![]() | 悪い兄さん |
今野 和代 | |
思潮社 |
今野和代『悪い兄さん』(思潮社、2019年09月30日発行)
今野和代『悪い兄さん』の巻頭の「ひかる兄さん」は傑作である。
「かくめい は 腐りました」
暗たん色の失つい。うつろ。
じゅくと、きょだつと、もんどりを、
喉いっぱいにふりつもらせながら。
書き出しの、この四行には「傑作」の予感がある。というのは、いいかげんな私の感想である。正確にいえば、「何が書いてあるかわからない」。しかし、何かことばになろうとするものが、ことばになる前の「声」として書かれている。
「かくめい は 腐りました」と言ったひとは、革命を夢見ていた。しかし、失敗した。あるいは失望した。そのひとのなかには、いろいろな思い、感覚がうずまいている。そのひとつが「虚ろ」、あるいは「虚脱」。でも「じゅく」とは何か。わからないなあ。わからないから、ここには「ほんとう」があると感じる。私は、この詩に書かれているひとのことを知らない。だから「わからない」ことがあってあたりまえなのである。私が「わかったつもり」になっていることも、ほんとうは違うかもしれない。「うつろ」は「虚ろ」ではないかもしれないし、「きょだつ」は「虚脱」ではないかもしれない。「かくめい」だって「革命」かどうか、はっきりしない。
こういう「はっきりしないもの」があるということを直接ぶつけるようにして始まる詩はすごい。まるで、まったく知らないひとの「肉体」そのものを、しかも裸の「肉体」を見せられたような気がする。まったく知らないといったって「肉体」だから、わかるところがある。わかると思ってしまうところがある。それが危険で、刺戟的なのである。
道で腹を抱えてうずくまっているひとを見れば、「あ、このひとは腹が痛いのだ」と思ってしまうのに似ている。勘違いかもしれない。しかし、だれにだって「わかる」ほんとうが、そこにはあるのだ。そういうものを、「裸」のまま見せられている感じがする。
この、ぎくしゃくした「文体」に。
途中を省略してはいけないのだが、省略する。省略せずに書くと、私自身がどこへ行ってしまうのか、わからない。どこへ行ってしまってもいいのかもしれないが、そして、それこそが詩を読むということなのだろうけれど、それができるほど、私は強くない。
おっかなびっくりしながら、私は読んでいるのだ。
たちまち、世界がなだれてきて、逆さに吊るされている。
「想像もできない!」この地上の、キガの、幻になる。
そのひとつの黙劇を生きる。
惨劇でつぶされ、くり抜かれた眼(まなこ)だけを揺らして射ぬく。
もう一歩も遠くへ行けなくなった、ぬかるみの男の、脚だけで走る。
処刑され、石を投げられ、引きちぎられ、炎上だらけの、手だけで掴む。
「脚だけで走る」「手だけで掴む」。これは、ほんとうに走るときや、掴むときの「肉体」の動きではない。ほんとうに走るとき、掴むときは「全身」で走り、掴むものである。ほんとうは「全身」で走りたい、掴みたい。だが、もう「全身」が動かない。それで、最低限(?)必要な、脚、手を懸命に動かすのだ。その「必死」さが、ここにしっかりと書かれている。
したいことができない。しかし、それをするしかない。「かくめい」とはそういうことかもしれない。「腐りました」と認識するとき、まだ「腐らないもの」が「肉体」のなかにはあって、それが最後の力となって、ことばにならないことばを動かしてしまう。それが「脚だけで走る」「手だけで掴む」という壮絶な力になって噴出している。
「あんにゃ」
(いや「ショコショコショウコー」)よびかける子どもの私を視た、
年老いたおとこの暗いまなざしになる。
一九一七年十月の、
一九五八年十月の、
一九九五年三月の、
二〇一九年五月の、
敗れを知らない人のはるかに遠い前方の記憶を裂いて現れてくるものを、
街路樹よりも傾いて待つ。
乳房を噛み裂かれ、群がる仔どもに埋もれながら、
「みんなあんたの種!」
微かに叫ぶ女の声を四つん這いになってきく。
「あんにゃ」は「兄」だろう。「一九一七年十月」「一九五八年十月」「一九九五年三月」「二〇一九年五月」に何があったか。「みんなあんたの種!」ということばを手がかりにすれば、誰かが生まれたのだろう。このときの「あんた」はひとりではないだろう。「あんた」に象徴される「あんにゃ」だろう。
そういう「わからない」けれど「わかる」(と勝手に「誤読」できる)ことばが、詩を貫いて疾走していく。それは「華麗な疾走」ではない。「肉体」まるだしの、醜い疾走である。醜いまま存在できる、全体的な美しさというものかもしれない。つまり、どんなにそれを「醜い」と呼んで否定しようとしても、同じものが自分の「肉体」につながっているという「連帯」が、最終的には「肯定」を引き寄せてしまうような「絶対」が、そこにあるのだ。
それをなまなましく語るのが「年老いたおとこの暗いまなざしになる。」の「なる」という動詞だ。今野は「子どものわたし」にも「あんにゃ」にも「年老いたおこと」にも「四つん這いの女」にも「なる」のだ。なってしまうのだ。生きているから。「肉体」があるから。
おなじ強さが「厄災の赤ちゃんを」にもある。
バスを待っているわたしに バスがきた ファミマの
角からヌッと曲がって こっちにぐんぐん向かってきている
バスを待つしかないので ずっと待っていた その我慢づ
よいうつむいた感情が みぞおちあたりからスルッと弾けて
甘い安堵の唾液が 口いっぱいに広がった
しかし、「わたし」はバスには乗れない、ということがこのことばのあとに続くのだが、ここにも「肉体」の「絶対」がある。「我慢づよいうつむいた感情が」「みぞおちあたりからスルッと弾け」るという比喩に私は打ちのめされてしまう。
他の詩もいいが、他の詩は「ことば」そのものが「詩」を目指していて、言い換えると「詩」っぽくて、なまなましさに欠ける。といっても、いま引用した二篇に比べるとということだが。
私の感想は乱暴である。「正確さ」に欠ける。もっと時間をかけて、「正確に」書いた方がいいのかもしれないが、「正確」を目指すとき、きっと「乱暴」に書いたときにだけ可能な何かが欠落する。
だから私は「間違い」を承知で、乱暴なまま、この感想をほうりだす。
私のことばは、今野の書いた二篇の詩と向き合うためのことばをまだ持っていない。おそらく、これからも持てないままだろうと思う。
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