詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子『旅を編む』

2019-10-19 10:56:07 | 詩集
旅を編む
白井 知子
思潮社


白井知子『旅を編む』(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』にもどる前に、ちょっと寄り道。白井知子『旅を編む』について書いてみる。寄り道が脇道になり、違う方向へ行ってしまうかもしれないが、歩いてみないとわからない。踏み外すことでしかたどりつけないところもあるだろうし、踏み外しそのものが「ほんとう」を気づかせてくれることもある。それは、私のことばは、ここまでしか動けないという「できないこと」の自覚ということもある。書いてみないと、わからない。
 というのは、私の「独白」。

 江代の詩は、意識がつくりだす風景、ことばにすることではじめて具体的にあらわれてくる風景である。しかも、そうやって生み出された風景を否定するように、「ことば」だけが前面に出てくる。どうしても風景を見ているというよりも、「ことば」を読んでいるという印象が強くなる。つまり精神的風景を読んでいるという印象だ。風景を、情景を浮かび上がらせているはずなのに、浮かんできた情景はすぐに引き下がってゆき、「ことば」がうわずみのように「透明」になって、その存在を主張している。
 白井の詩は、印象がぜんぜん違う。旅、旅先で出会った情景、ひと、つまり白井にとっての「事件」を書いている。そこに書かれている風景、ものは、白井が書かなくても存在する。もちろん江代の詩でも、江代が書かなくても存在するのかもしれないが、書かなくても存在するというときの「書かなくても」の度合いが違う。なぜなら、白井が書いている「風景」「もの」「ひと」は、日本語では書かれたことがないものだからだ。白井は書くことによって、旅で出会ったものを「日本語」にしている。情景があらわれてくるのではなく、「日本語」が生み出されてくるのだ。「ことば」のうまれ方が違う。
 白井のことばが他の日本語のなかへ引き返すとき、そこには「断絶」がある。日本語で書かれているが、それは日本という「背景」をもっていない。江代の「ことば」はほかの「ことば」に引き返すとき、「断絶」ではなく「連続」を利用するのと大きな違いがある。江代のことばは日本語(の精神)という背景をもっていて、その背景と江代のことばを重ねるときに、重ねながら(連続させながら)、不思議な「差異(ずれ)」を感じさせ、読者を奇妙な不安に陥れるという性質をもっている。
 
 こんな抽象的なことを書いても、どうしようもない。抽象的だから、逆のことも簡単に言うことができるだろう。抽象はいつでも「後出しじゃんけん」のように完結へと「論理」を動かしていく。ことばを、そうやって閉じ込めてしまう。
 それにこんなことを書いていては、白井の詩に入っていけない。

 最初から、ことばを動かしなおしてみる。

 白井知子『旅を編む』の詩は、外国を旅したときのことを書いている。日本語で書かれている。その日本語を私は読むことができるが、その日本語の前に、まず「外国のもの」がある。意識(日本語)よりも前に、「もの」がある。「もの」には日本語ではないもの(外国語)がいっしょに存在する。だから、意識があるとすれば、その外国語のなかにある。白井は、意識を持った「もの」ではなく、意識を持たない「もの」に出会い、それを「日本語」という意識に変えている。白井によって、日本語の意識でとらえられた「もの」がそのたびに誕生する。「日本の意識」と断絶しているから、ごつごつした感じ、硬い感じが、そこから噴出してくる。「もの」に出会っている感じがする。
 「少年ヴォロージャ」という作品。

南コーカサス グルジア
昼餉は古都ムツヘタにある民家 リラさんのお宅で
玄関まで蔓バラが咲きこぼれていた

 ことばのひとつひとつが真夏の太陽に照らされた「もの」のように「陰」を持たずに、直接、存在している。「直接」という印象があるのは、白井のことばが、帰っていくべき「日本語の背景」を持たないからだ。「背景」を持たないまま、ここから動いていくしかないからだ。書かれていることばは、知っている。「意味」はわかる。だが、それは「ほんとう」ではない。私が勝手にそう思うだけで、私は白井が見たものを見てはいない。白井だけが見たものが、ここにことばとして生まれてきている。
 この生まれてきて、存在することばの強さについていくのはなかなかつらい。どうやって白井は、こういうことばの強さを手に入れたのか。なぜ、それがここに存在しているのか。
 白井は、こんなふうにも書いている。(いったん、「少年ヴォロージャ」から離れる。)

