胞衣(えな) | |
作田 教子 | |
思潮社 |
作田教子『胞衣』(思潮社、2019年09月15日発行)
作田教子『胞衣』を読みながら、かなり奇妙な気持ちになった。作田が書いている情景は、私にはとてもよくわかる。しかし、そのわかるは別なことばで言いなおすと「思い出す」なのだ。「いま」起きていることが「わかる」のではなく、書かれていることを思い出すことができる、なのである。
たとえば「みどり」の次の部分。
家への道は何通りもあった
川を渡り 民家の庭を横切り
桑の実をほおばり
暗くなっても家に着かない
空が高くなった分だけ草の背が伸びて
そこに埋もれるとわたしはいなくなる
「民家」ということばは、私の「思い出」のなかにはないから(いまでも「民家」ということばを私はつかわないが)、全てを「思い出す」とは言えないのだが、ここに書かれているそれ以外のことは、はっきり思い出せる。「民家」のかわりに、キヨシの家とかキクコの家、ハジメの家という具合。さらには「桑の実」もミツコの家の(畑の)桑の実ということになる。
私は、ここに書かれていることを子どものときに体験したことがある。
だからこそ思うのだが、作田の書いているのはいったいいつのことなのだろう。作田が何歳なのか知らないが、過去のことを書いているのだろうか。もし過去のことを書いているとしたら、それはなぜなのだろう。
それがさっぱりわからない。
最近感想を書いた江代充『切抜帳』にも、いまも見かけるものとはとても思えないものが出てくる。たとえば「木切れの子」には、
牛やうまや飼い葉桶のある
ということばがある。「牛やうまや飼い葉桶」を私は、もう何十年も見ていない。
でも江代のことばに触れるときは「思い出す」というのはかなり違う。江代のことばの動かし方が「思い出す」という感じを裏切る、「思い出す」をひっくりかえすように、ぎくしゃく、折れ曲がっているからである。先の引用のつづき
牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする
江代が書いているのは「素材」ではなく、視線(肉体)の運動だからである。その運動のありようが特別変わっているということを知らせるために、あえて「古い素材(遠い記憶にある素材)」を利用している。「知っているはずのもの」なのに、そこでは「知らないこと」が起きている。いつ? 「いま」起きている。
江代の詩が、古い題材をつかいながらも「現代性」を感じさせるのは、その「文体」の時間が「思い出」のなかで展開しているのではなく、「いま」を動かしているからだ。
作田のことばの動きは「いま」を感じさせない。
「明るい滅亡の日」という作品。
未生の(さよなら)を
母親は孕み
産み落とした瞬間から
その(さよなら)を殺める運命に
押し流される
永遠に死を孕む運命から
のがれようもなく
白日のもとに晒される覚悟
こういう行は私の「思い出」にはない。「思い出す」ということはできない。私は「孕む」という動詞も、「産み落とす」という動詞も体験したことがないから、それは「思い出す」ということができないのだ。
でも、「文学の記憶(ことばの記憶)」としてなら、「思い出す」ことができる。そこに書かれている「ことば」をすべて知っている。知らないことばはない。
そして、そのために、「いま」起きているという感じがしない。
「過去」にあった、という感じでもない。
「いつでも」あること、という印象になってしまう。
たぶん、こういうことなんだなあ、と思う。
作田は「いま」を書いているのでもない。「過去」を書いているのでもない。「いつでも」を書いている。「永遠」を書こうとしている。そして、その「永遠」を書くためには、「文体」もまた「永遠」でなければならない。言い換えると、いつ読んでも、だれが読んでも「普遍」に通じる「スムーズ」な文体。
実際、とても読みやすいのだ。読んでいて、つまずくことろがない。
「くじら」の書き出し。
教室で泳ぐ くじら
潮を吹きあげて
ぼくを見守るように
頭上を泳ぐ
五時限目の明るい憂鬱の海
少し眠たい
トモダチは誰もくじらを見ない
センセイはくじらが見えない
くじらはとても元気だけれど
少しお腹がすいている
だから
低い声できゅうっと啼いた
ぼくは給食のパンを
頭上に放った
「五時限目」「給食のパン」というようなことばが、教室の「永遠」を引き寄せる。「少し眠たい」も、同じだ。「時間」や「場所」が限定されているにもかかわらず「いつでも、どこでも」を呼び寄せる。つまり「思い出せること」を呼び寄せる。「思い出せる過去」は「過去」ではなく、「いま、ここ」なのだ。
そういう哲学を完成させるために、「いつか、どこか」を特徴づける文体は遠ざけられ、「いつでも、どこでも」の文体が採用されている。
そうなんだけれど。
私は、ちょっと「いやだなあ」と思う。
詩としては完成されているのだけれど、その完成が何かいやだなあを強くする。「いま」を破ることで、「新しいいま」を噴出させる「特別な文体」がほしいと思ってしまう。
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