女に聞け | |
宮尾節子 | |
響文社 |
宮尾節子『女に聞け』(思潮社、2019年10月20日発行)
宮尾節子『女に聞け』の巻頭の「女に聞け」は力強い。
わたしが
恥ずかしい、格好をしなければ
こんなにも
恥ずかしい格好をして、ひとりで踏ん張らなければ
あなたは、この世に生まれて、来れなかった。
わたしが
死ぬほど恥ずかしい姿を、ひと目にさらして
恥ずかしい声を、なんどもなんども肚から
絞り出して、(瞼の裏を菫色にして)命がけでいきまなければ
あなたは、ここに生まれて、来ていない。
恥ずかしい、それでも、どこにも逃げられない。逃げない。
この「わたし」は「女」と言い換えることが、「女」と言い換えてはいけない。そのまま「わたし」ということばを引き受け、読者は「女」にならなければならない。もちろん私は「女」ではない。けれど、「女ではない」ということをこの詩から「私」を切り離してはならない。逆に「女ではない」からこそ、「女」を想像しなければならない。
「誰が世界を語るのか」という詩に、
--当事者でないことを、恐れない
という一行がある。そのことばが語っていることを私は私にあてはめなければならないのだと思う。
つまり、私は女ではない、こどもを生んだことはない、ということを恐れない。こどもを生んだことはないが、こどを生んだことがある女と同じ気持ちで語らなければならない。「女ではないのに女の気持ちを語るな」という批判にひるんではならない。
当事者でないことを恐れない
--それは、想像することを恐れない、ということだ。
--それは、想像せよということだ。
わたしは想像する。
当事者について、想像する。
当事者ゆえに、語れないことを(言えないことを)。
当事者ゆえに、考えたくないことを。
当事者ゆえに、見たくないことを。
当事者ゆえに、思い出したくないこと(忘れたいことを)。
当事者ゆえに、恐れることを--。 (誰が世界を語るのか)
「女に聞け」の「わたし」が語れないこと、考えたくないこと、見たくないこと、思い出したくないこと、恐れることは何か。
語れないことは、宮尾にはないかもしれない。
考えたくないこと、「日本がふたたび戦争をすること」。見たくないこと、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。思い出したくないこと、たとえば「子どもを産むときの恥ずかしい姿(?)」。でも、これは書いてしまっている。恐れること、「生んだ子どもが戦争で死ぬ姿」。
私の想像は、違っているかもしれない。しかし違っていてもかまわないのだ。あるいは、私の想像は単に宮尾のことばをなぞっているだけのこと、ほんとうに自分で想像したことではないかもしれない。それでもいいのだと思う。ひとはそれぞれ違う人生を生きている。「同じ」はありえない。「違っている」と言われたら、もういちど想像すればいい。
私は、そんなふうに、宮尾のことばに近づいていきたい。
けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん
おとこが、ふれるな。やかましい!
平和のことは、女に聞け。 (女に聞け)
私は「9条」を変えることを望んではない。この段階で、私は宮尾のいう「おとこ」ではない。
そして、実際に「9条を変えるな、戦争に反対」というと、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ、家族のために戦わないのか、それで男か」と男から非難されるということもある。「男なら、家族と国を守れ」。私は、そういうときは「男」でなくてもかまわないと思う。家族や国を守れないのは、男にとって「恥ずかしい」ことか。そうだとしたら、私はその恥ずかしさを引き受ける。宮尾が恥ずかしい姿をさらしてこどもを生んだように、私は恥ずかしい姿をさらして生きていくことを選ぶ。「いいじゃないか、みんなで恥ずかしい男になろう」と言ってみる。私は武器のつかい方を知らない。だから戦いたくても戦えない。「平和」は戦わないようにする以外に「方法」を知らない。そのことを言う。「女に聞け」と宮尾は言う。私は宮尾に、私のような人間を「女」の部類にいれてくれ、と言おう。
「氷」という詩は、とても好きな詩だ。私はいつも、この詩に書かれているようなことを願っている。
思ったことを
言葉にする。
言葉にしたら、つぎは
口にしてみる。
口にしたら、つぎは
手足にしてみるの。
たとえば
氷、と書いて
汗をかきかき、自転車こぎこぎ
商店街に行って
「かき氷、ください」と
言えば。
「はい、いちご」と、お盆に
運ばれてきたガラス鉢の
氷は、手に冷たくて
舌に甘くて
いつでも「ことば」を肉体にできるか、自分でそれができるかを確かめる。自分のことばがほんとうかどうかは、それしか確かめようがない。
ちょっと前にもどって「恥ずかしい」を振りかえると。
「男なら、家族と国を守れ。戦わないなんて恥ずかしくないのか」と言われても、恥ずかしいとは思わなくなる。「いや、実際に銃を向けられたら、逃げるだけ。できるのは、早く逃げようと家族に言うだけ」と書いてしまうと、ぜんぜん恥ずかしくなくなる。できもしないこと、「家族を守るために戦う」と言うことの方を恥ずかしく感じる。できないことを言って、家族が先に殺されてしまったら、何の意味もなくなる。そっちの方が恥ずかしくないか?
「林檎に政治をもちこむな」は、こう始まっている。
ちょっと 待て
林檎に政治をもちこむな
音楽に政治をもちこむな
文学に政治をもちこむな
芸術に政治をもちこむな
ちょっと待って
誰が
誰に 言ってるの?
誰が 林檎に言ってるの?
「林檎」以外は、よく言われることである。宮尾はこのあと「反論」を書いているのだが、私は当事者ではないことを恐れる人間ではないので、むしろこう言いたい。
政治に林檎をもちこもう
政治に音楽をもちこもう
政治に文学をもちこもう
政治に芸術をもちこもう
「そんなことでは、政治が成り立たない」と言われるだろう。「政治と文学(詩)」は違うと言われるだろう。知ってるさ。知ってるから、その「違う」ものを持ち込む。「違う」もので、そこにおこなわれていることを点検する。
宮尾が「九条守れ」に「出産体験」を持ち込んだように、私は「九条守れ」に自分のことばの読み方を持ち込む。憲法学者(法律家)の読み方と違う。もちろん違う。「そんなむちゃくちゃなことを書いて恥ずかしくないか、そんなことを書くと恥をかくだけだぞ」という批判を私はもう聞き飽きた。「違っている」ことを私は「恥ずかしい」とは思わない。違っていて何が悪いのだろう。憲法は、自分を国から守るためのもの。自分を守りやすいように読む。
みんながそうすればいい。「私は音楽がやりたいから、九条がないと困る、戦争が始まって爆音が飛び交うとピアニッシモの音が聞こえない」「自衛隊が憲法に明記されたら、私は大リーグのピッチャーになりたいから徴兵には行きたくないと言えるかどうかわからない、だから反対」。何を馬鹿なことを言っている、と言われるかもしれない。でも、それが自分のしたいことなのだから、それを言わないでなんになるだろう。みんながばらばらになればいい。ばらばらになれば、一致団結しないと成り立たない「戦争」は起こしようがない。
せっかく母親が(女が)、恥ずかしい思い、痛い思いをして産んでくれたのだ。「ひとり」として生まれてきたのだ。最後まで「ひとり」を生き抜く、「ばらばら」で生き抜くのでなければ、母親にすまない。「ばらばら」のまま、いっしょに生きていくというのが、私の理想だな。
*
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