イスファハーン イマーム広場
イスラム教回廊バザール 読まれていくのは わたしだ

 生み出すと同時に、生まれる。それは「読まれる」(他人のことばで白井がとらえられる)ということでもある。そこには一種の戦いのような緊張がある。その緊張がことばのすべてを強くしている。「精神」にもどっている余裕はない。「肉体」そのものを動かし、自分を「存在」させるしかない。そういうことを体験してきて、はじめて手に入れることのできる「力」が白井のことばにはある。
 でも、それを支えるのは、ほんとうに「肉体」だけか。「肉体の体験」だけか。ここからもう一度「少年ヴォロージャ」にもどる。

中座し 玄関側の廊下へ
迷い込むようにして 民家の奥へとすすむ ノブに手をかけ 扉をおした
そこは 納屋から裏庭へ
逆光のなかから 少年の蒼い影が近づいてくる
わたしは手前の階段をのぼりきる
蜘蛛が走っていく
二階の部屋があいていた
少年がやってくる
階段を一段 そして 一段 あがってくる

 ことばを追いかけるとき、動詞にあわせて私の「肉体」は動く。「わたし」になったり「少年」になったりしながら、私は動く。これは江代の詩を読むときも同じだが。
 そして、動詞になりながら、ノブとか扉とか、裏庭とか階段とかに「もの」そのものとして出会っていく。そこには逆光だとか蒼い影だというような「もの」から少しはなれたものも含まれる。「もの」ではないけれど、それが「事実」であると感じる。
 どうして?
 知らない「もの」なのに。知らない「世界」なのに。なぜ「事実」と言える?

リラさんの民家が
十歳になる少年ヴォロージャの夏の家につながっていたなんて--

 ここまで読んで、私は、はっと気がつく。
 「つながっていた」。「つなぐ」という動詞に、そうだったのかと思う。
 白井はリラさんの家を訪問した。そして昼食のあと昼寝のため(?)、別な部屋に移動する。そうすると、その白井の動きのなかに過去がよみがえる。少年ヴォロージャに出会ったことを。「いま」が「過去」とつながること、「過去」が「いま」につながることを、「いま」を起点にして「思い出す」というが、「思い出す」と「隔たり」がなくなることである。
 白井は、すべてが「つながっている」ことを発見するのだ。

リラ家がバグダジ村から
菩提樹の薫る 四月のモスクワの通り ルビャンスキー横丁三番にまでつながっていたなんて--

 そのつながりは、時空を超える。あるとき、白井は「手袋」をなくした。どこで?

リラ家は もう一軒
陽炎の小道で
グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり
そこの椅子に落としてしまったのだ

 つながりは、自在である。まるで「精神」のようだ、と書くと、江代の、「うねる精神/ねじれる精神/立ち止まる精神」としての「ことば」重なってしまいそうだが、何かが違う。
 何が違うのか。

グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり

 この一行の最後にかかれた「あり(ある)」という動詞、「ある」を意識していることが違うのだと思う。
 「つながることがある」は「つながるものがある」でもある。白井は、その「ある」に引き寄せられて動いていく。「ある」そのものに「なる」。「つなげる」に「なる」と少しだけことばを変えてみることもできる。
 白井の詩は、行動としての詩、「行動詩」なのだ。「つなぐ」ことで白井自身がかわりつづける「叙事詩」なのだ。精神は、詩をもう一度読み直すとき、「肉体」のなかを動いていく。

 もちろん「つなぐ」という運動は精神でもおこなわれる。ある存在を別の存在に繋ぐことを「比喩」という。「君は赤いバラ」と言えば「君」と「赤いバラ」が結びつけられ、同一視される。そういう結びつけのなかに(比喩のなかに)、「抒情の芽」がある。精神にしかできない動きがある。
 と、書いて、私は江代の詩集へもどっていけば、また何か書けるかなあと考えている。




*

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