詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮尾節子『女に聞け』

2019-10-28 11:52:30 | 詩集
女に聞け
宮尾節子
響文社


宮尾節子『女に聞け』(思潮社、2019年10月20日発行)

 宮尾節子『女に聞け』の巻頭の「女に聞け」は力強い。

わたしが
恥ずかしい、格好をしなければ
こんなにも
恥ずかしい格好をして、ひとりで踏ん張らなければ
あなたは、この世に生まれて、来れなかった。
わたしが
死ぬほど恥ずかしい姿を、ひと目にさらして
恥ずかしい声を、なんどもなんども肚から
絞り出して、(瞼の裏を菫色にして)命がけでいきまなければ
あなたは、ここに生まれて、来ていない。
恥ずかしい、それでも、どこにも逃げられない。逃げない。

 この「わたし」は「女」と言い換えることが、「女」と言い換えてはいけない。そのまま「わたし」ということばを引き受け、読者は「女」にならなければならない。もちろん私は「女」ではない。けれど、「女ではない」ということをこの詩から「私」を切り離してはならない。逆に「女ではない」からこそ、「女」を想像しなければならない。
 「誰が世界を語るのか」という詩に、

--当事者でないことを、恐れない

 という一行がある。そのことばが語っていることを私は私にあてはめなければならないのだと思う。
 つまり、私は女ではない、こどもを生んだことはない、ということを恐れない。こどもを生んだことはないが、こどを生んだことがある女と同じ気持ちで語らなければならない。「女ではないのに女の気持ちを語るな」という批判にひるんではならない。

当事者でないことを恐れない
--それは、想像することを恐れない、ということだ。
--それは、想像せよということだ。

わたしは想像する。
当事者について、想像する。
当事者ゆえに、語れないことを(言えないことを)。
当事者ゆえに、考えたくないことを。
当事者ゆえに、見たくないことを。
当事者ゆえに、思い出したくないこと(忘れたいことを)。
当事者ゆえに、恐れることを--。            (誰が世界を語るのか)

 「女に聞け」の「わたし」が語れないこと、考えたくないこと、見たくないこと、思い出したくないこと、恐れることは何か。
 語れないことは、宮尾にはないかもしれない。
 考えたくないこと、「日本がふたたび戦争をすること」。見たくないこと、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。思い出したくないこと、たとえば「子どもを産むときの恥ずかしい姿(?)」。でも、これは書いてしまっている。恐れること、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。
 私の想像は、違っているかもしれない。しかし違っていてもかまわないのだ。あるいは、私の想像は単に宮尾のことばをなぞっているだけのこと、ほんとうに自分で想像したことではないかもしれない。それでもいいのだと思う。ひとはそれぞれ違う人生を生きている。「同じ」はありえない。「違っている」と言われたら、もういちど想像すればいい。
 私は、そんなふうに、宮尾のことばに近づいていきたい。

けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん
おとこが、ふれるな。やかましい!
平和のことは、女に聞け。                     (女に聞け)

 私は「9条」を変えることを望んではない。この段階で、私は宮尾のいう「おとこ」ではない。
 そして、実際に「9条を変えるな、戦争に反対」というと、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ、家族のために戦わないのか、それで男か」と男から非難されるということもある。「男なら、家族と国を守れ」。私は、そういうときは「男」でなくてもかまわないと思う。家族や国を守れないのは、男にとって「恥ずかしい」ことか。そうだとしたら、私はその恥ずかしさを引き受ける。宮尾が恥ずかしい姿をさらしてこどもを生んだように、私は恥ずかしい姿をさらして生きていくことを選ぶ。「いいじゃないか、みんなで恥ずかしい男になろう」と言ってみる。私は武器のつかい方を知らない。だから戦いたくても戦えない。「平和」は戦わないようにする以外に「方法」を知らない。そのことを言う。「女に聞け」と宮尾は言う。私は宮尾に、私のような人間を「女」の部類にいれてくれ、と言おう。

 「氷」という詩は、とても好きな詩だ。私はいつも、この詩に書かれているようなことを願っている。

思ったことを
言葉にする。

言葉にしたら、つぎは
口にしてみる。

口にしたら、つぎは
手足にしてみるの。

たとえば
氷、と書いて

汗をかきかき、自転車こぎこぎ
商店街に行って
「かき氷、ください」と
言えば。

「はい、いちご」と、お盆に
運ばれてきたガラス鉢の
氷は、手に冷たくて
舌に甘くて

 いつでも「ことば」を肉体にできるか、自分でそれができるかを確かめる。自分のことばがほんとうかどうかは、それしか確かめようがない。
 ちょっと前にもどって「恥ずかしい」を振りかえると。 
 「男なら、家族と国を守れ。戦わないなんて恥ずかしくないのか」と言われても、恥ずかしいとは思わなくなる。「いや、実際に銃を向けられたら、逃げるだけ。できるのは、早く逃げようと家族に言うだけ」と書いてしまうと、ぜんぜん恥ずかしくなくなる。できもしないこと、「家族を守るために戦う」と言うことの方を恥ずかしく感じる。できないことを言って、家族が先に殺されてしまったら、何の意味もなくなる。そっちの方が恥ずかしくないか?

