江代充『切抜帳』(思潮社、2019年09月30日発行)
江代充『切抜帳』は「叙事詩」か「抒情詩」か。感情の動きというよりも、肉体の動き、視線の動きに重心を置いているので「叙事詩」ということになるかもしれない。
「木切れの子」という作品。この作品については書いたことがあるかもしれない。でも、書いてみよう。前に書いたことと、まったく違うことを書くかもしれない。
出掛けたあと
一面に畑地の見える
目先にちかい所に仮小屋があった
なんでもないような書き出しだが、とても「くせ」がある。「出掛けたあと」とあるが、だれが出掛けたのか。これはたぶん、作者が外に出たということだろう。ふつうは自分のことを「出掛けたあと」というような奇妙な言い方で「客観化」しない。
そのあとの「一面に畑地の見える」というのも、「くせ」がある。「見える」という動詞をつかうにしても、ふつうは「畑地が見える」だろうし、わざわざ「見える」とは言わないだろう。「一面に」ということばもとても奇妙だ。わざと「一面」「見える」と言って、「視線」を広げた上で、その動きをねじまげるように(引き返すように)「目先にちかい」ということばを動かす。ことばにあわせて、私は「肉体(視線)」が奇妙にねじれるのを感じる。ことばが「感情」ではなく、「肉体」の動きをなぞるように動いていると感じる。
一度その前を過ぎ
山へ向かう奥の草地のほうへ抜けてしまうと
遠くなった小屋の正面は見うしなわれ
こちらに傾いた小さな屋根の上に
拾われた細枝のバラ束がおおまかに敷かれていて
その内から所所
間を置いて跳ね上がる小枝の列が
上方へななめに傾き
か細い茎の柱のように突っ立っていることが分かる
「動詞」が非常に多い。「その内から所所」以外にはかならず「動詞」がある。そのなかには「傾いた小さな屋根」のように修飾語として働いていることばもあるが、そのひとつひとつが「動詞」であるがゆえに、「肉体」をひっぱりまわす。それにしたがって「正面」は「見うしなわれ」、「正面」ではないものがあらわれる。つまり、普通は意識しないもの「内」(内面)が、内面ではなく「外面」としてあらわれる。いや、逆か。ふいにあらわれた「正面」以外の「外面」が「内面」として「肉体」のなかへもぐりこみ、往復する。出たり、入ったり。行ったり、引き返したり。往復だ。それを繰り返していると「見える」「見うしなわれる」が、「分かる」にかわる。「分かる」とは「意識化される」ということである。「肉体」のなかに、それが入ってくるということだ。
「分かる」というのは、「予兆」のときもあるし、「現在」のときもあるが、過去になってから「分かる」というものもある。
だから、こんなふうに言いなおされる。
あとになって
遠く空にいるヒバリがしずかに先を越し
わたしもそこへ引き返すとき
牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする
「見たもの」が「肉体の動き」にあわせて「肉体」のなかにしまいこまれる。この「しまいこみ方」は、先日読んだ山本育夫の「抒情病」とはずいぶん違う。山本は「知性」でととのえた。それを内部にためこむのではなく、外へ出しつづけ (ことばにしつづける)、肉体と感情の健康を保つ。一方、江代は「知性」を遠ざけ、「肉体」の動きにこだわっている。「先を越す」「引き返す」「宛てがう」「設える」、そして「触れる」。「触れる」は「目で見る」ではなく「手で見る」ということだな。そのとき、肉体の内部にためんこんだものが、ふいに「よろこび」、つまり「感情」となってあふれる。
「叙事」が「抒情」に転換するのだ。
この奇妙な文体は、山本育夫の『ヴォイスの肖像』の切断と接続の感覚に似ていないこともないが、いちばんの違いは、山本の切断と接続が「意識」の運動であるのに対して、江代の場合は、どこまでも「肉体」であるということだろう。「肉体」はけっして切断されないし、接続できない。あえていえば「接触」しかできない。その運動のなかで、「意識」はゆっくりゆっくり、ときには滞ったり引き返したりしながら、「自己」を守る。そして最後に、息をするように「抒情」を吐き出すのだ。
ここから、また山本育夫へ引き返してみるのもおもしろいかもしれない。これは後日の課題だ。
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