詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋順子『さくら さくらん』

2019-10-22 12:03:39 | 詩集
さくら さくらん
高橋順子
デコ


高橋順子『さくら さくらん』(deco、2019年11月04日発行)

 高橋順子『さくら さくらん』の帯に「くうちゃん 詩がおわらないよ」と書いてある。車谷長吉が死んだあとの作品を含んでいる。三部にわかれていて「Ⅲ」に車谷のことが書かれているが、他の作品にも車谷は隠れているだろう。
 たとえば「不幸なお尻」。

お遍路に行ってたくさん歩いたせいで
お尻が小さくなってしまった
歩きやすい体になったのか
椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか
不幸なお尻よ と嘆かずに
また歩こう
こんどは足の裏に幸福をつくる

 「お尻」を「車谷」に置き換えて読むと少し無理があるかもしれないが、「無理」なのはきっと車谷の自己主張(高橋のことばで言えば「甘えん坊」)が強いからだろう。
 とくに、

椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか

 に、そういうことを感じる。甘えられて、まといつかれて、いるときは「うるさい」(邪魔)という感じもするかもしれないが、いなくなると「バランス」がとれない。落ち着かない。「寒い」と体が感じるこころの寒さだ。

さてはわたしの幸福感は「車谷(の存在)」にあったのか

 こう読むと、とても落ち着く。
 このことばに先立つ「椅子に座ると」がとてもいい。「椅子に座る」のは何かをするためではない。何もしないために座る。何かをするために座ると、その何かに意識が集中して、「お尻」には気がつかない。何もしないから、いままで気にしなかった「お尻」の変化に気がつく。何もしないから、車谷の「不在」に気がつく。
 最後の一行は、きっと車谷が「足の裏」になってよみがえってくるという感じだろう。ひとりで歩いているが、ひとりではない。いつもいっしょにいる。そばにいるのでもなく、「足の裏」になって高橋を歩かせる。歩くことが、高橋にとって車谷に「なる」ことなのだ。
 「お尻」と同じように「足の裏」も普段は、それが自分の「肉体」とは気がつかないが、そして「足の裏」は他人に見せるものではないが、人間がそこに立っているとき、とても大切な場所だ。
 それは、「鈴が鳴っている」では、こう書かれている。

リュックの中には遺影と
鈴が入っている
お杖は鈴の紐を切って柩に納めた
お遍路に出て四日目にあなたはわたしと
歩きに来た わたしの杖が
あなたのリズムで地面を叩き始めた
そんなに息せききってわき目もふらず
生きた人 (わたしのことは
とろい女だと思っていただろうな)
あなたの鈴が鳴っている
お四国の空と土に共鳴したのだね
枯れた川の上の潜水橋を
五位鷺の影がうつる堤沿いを
あなたと歩いた 歩いている
いま歩いていて
鈴が鳴っている

 「あなたと歩いた 歩いている」という言いなおしがとてもいい。「足の裏」から「ことば」が立ち上がってきたのだ。

 感想を「意味」として書くことは難しいのだが、「愚かなうた」の「2」の五行に強く惹かれる。

朝の散歩のときハイタッチしていたおじいさんが親指立てて
「このごろ見かけないね」と言うので
「しにました」と答えると
おじいさんはややあって帽子をとり
「よろしく」と言った

 「ややあって」という呼吸、「帽子をとり」という肉体の動き。それから「御愁傷様」というような「定型」ではない「よろしく」ということば。
 どういう意味だろう。
 わからない。
 言ったおじいさんにも、わからないと思う。何か言いたいけれど、何と言っていいかわからない。でも「言わないといけない」という気持ちが、「肉体」の奥から気持ちを追いかけるようにやってきて、気持ちを追い抜いて声になってしまった感じがする。
 高橋は、それにどんな解釈も加えず、ただ、そのまま書いている。
 それは、まだ「意味」にはなっていないが、いつか、きっと忘れたこと「意味」になってもどってくる。「意味」というより「事実」となって、と言った方がいいかなあ。きっと、死んだ車谷がふっと「現実」にあらわれる瞬間のように、ある日、きっと。

 巻頭の「むくげの花」は、高橋と車谷の「自画像」だろう。どちらが「むくげの花びら」で、どちらが「桃いろの蝶」か。区別できないから、とても美しい。

大風が吹いた朝
桃いろの蝶の羽が 窓ガラスにくっついている
羽をひとつなくした蝶はどうしたかしら
となりのむくげの花に宿ったかしら
羽は窓ガラスに張りついたまま干からびていった
もとのお宿はまっ青に葉がしげり
花だったものと蝶だったものは互いにぐるぐる廻って
とりかえっこしてしまう
笑い声が起こって





*

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高校国語問題

2019-10-22 10:49:53 | 自民党憲法改正草案を読む
高校国語問題
             自民党憲法改正草案を読む/番外295(情報の読み方)

 2022年度以降、高校の国語が再編される。「論理」重視にかわり、「文学」がわきへ追いやられる。このことについては、何度かブログに書いた。フェイスブックなどでも書いた。もう少し書いておこう。
 読売新聞2019年10月22日朝刊(西部版・14版)の三面、「スキャナー」に、こういう見出し。

高校国語 「論理」重視に波紋/「文学」選択性に

名作 触れなくなる恐れ/作家・研究者ら懸念

 その記事の中に、こういう部分がある。「論理」重視、「文学」軽視は、すでに実施されている。そして、その理由について書いている。

有力私大でも文学部以外の入試では近年、小説などがほとんど出題されていないこともある。ある大学関係者は「多様な解釈が可能な文学作品は、模範解答を作るのが難しい面がある」と明かす。

 ふーん。
 しかし、「文学の解釈」に「模範解答」などあるのか。「多様な解釈」があるからこそ、文学なのではないか。
 あの魯迅でさえ、なんだったか忘れたが、芝居を見た帰りにこんな感想をもらしている。悪党が処刑されるとき、「今度生まれてきたらきっと恨みを晴らしてやる」という部分で、ぞくぞくした。悪人に思わず共感している。しかもその悪人は反省しているのではなく、次はうまくやってやると宣言しているのである。ひとは、善人にだけ共感するのではない。悪人にも共感する。同情もする。作者が悪人の悪人たるゆえんを「今度生まれてきたら……」というセリフで証明したかったのかもしれないが、魯迅はそういうことは無視して、そこに生きている人間を発見し、共感している。こういうことも文学ではありうるのだ。そして、それは「悪い」ことではない。間違った解釈ではない。「多様な解釈」のひとつである。多様であるからこそ、「文学」なのだ。
 ここから、こんなふうに考える。
 憲法は「文学」ではない。法律の大本、基本である。その憲法の「解釈」さえ、多様化している。たとえば9条をどう読むか。安倍政権は、9条を無視して、軍隊を増強させている。もちろん安倍は「軍隊を増強させている」とは言わない。別の解釈をしている。
 「戦争法」が提案されたとき、国会で証言した憲法学者(自民党が推薦した学者を含む)の全員が、「戦争法は憲法違反である」と言った。それでも安倍は、その「解釈」を無視して「戦争法」を強行採決、成立させた。
 こういうことが、これからますます増える。つまり「多様な解釈」を許さず、安倍の「模範解釈」を押しつけるということが。「文学」ならば、まだ、そういうひともいるねえ。そういう気持ち、わかるなあ(魯迅の共感、わかるなあ)、で許容できるが、憲法や法律という「論理」だけでなりたっていることばの世界でもそういうことが起きるようになるのだ。
 「ひとつの解釈」だけで成り立つ世界。これは「独裁」に通じるが、そういうものが推進されるのだ。
 最近あったばかばかしい「解釈」に、こういうものがある。小泉が「環境問題はセクシー」と言った。この「セクシー」はどういう意味なのか。
 朝日新聞(2019年10月15日、デジタル版)によれば、

 政府は15日、気候変動問題をめぐる小泉進次郎環境相の「セクシー」発言について、「正確な訳出は困難だが、ロングマン英和辞典(初版)によれば『(考え方が)魅力的な』といった意味がある」とする答弁書を閣議決定した。「セクシー」の意味や発言の趣旨をたずねた立憲民主党の中谷一馬衆院議員、熊谷裕人参院議員の質問主意書に答えた。

 「セクシー=魅力的」を「模範解答」にした、「閣議決定」した、ということになる。この問題は、まるで笑い話だが、積み重なれば「笑い話」ではなくなる。
 環境問題を「セクシー」と考えるなんて、どうかしている、という「批判」は封じられる。それがすでに始まっているのだ。
 少し前には、安倍の「そもそも」は「基本的に」という意味であるというのを「閣議決定」したが、それが繰り返されている。二度あることは三度ある、になり、それが積み重なるとどうなるのか。
 「権力」が「ことばの意味(解釈)」を決定し、それ以外の「解釈」を許さないということが起きるのだ。

 読売新聞に登場する「ある大学関係者」とはだれのことか知らないが、「多様性(多様な解釈)」というのは「民主主義」の基本である。「多様な解釈」とは「多様な批判」ということでもある。
 ひとつの解釈しか許さないという姿勢は、批判を許さない、という姿勢にすぐに変わる。
 「文学の排除」は「多様な解釈の排除」であり、それは「多様な批判の排除」の先取りなのだ。
 「文学」とはもともと「多様な解釈」の世界、「多様な考え方、感じ方」をもった人間の出会いと、変化を描くものである。「ひとつの解釈」しかないなら、それは「文学」ではない。「模範解答(解釈)」というものを設定するからおかしいのだ。どんな解釈であろうと、それが「論理的」に語られていれば「正解」にすればいいのだ。問題なのは高校生の「論理力」ではなく、採点する大学の「論理力」と論理に対する「判断力」なのだ。「多様な解釈」を受け入れる力が大学に欠如しているということなのだ。
 そして、その「論理力」「判断力」を失った大学が、安倍に協力し、高校に授業に「大学入試の客観性」という基準をもとに介入していく、ということが、いまおこなわれていることなのだ。

 いま必要なのは、どんなときでも、自分自身のことばで世界を語りなおすという「個人の力」なのだと思う。「多様性」を世界にもちこむことが必要なのだと思う。
 世の中には「いいね」ボタンがあふれているが、「いいね」を押して、シェアすればそれが自分の意見になるわけではない。「いいね」だけではなく、それを同じことばになってもいいから、もう一度自分で書いてみる、声に出してみるといい。絶対に、そのままを繰り返すことはできない。句読点の位置(息継ぎの位置)や語順のずれ、いいにくいことばに出会うはずだ。その「いいにくさ」のなかに自分がいる。それを見つけ出して、そこからことばを動かしていけば、必然的に「多様性」が生まれる。「いいね」を押したけれど、この部分はちょっと違う。そのちょっと違うということを見つけ出す「訓練」のようなものを「文学」は教えてくれる。
 「文学」(個人的なことば)を排除することは、個人を否定することだ。全体主義を認めることだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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