詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高井 ホアン『戦前不敬発言大全』

2019-10-17 23:15:29 | 詩集
戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)
高井 ホアン
パブリブ



高井 ホアン『戦前不敬発言大全: 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説 (戦前ホンネ発言大全)』(合同会社パブリブ、2019年05月24日発行)


とてもおもしろい。
いまの人間は「言論の自由」を信じているが、昔のひとの方が「自由」だ。
憲兵に取り締まられたかもしれないが、そして実際に拷問で死んで行ったひともいるが、なんといっても「精神が自由」だ。
言い換えると、「批判力」がある。
いまの日本は「批判力」をなくした人間しかいない。
「批判」をしないから、圧力をかけられない。
それだけのことなのに「自由」だと思い込んでいる。
それは愛知トリエンナーレを見ただけでもわかる。
天皇と自分を同一視した画家が、他人に作品(天皇)が焼かれるのは我慢ができない。自分で焼いて「浄化」しただけなのに。
この本の172ページに、

天皇ハ一介ノ「オメコ」スル動物ナリ

という文言が書かれている。
こういうことを「文書」にするだけの「自由」が、いまの日本にはない。
天皇は人間である、という視点でみつめる「批判力」がなくなっている。
自分で自分の「自由」を捨てているのが、いまの日本人だと思う。
戦前(戦中)は、みんな死ぬか生きるかの「真っ只中」にいたから、真剣にことばを発している。
自分の考えたことを、自分でことばにしている。
そこに「精神の自由」と「批判力の健康」を見る。
いまこそ読まれるべき一冊である。

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「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

2019-10-17 22:55:24 | 自民党憲法改正草案を読む

「遠近を抱えてパート2」 について(再追加)

YouTubeでみた大浦信行の「遠近を抱えてPart2」には少しわからないところがあった。
山本育夫さんが紹介してくれたビデオで作品の背景が分かった。

https://video.vice.com/jp/video/nobuyuki-oura/59e0485e177dd454fe3412f1?fbclid=IwAR09Yk3YCqetKKcKkOrNjZrj4c6W5_yQc3XnMNUoEjTimF6Bjl6K9SZs_5E

「遠近を抱えてPart2」に先立つ作品がある。「遠近を抱えて」である。その作品は
①富山の美術館で展示された。展覧会が終わった後、富山県議会で作品が批判され、最高裁まで争った。そして、その後(?)、展覧会の図録が焼却された。
②「遠近を抱えてPart2」は、そういう経緯を踏まえて作られている。
なぜ、大浦は「遠近を抱えてPart2」で作品を焼いたのか。
理由は簡単である。大浦にとって天皇は大浦自身なのである。大浦はアイデンティティを天皇に直結させている。日本の感情、情緒、精神もすべての天皇を中心とした「遠近法」のなかにある。それが「遠近を抱えて」で大浦が表現したことだ。(ポエティックというようなことばを使って、大浦は「遠近を抱えて」を紹介していた。桜とか入れ墨とか、日本のポエジーが天皇の周辺で、一点透視とは違う遠近法、縄文の渦巻き、らせんで構成されている、というのが大浦の「哲学」だ。)
ところがその作品図録が焼却処分にあった。これは大浦には、大浦自身が否定されたように感じられた。きちんとした「批評」で否定されたのではなく、芸術を理解しない人間によって、無残に否定された。大浦自身だけではなく、大浦が「一体」と感じている天皇も「無知」によって踏みにじられた。理想の「遠近法」も否定された。)
何としても、天皇と大浦自身を「無知」から救済しないといけない。彼の「芸術」のすべ
てを救済しないといけない。
どうするか。
大浦自身の手によって、「完璧」に死へと昇華させる。「もの」ではなく、「精神(霊)」にまで高めるのである。それが焼くことであり、灰を踏みにじることなのだ。もう、「無知」な人間には「大浦自身である天皇」の作品など見せない。
大浦は、そう決意したのだ。そして彼一人で「儀式」をしたのだ。
天皇の「評価」はいろいろあるだろう。大浦は、天皇は日本人の精神を戦争によって高めたと感じているのだろう。稲田なんとかという国会議員のように。その「証拠」として従軍看護婦の少女の手紙を「パート2」の中に抱え込んでいる。大浦は、少女の手紙を紹介することで、彼自身が「少女」になって、天皇の命ずるままに戦地に行き、血まみれになって死ぬのだ。彼女の遺体(遺骨)は日本に帰ってきたか、たぶん帰ってこない。その少女も、同時に「美しい霊」にしてしまうのだ。天皇と戦争というものがなければ、少女の精神は「美しい霊」にはなれなかった。天皇のおかげで「靖国の霊」になれた。
この作品のなかで、大浦は、生きていながら「靖国の霊」になっているのだ。
とんでもない作品だ。
この作品を批判している人は、天皇の写真が焼かれている部分だけしか見ていないのかもしれない。もしかすると、その部分も見ていないかもしれない。
天皇の肖像は、写真のコラージュのようにも見えるが、大浦が描いたものにも見える。自分が描いたものが気に食わなくて、破ったり焼いたりする人は多いだろう。そうすると「完璧には描けなかった天皇」を焼くということは、不謹慎なことではなく、天皇を愛するひとなら当然のことかも知らない。「完璧な天皇の肖像」だけを提供したいと思ったから焼いたということもあるのだ。
「表現の自由」が話題になった作品だが、この作品を他の画家たち、この作品を実際に見た人たちはどう見ているのか。作品に対する感想を聞いてみたい。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