 「林檎に政治をもちこむな」は、こう始まっている。

ちょっと 待て
林檎に政治をもちこむな
音楽に政治をもちこむな
文学に政治をもちこむな
芸術に政治をもちこむな

ちょっと待って
誰が
誰に 言ってるの?
誰が 林檎に言ってるの?

 「林檎」以外は、よく言われることである。宮尾はこのあと「反論」を書いているのだが、私は当事者ではないことを恐れる人間ではないので、むしろこう言いたい。

政治に林檎をもちこもう
政治に音楽をもちこもう
政治に文学をもちこもう
政治に芸術をもちこもう

 「そんなことでは、政治が成り立たない」と言われるだろう。「政治と文学(詩)」は違うと言われるだろう。知ってるさ。知ってるから、その「違う」ものを持ち込む。「違う」もので、そこにおこなわれていることを点検する。
 宮尾が「九条守れ」に「出産体験」を持ち込んだように、私は「九条守れ」に自分のことばの読み方を持ち込む。憲法学者(法律家)の読み方と違う。もちろん違う。「そんなむちゃくちゃなことを書いて恥ずかしくないか、そんなことを書くと恥をかくだけだぞ」という批判を私はもう聞き飽きた。「違っている」ことを私は「恥ずかしい」とは思わない。違っていて何が悪いのだろう。憲法は、自分を国から守るためのもの。自分を守りやすいように読む。
 みんながそうすればいい。「私は音楽がやりたいから、九条がないと困る、戦争が始まって爆音が飛び交うとピアニッシモの音が聞こえない」「自衛隊が憲法に明記されたら、私は大リーグのピッチャーになりたいから徴兵には行きたくないと言えるかどうかわからない、だから反対」。何を馬鹿なことを言っている、と言われるかもしれない。でも、それが自分のしたいことなのだから、それを言わないでなんになるだろう。みんながばらばらになればいい。ばらばらになれば、一致団結しないと成り立たない「戦争」は起こしようがない。
 せっかく母親が(女が)、恥ずかしい思い、痛い思いをして産んでくれたのだ。「ひとり」として生まれてきたのだ。最後まで「ひとり」を生き抜く、「ばらばら」で生き抜くのでなければ、母親にすまない。「ばらばら」のまま、いっしょに生きていくというのが、私の理想だな。






*

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旭日旗と大漁旗は同じものか

2019-10-28 09:28:58 | 自民党憲法改正草案を読む
旭日旗と大漁旗は同じものか
             自民党憲法改正草案を読む/番外300(情報の読み方)

 2019年10月28日の読売新聞(西部版・14版)は、韓国が、東京五輪に旭日旗を持ち込むことを禁止するようもとめる国会決議をしたことを取り上げて、二面、三面で「日本政府の主張」を補足しながら「代弁」している。
 その「論拠」が、つい最近、私がフェイスブックのサイトで体験したやりとりとそっくりなので、私は驚いてしまった。
 読売新聞によれば、政府は「旭日旗は古くから国内に定着しており、政治的主張や軍国主義の象徴には当たらない」と言っている。(「象徴」ということばが、ここにつかわれていることに注目したい。)
 これを読売新聞は、「旭日旗が大日本帝国陸軍の軍旗(略)、大日本帝国海軍の軍艦旗としてそれぞれ採用された」と明記した上で、こう「補足」している。(番号は私がつけた。)この「補足」が、私がネット上で対話したひとの主張とほぼ重なる。

①一般社会では、大漁旗や社旗などて古くから用いられている
②旭日は北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗などにも見られる。

 ①は「不正確(不明瞭)」文章である。ことばを補えば

①旭日は一般社会では、大漁旗や社旗などて古くから用いられている

 になる、そうするとわかりやすくなるが、①②の「主語」は「旭日」であって、「旭日旗」ではない。
 「旭日」というのは「太陽」の「象徴」、あるいはそれをデザインしたものであって、「旗」そのものではなく「旗」を構成する一要素である。
 韓国が決議したのは「旭日旗」の持ち込み禁止であって、「旭日」デザインの排除ではない。もし「旭日」デザインを排除すれば、北マケドニア共和国は東京五輪に国旗を持ち込めなくなる。そんなことを韓国がもとめるわけがない。

