意味」は、わかる。でも、私はそうは言わないという「音」で満ちている。「共通語」で書かれた「文学」でさえ。これは、これ以上は説明がしにくいのだが。
「つなぎたい手」と「つなぐはずだった手」は「同じひとつの手」である。「つたえたいこと」と「つたえられなかったこと」が同じであるように。
そうであるなら「川上から流れてきた水」と「海からのぼってくる潮」もどこかで「同じ」である。川の水は、海の潮にとかわっているのだから。
「過去」と「未来」が、どちらがほんとうに「過去」なのかわからなくなる。「つなぐはずだった手」は「つなぎたい手」から見れば「未来」である。そして、その「いま」ここにある「未来」が、「過去」(つなぎたい)を「時間」をつきやぶり「現実」(事実)として噴出する。この荒々しい瞬間を「静かな雨」がつつむ。
もう一首。
「信じたい」の「過去」には「疑い」がある。そして、その「疑い」は「過去」にとどまっているのではなく、いつも「いま」を突き破って「未来」へと動いていく。まるで「疑い」が「未来」からやってくるかのようだ。
「時間」とは、そういう矛盾を抱え込んだものなのだろう。
どうするか。「測らない」と生田は動詞を動かしている。「測る」(はっきり数値化できるようにする、客観化する)のではなく、そういう運動を「ない」ということばで否定する。
ここに強い「哲学(思想)」がある。自分のなかで動くもの、動くものは必然的に「時間」を生み出していくのだが、それを「ない」と否定する。それは「自己否定」というよりも「自己無化」ということかもしれない。自己を「無」にする。「無」にすることで世界を受け入れる。あるがままにする。そのとき「時間」は「過去-現在-未来」という垂直方向(と仮に読んでおく)の流れではなく、「いま」を「過去-現在-未来」という流れを水平に解放する。そういうおもしろさというか、広がりをもつ。
と書いたので、もう一首。
この「思想」を生田は「幼少の暗がり」と呼んでいることがわかる。「休日の公園」ではなく「幼少の暗がり」の方が、生田を支えているのだ。「休日の公園」にきて、生田は「幼少の暗がり」をじっと抱きしめ、抱きしめたことを確かめてから歩きだすのだろう。この歌の中に、一首目の「暗さ」に通じるものを私は感じ、ふっと息をつく。
歌集を読み通したわけではないが、とても印象的なことばの動きである。
*
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生田亜々子『戻れない旅』は文学フリマ福岡でみつけた一冊。生田亜々子は、ホールの片隅に、壁を背にしてひっそりと座っていた。
巻頭の連作は「生きているものだけに降る雨」というタイトルがついている。そして、その第一首。
流れとは逆に光は運ばれて汽水の川に潮上がり来る
私は、いきなりつまずいた。
情景はすぐに思い浮かぶ。満ち潮になって、川を潮が逆流する。その潮の動きを光の動きでとらえている。
これはたぶん夕方だろう。詠い出しの「流れ」は水の流れを指しているのだが、それは「時」の比喩ともなっている。時が流れ、夕方になる。そのとき満ちてくる潮は、遠い夕陽の静かな光を運んでいる。やがて消えていく光である。やがて消えていくけれども、生きている証として静かに光っている。暗さを含むことで逆に印象的になる光だ。
私がつまずいたのは「汽水」ということばを生田が選んでいる点である。わざわざ「汽水」という必要があるのか。それが、私の最初のつまずきである。そのあと「上がり」ということばにもつまずいた。私のことばには「潮上がる」はなかった。「上げ潮」ということばがあるから「潮上がり」でもいいのだろうが、私は「潮上がり」ということばをつかったことがなかった。私には「潮上る」しかない。なぜ「潮上がり」なのか。「汽水」と関係があるのかもしれない。「汽水」のなかにある「き」、つまり「か行」の音。な「が」れ、「ぎゃ」く、ひ「か」り、は「こ」ばれて、「き」すい、しおあ「が」り。生田の「肉体」のなかでは「か行」が響いているのだろう。そう理解した上でも、なお私は「潮上がり」についていけないのだ。
生田は、この「しおあがり」の「が」を、どう発音するのだろうか。九州のひとだからたぶん破裂音の「が」だろう。鼻濁音の「が」として発音することはないだろう。私の「肉体」のなかに、その破裂音「が」が突き刺さり、ちょっとひるんだ、というのが第一印象なのだ。語中の破裂音の「が行」にはすっかりなれてしまっていたつもりだし、自分でも破裂音で発音するようにしているのだが(そうしないと、九州のひとには「な行」と勘違いされる)、耳慣れないことばなので、それについていけなかったのだ。音というのは、なかなか執念深い「肉体」を持っている。
そういうことがあったので、ページをめくるのをすこしためらった。でも、何かがページをめくれ、次の歌を読め、と私の「肉体」を突き動かす。
流れとは逆に光は運ばれて
この矛盾した「動き」のなかに、何かが隠れている。生田の書きたいことが隠れている、という感じがするのである。それは「時間」というものではないか、と感じたのだ。「時間」には「過ぎ去る時間」と「停滞する時間」がある。そしてその「停滞する時間」というのはただ停まっているというよりも、「満ち潮」のように遠くからやってくる「未来」によって引き起こされる。流れに棹さして「過去」から「いま」、さらに「未来」へと時間が流れていくのではない。「過去」から「いま」へ流れてくる動きとは別に、「未来」から「いま」へと押し寄せてくるものがある。それを聞き取れ、と私のなかの声が語りかけてくる。
で、その声に押されるようにして、私は読み進む。
伝えたいことばかりあるいつの間に変わってしまった切手の絵柄
「伝えたいことばかりある」のは「伝えていない」からである。ここにも「時間の流れ」の矛盾のようなものがある。なぜひとは伝えたいことを伝えないのか。そして伝えないのなら、なぜそのことにこだわるのか。「ほんとうは伝えたい」からだ。いまでも「つたえたい」と思っている。思ってしまう。そのせめぎ合う「いま」をそのままにして、「切手の絵柄」が変わってしまう。この変化は「過去」が動いてそうなったのか、あるいは「未来」がいまへやってきて、そのために起きたのか。「伝えたい」と思った時間を起点にして言えば、その変化は「満ち潮」のようにやはり遠い「未来」からやってきたのである。
この歌でも、私は「絵柄」という音につまずいた。どうも、生田の「音」は私の「音」とは違う基準で動いている。私はふと九州へ初めてやってきたときに感じた「違和感」を思い出す。日本語だから「意味」は、わかる。でも、私はそうは言わないという「音」で満ちている。「共通語」で書かれた「文学」でさえ。これは、これ以上は説明がしにくいのだが。
つなぎたい手とつなぐはずだった手と静かな雨に包まれる夕
「つなぎたい手」と「つなぐはずだった手」は「同じひとつの手」である。「つたえたいこと」と「つたえられなかったこと」が同じであるように。
そうであるなら「川上から流れてきた水」と「海からのぼってくる潮」もどこかで「同じ」である。川の水は、海の潮にとかわっているのだから。
「過去」と「未来」が、どちらがほんとうに「過去」なのかわからなくなる。「つなぐはずだった手」は「つなぎたい手」から見れば「未来」である。そして、その「いま」ここにある「未来」が、「過去」(つなぎたい)を「時間」をつきやぶり「現実」(事実)として噴出する。この荒々しい瞬間を「静かな雨」がつつむ。
もう一首。
乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある
「信じたい」の「過去」には「疑い」がある。そして、その「疑い」は「過去」にとどまっているのではなく、いつも「いま」を突き破って「未来」へと動いていく。まるで「疑い」が「未来」からやってくるかのようだ。
「時間」とは、そういう矛盾を抱え込んだものなのだろう。
どうするか。「測らない」と生田は動詞を動かしている。「測る」(はっきり数値化できるようにする、客観化する)のではなく、そういう運動を「ない」ということばで否定する。
ここに強い「哲学(思想)」がある。自分のなかで動くもの、動くものは必然的に「時間」を生み出していくのだが、それを「ない」と否定する。それは「自己否定」というよりも「自己無化」ということかもしれない。自己を「無」にする。「無」にすることで世界を受け入れる。あるがままにする。そのとき「時間」は「過去-現在-未来」という垂直方向(と仮に読んでおく)の流れではなく、「いま」を「過去-現在-未来」という流れを水平に解放する。そういうおもしろさというか、広がりをもつ。
と書いたので、もう一首。
●として持つ幼少の暗がりをこの休日の公園にまで
(注・●は「火」ヘンに「奥」のツクリ。私のわーぶろでは表示できない)
この「思想」を生田は「幼少の暗がり」と呼んでいることがわかる。「休日の公園」ではなく「幼少の暗がり」の方が、生田を支えているのだ。「休日の公園」にきて、生田は「幼少の暗がり」をじっと抱きしめ、抱きしめたことを確かめてから歩きだすのだろう。この歌の中に、一首目の「暗さ」に通じるものを私は感じ、ふっと息をつく。
歌集を読み通したわけではないが、とても印象的なことばの動きである。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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