2019-10-17 06:40:48 | 自民党憲法改正草案を読む
「遠近を抱えてパート2」 について(追加)

この作品の印象は先に書いたが、どうにもわからないことがある。
この作品の天皇の肖像は、たしかに昭和天皇をかたどっているが、それは「写真」なのか、それとも「描いたもの」なのか。そして、「描いたもの」だとしたらだれが描いたのか。
作者自身が描いたのだとしたら、この作品は「逃げ道」を用意している。
「天皇の肖像を焼くのは許せない」という批判に対して、「天皇を描いたが、うまく描けなかった。だから失敗作を焼いた」と言い逃れができる。失敗作であっても、天皇の肖像であるかぎりはそれを大事に保存しなければならない、というのはあまりにも無理がある。批判するひとは「しかし、焼いているところを公開しなくてもいいじゃないか」というかもしれない。これに対しては「失敗作をごみとして他人の処理にまかせるのではなく、自分で責任をとって処理していることを明確にするため公開した。自分の作品に責任を持っている」ということもできる。論理はいつでも、どんなふうにでも完結させることができる。論理というのは「後出しじゃんけん」なのである。
こういう「後出しじゃんけん」を用意しているものは「芸術」としては「うさんくさい」ものがある。
そういうところにも、私は、かなり疑問をもつ。

そして、これから書くことは作品そのものとは関係がないが。「天皇崇拝」思想に関する疑問である。
天皇制は正しく言えば「父系天皇制」である。
正妻のこどもであっても女子は天皇になれない。側室のこどもであっても男子なら天皇になる。そこには「男尊女卑」の思想がある。
男子を生んだ側室は、「歴史」にきちんと書かれるかもしれない。正妻の生んだ女子も「歴史」に書かれるだろう。しかし女子を生んだ側室、側室から生まれた女子はどうなるのだろうか。
私は「歴史」にはうといのでよくわからないが、たとえ書かれたとしても「父系天皇制」の脇に追いやられ、名前がふつうのひとの口にのぼるということはないだろう。
「男尊女卑」を前提とした「家」制度が、ここに隠されている。そういう「家制度」をそのまま「理想」として受け入れることに、多くのひとたちは納得しているのか。
とくに「天皇制」を支持する女性は、このことについて「理不尽さ」を感じないのだろうか、と疑問に思ってしまう。

で、先に「これから書くことは作品そのものとは関係がない」と書いたのだが、「男尊女卑」を出発点にして考え直すと、いま書いたことは作品と深い関係を持っている。
この作品では、従軍看護婦の手紙が朗読される。どうも死んだらしいことが暗示される。さらにチマチョゴリを着た韓国女性らいしシルエットが「紙人形」で表現されている。背後に韓国語らしい歌が聞こえる。
女性の死と天皇が結びつけられている。
女性の死は「必然」のように描かれている。
でもそれは「必然」と認めていいのか。
もちろん、戦闘で死んだ男子以外の犠牲者に目を向けさせるためにそうした、という論理は成り立つ。
しかし、やっぱりよくわからないのである。
「論理」というよりも「情緒」を刺戟しているだけなのではないか、という「うさんくささ」が残るのである。

また別の疑問も残る。
私はあるブログで、この作品は「どんど焼きのとき燃やした新聞にたまたま天皇の肖像が写っていたようなものだ」というような感想を読んだ以外には、「批評」を目にしていない。
感想、批評さえも、そこに天皇が登場するのは問題なのか。
天皇について語ることは、なぜ、問題なのか。
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江代充『切抜帳』

2019-10-17 00:00:00 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(思潮社、2019年09月30日発行)

 江代充『切抜帳』は「叙事詩」か「抒情詩」か。感情の動きというよりも、肉体の動き、視線の動きに重心を置いているので「叙事詩」ということになるかもしれない。
 「木切れの子」という作品。この作品については書いたことがあるかもしれない。でも、書いてみよう。前に書いたことと、まったく違うことを書くかもしれない。

出掛けたあと
一面に畑地の見える
目先にちかい所に仮小屋があった

 なんでもないような書き出しだが、とても「くせ」がある。「出掛けたあと」とあるが、だれが出掛けたのか。これはたぶん、作者が外に出たということだろう。ふつうは自分のことを「出掛けたあと」というような奇妙な言い方で「客観化」しない。
 そのあとの「一面に畑地の見える」というのも、「くせ」がある。「見える」という動詞をつかうにしても、ふつうは「畑地が見える」だろうし、わざわざ「見える」とは言わないだろう。「一面に」ということばもとても奇妙だ。わざと「一面」「見える」と言って、「視線」を広げた上で、その動きをねじまげるように(引き返すように)「目先にちかい」ということばを動かす。ことばにあわせて、私は「肉体(視線)」が奇妙にねじれるのを感じる。ことばが「感情」ではなく、「肉体」の動きをなぞるように動いていると感じる。

一度その前を過ぎ
山へ向かう奥の草地のほうへ抜けてしまうと
遠くなった小屋の正面は見うしなわれ
こちらに傾いた小さな屋根の上に
拾われた細枝のバラ束がおおまかに敷かれていて
その内から所所
間を置いて跳ね上がる小枝の列が
上方へななめに傾き
か細い茎の柱のように突っ立っていることが分かる

 「動詞」が非常に多い。「その内から所所」以外にはかならず「動詞」がある。そのなかには「傾いた小さな屋根」のように修飾語として働いていることばもあるが、そのひとつひとつが「動詞」であるがゆえに、「肉体」をひっぱりまわす。それにしたがって「正面」は「見うしなわれ」、「正面」ではないものがあらわれる。つまり、普通は意識しないもの「内」(内面)が、内面ではなく「外面」としてあらわれる。いや、逆か。ふいにあらわれた「正面」以外の「外面」が「内面」として「肉体」のなかへもぐりこみ、往復する。出たり、入ったり。行ったり、引き返したり。往復だ。それを繰り返していると「見える」「見うしなわれる」が、「分かる」にかわる。「分かる」とは「意識化される」ということである。「肉体」のなかに、それが入ってくるということだ。
 「分かる」というのは、「予兆」のときもあるし、「現在」のときもあるが、過去になってから「分かる」というものもある。
 だから、こんなふうに言いなおされる。

あとになって
遠く空にいるヒバリがしずかに先を越し
わたしもそこへ引き返すとき
牛やうまや飼い葉桶のある
あの仮設小屋の内側に宛てがわれている
新しく設えられた
よろこびの素材の板の一つに触れようとする

 「見たもの」が「肉体の動き」にあわせて「肉体」のなかにしまいこまれる。この「しまいこみ方」は、先日読んだ山本育夫の「抒情病」とはずいぶん違う。山本は「知性」でととのえた。それを内部にためこむのではなく、外へ出しつづけ (ことばにしつづける)、肉体と感情の健康を保つ。一方、江代は「知性」を遠ざけ、「肉体」の動きにこだわっている。「先を越す」「引き返す」「宛てがう」「設える」、そして「触れる」。「触れる」は「目で見る」ではなく「手で見る」ということだな。そのとき、肉体の内部にためんこんだものが、ふいに「よろこび」、つまり「感情」となってあふれる。
 「叙事」が「抒情」に転換するのだ。

 この奇妙な文体は、山本育夫の『ヴォイスの肖像』の切断と接続の感覚に似ていないこともないが、いちばんの違いは、山本の切断と接続が「意識」の運動であるのに対して、江代の場合は、どこまでも「肉体」であるということだろう。「肉体」はけっして切断されないし、接続できない。あえていえば「接触」しかできない。その運動のなかで、「意識」はゆっくりゆっくり、ときには滞ったり引き返したりしながら、「自己」を守る。そして最後に、息をするように「抒情」を吐き出すのだ。

 ここから、また山本育夫へ引き返してみるのもおもしろいかもしれない。これは後日の課題だ。


*

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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