 もし旗に「旭日」が描かれているだけで、それだけで「大日本帝国陸軍」「大日本帝国海軍軍艦」を指し示すのだとすれば、なぜ「大日本帝国陸軍」「大日本帝国海軍軍艦」は「大漁旗」を掲げなかったのか。あるいはいまの自衛艦隊は「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」を掲げないのか。理由は簡単だ。「大漁旗」「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」は「旭日旗」ではあり得ないからだ。
 「旭日」という「同じ象徴」をつかっていても、その「象徴」をつかったものが同じものを指し示すとは限らない。「象徴」と、それのつかい方(具体的なもの、行動)の関係を見極めなければならない。

 読売新聞は、ナチス党旗の「ガギ十字」との対比で、こういうことも書いている。

③旭日旗が日本文化に根ざす一方で、カギ十字は、ユダヤ人虐殺につながるナチスの人種差別思想が込められており、(略)ヒトラーは、カギ十字を「アーリア人」優越思想の象徴として用いた

 ここに「象徴」というこばが、ふたたび登場する。
 ③は「旭日旗」と書き始められているが、これは本来は「旭日旗」ではなく、「旭日」であり、「旭日が日本文化に根ざす」でないと、「カギ十字」とは対応しない。
 そしてもし「旭日が日本文化に根ざす」ということをほんとうに主張するのならば、「北マケドニア共和国の国旗、米アリゾナ州の州旗、ベラルーシ空軍の軍旗」の「旭日」も「日本文化に根ざす」と言わなければならなくなる。とても変である。だから、ここでは②でつかった「旭日」ということばはつかわずに「旭日旗」と言っているのである。
 「旭日」と「旭日旗」をつかいわけて論理をごまかしている。
 こういう論理は、「日本の伝統」などを口にしながら、結局、日本の伝統をバカにしている。大漁と安全を願って海に出る漁師の気持ちを踏みにじるものだ。漁師たちは日本陸軍や海軍、自衛隊とと同じ気持ちで漁に出るわけではないだろう。
 さらにこうも書いている。

④ユダヤ人虐殺への反省などから、戦後のドイツではカギ十字の掲揚が禁じられた。違反には金庫3年以下か罰金の刑が科せられる。

 「旭日旗」に関しては、そういう「法律」はない。だから五輪への持ち込みを「禁止」する必要はない、といいたいのだろう。

 さて。
 と私は思うのだ。
 「日の丸」という国旗があるのに、なぜ一部のひとたちは「旭日旗」を持ち込まないと日本を応援できないのか。「日の丸」の旗は「日本の象徴」ではないのか。「日の丸」の旗では、日本の「何」が「象徴」できないのか。何をあらわすことができないのか。
 さらに、「旭日」が日本文化に根ざす「象徴」なら、その「旭日」が描かれている「大漁旗」で応援してもよさそうなのに、なぜわざわざ「大日本帝国陸軍旗」「大日本帝国海軍軍艦旗」そのものである「旭日旗」にこだわるのか。
 どう考えても、この「旭日旗」でなければならないという「こだわり」はおかしいだろう。

 きのう御厨貴の文章に触れて「象徴」ということばのつかい方のいいかげんさに触れたが、「象徴」ということばは「象徴天皇」に代表されるように、「あいまいな」定義のまま流通している。「あいまい」であることを利用して「政治利用」されている。
 御厨は、天皇を「権威の象徴」と呼んだが、これは「即位の礼」のあとなので、なんとなく「権威」をそのまま受け入れてしまいそうになるが、たとえば平成の天皇の行動をみてみれば「権威の象徴」であったときがあるのだろうか。たとえば東日本大震災の被災地を訪問し、膝をついて被災者に語りかける。そのとき天皇は「悲しみの象徴」「絶望の象徴」「不安の象徴」「生きなければという決意の象徴」「寄り添いたいという多くの国民の象徴」ではなかったか。「権威」というものを捨てて、よりそう。膝をつくという姿勢が、そういうことを語っている。ノーベル賞受賞者に声をかけるときは「よろこびの象徴」でもあるだろう。戦没者追悼式、広島、長崎の原爆の日の追悼、沖縄慰霊の日の追悼では、「平和な日本がつづきますように」という「祈り、願いの象徴」ではないだろうか。「平和への祈り、願い」は力のない国民の、弱い人間の「象徴」でもある。
 勝手に「権威の象徴」などと決めてはいけない。御厨が天皇を「権威の象徴」と呼んだのは、安倍を「権力の象徴」と呼ぶためであり、それは「天皇への不可侵」を多くのひとが前提としていることを利用して、「権力への不可侵(権力を批判してはいけない)」のための「方便」(レトリック)なのだということを見抜く必要がある。御厨は、先の文章で、「私はこんなに安倍に仕えています」ということを安倍に語っているだけなのだ。そして、「みんなも安倍に仕えれば、安倍の引き立てにあい、幸せになれるんだよ、批判なんかしていたら貧乏人のままだよ」と笑っているのだ。
 あ、最後の方は怒りが収まらなくなって、ことばが暴走したなあ。でも、思ったことなのだから、そのまま書いておく。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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