詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

星野元一「家族」

2019-10-29 10:01:50 | 詩(雑誌・同人誌)
星野元一「家族」(「蝸牛」64、2019年10月20日発行)

 作田教子『胞衣』(思潮社、2019年09月15日発行)を読んだとき、そこに描かれている「情景」に違和感を覚えた。いまも、こういう情景があるのか、作田はそれをほんとうに見ているのか、思い出しているだけではないのか、思い出すということの中に「永遠」を限定していないか、というような違和感だ。
 星野元一「家族」も現在を描写しているとは言えない。思い出(記憶)の情景を描いている。でも、こんな情景がいまもあるのか、という疑問はわいてこない。どうしてだろう。
 と抽象的に語ってもしようがない。作品を引用する。

家族が並んでいた
竹竿にぶらさがって
風に吹かれて
ツユクサやヒルガオや
ホタルブクロなどが咲く庭先に
青い山も見えた

縞の山シャツ
紺の股引
しょっぱい褌
だぶだぶのモンペ
袖のついた前掛
艶のない襦袢
よれた腰巻
麻の葉のオシメ……
みんな並んで
こっちを見ていた
一座の顔見世のように

川から上がって来たのだ
フナやドジョウやメダカや
長い髪の川藻たちと
一風呂浴びてきたのだ
竹竿によじ登り
甲羅を干しているのだ
セミやトンンボと遊んだりして

鍬を振り上げて来た一座
お日さまが起きたら出かけ
寝たら帰ってくる一座
膝を叩き
頭を掻き
腕を組み
神棚や仏壇に
頭を擦りつけたりする一座

 具体的にどう違うのか説明は難しいが、吉岡実と西脇順三郎の関係を連想する。関係といっても読んだときの印象のことであって、ふたりの人間関係や作品の関係のことではない。吉岡の書いていることが「嘘」というのではないが、西脇の書いていることばの方が「ほんもの」というか、「実物の手触り」がある。音が強い。
 作田と星野では、やはり音の強さが違う。星野の方が、音を聞いたままに書いている。音とものがしっかり結びついている、という印象がする。
 作田の音と比較してみた江代充の音とも違う。江代は文体をぽきぽき折っている。江代の音は文体を折る音だとも言える。星野の文体は折れない。折れて、悲鳴を上げるということはない。
 あ、脱線した。
 作田と星野にもどろう。
 星野のことば「もの」には「修飾」がないのだ。だから強い音、ものそのものの「音」なのだ。
 二連目、「しょっぱい褌」「艶のない襦袢」「よれた腰巻」以外も、それぞれ名詞には「修飾語」がついているが、「修飾」という感じがしない。それは「修飾語」が単に非修飾語を飾っているだけではなく、「修飾語」自体が自己主張しているというか、主役になっているからだ。
 「しょっぱい褌」ということばに引きつけられるのは、それが「褌」だからではない。「しょっぱい」からだ。私は褌をなめて確かめたことはない。しかし「しょっぱい」がわかる。それはたぶん、自分のパンツの匂いを嗅いだことがあるからだ。あるいは小便をするとき手についてしまった小便の匂いを嗅いだことがあるからだ。そのとき、もしかするとちょっと指先をなめたかもしれない。なめなくても、「しょっぱい」とわかる。食べたものによって、それは「しょっぱい」ではなく「甘い」かもしれないが、ようするに、「肉体」から出てくるものは何かしら「匂い/味」を持っているということを知っている。小便は腎臓、膀胱を経由して出てくる「肉体」の老廃物。一方、汗腺から出てくる老廃物もある。汗。それは「しょっぱい」。汗と小便は似たところがあるから「しょっぱい」がよく分かるのだ。小便をなめたことがなくても、汗をなめたこと、汗が口の中に入ってきたことがあるから、納得できるのだ。
 そして、たぶんこういうとき、私は、汗の「しょっぱさ」だけではなく、汗が出るまでの「肉体のしょっぱさ(つらさ)」というようなことを思い出している。「肉体」を一生懸命に動かしたことを、肉体が思い出している。肉体のなかで何かが動いている。それは「記憶」というにはあまりにも漠然としているが、決して消えない「記憶」でもある。「肉体」になってしまっている何かである。
 同じことが「艶のない」とか「よれた」ということばでも起きるのだ。襦袢が艶がなくなるまでの時間、腰巻きがよれた状態になるまでの時間、そのなかで動いている「肉体」をこそ思い出すのだ。
 ことばと「肉体」との結びつき方が違うのだ。作田の場合は、ことばと結びついているのは「肉体」ではなく、「感情」や「理性」なのだ。星野の場合も「感情」や「精神」と結びついているかもしれないが、「感情」「精神」にととのえる前に、「肉体」ががっしりと結びついている。そういう印象がある。これは先に書いた吉岡と西脇についてもいえる。吉岡のことばは「頭」と結びついているが、西脇のことばは「肉体」と結びついている。「肉体」を見てしまうのだ。

舌を打つもの
小言をいうもの
ベロを出すもの
洟をたらすもの
みんな布切れになって
竹竿にぶらさがっていた

 「肉体」は「舌」「ベロ」「洟」と具体的に言いなおされる。「小言」は「声」だろう。だれもよほどのことがないかぎり「小言」の内容は覚えていない。けれど「小言」の口調、「声」、つまり「肉体」が動いたときに肉体から飛び出してくるものを忘れることはできない。それは「耳」をとおして「肉体」にしみついてくる。
 竹竿にぶらさがったもの、洗濯物を見ながら、星野は「家族」という抽象的な関係を見ているのではなく、生きている人間そのもの、「肉体」が生きているということを見ている。
 その最終連。

そっちはどうかね
お茶でも飲んでいかんかね
みんなニコニコとして
風に吹かれていた

 ほら、「人間」が見えてくるでしょ? だれかが家の前を通る。家は開けっ放しだから、外が見えるし、外から内部も見える。装飾をとりはらった「生きている」ままが見える。
 そういうとき、ひとはどうするか。近づき、ただことばを交わす。「そっちはどうかね/お茶でも飲んでいかんかね」。こういう会話をいまも田舎でするかどうか、私は知らないが、私が子どものときは、どこででもこういう声が聞こえた。
 そういうことも、私の「肉体」はしっかり覚えている。こういうことばはささやくようには言わない。遠く離れた「肉体」、自分の目的に向かって動いている「肉体」につたえ、気づかせるためには、大声を出さなければいけない。「万葉の声」のように。そうして、その声が聞こえたら、ひとは「にこにこ」と笑顔を見せるのだ。かすかにほほえむのではない。「肉体」の底から、全身で返事をするのだ。
 洗濯物を描いているのに、そこに「肉体」が見える。「肉体」の動きが見える。これが星野のことばの特徴だ。








*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076929
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする