詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)

2019-10-09 13:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開(つづき、あるいは表現の自由とは何か)
             自民党憲法改正草案を読む/番外294(情報の読み方)

 前の文章(情報の読み方、294)でこういうことを書いた。
 愛知トリエンナーレで天皇の肖像を燃やすという作品に関連してである。たしかに天皇の肖像が燃えるのを見て不快感を覚えるひとは多いだろう。
 一方、次のような文章はどうか。
①天皇の写真が写っている新聞を犬のトイレにつかった
②犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかった
 たぶん、なぜ、わざわざそこで「天皇の写真」ということばをつかうのか、という問題が起きる。そのことに対して不愉快だというひとが現れることは簡単に想像できる。
 しかし、これが
③犬のうんちを拾うときヒトラーの肖像が載っている新聞をつかった
④犬のうんちを拾うときスターリンの肖像が載っている新聞をつかった
⑤犬のうんちを拾うとき毛沢東の肖像が載っている新聞をつかった
⑥犬のうんちを拾うとき金正男の肖像が載っている新聞をつかった
⑦犬のうんちを拾うときエリザベス女王の肖像が載っている新聞をつかった
⑧犬のうんちを拾うとき妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
⑨犬のうんちを拾うとき孫の写真が載っている新聞をつかった
⑩犬のうんちを拾うとき離婚した妻(夫)の写真が載っている新聞をつかった
 はたして、天皇の写真と同じように「だめ」というひとが日本人の何人いるか。なかには、「やれやれ」というひともいるかもしれない。
 ⑩という文章に出会ったら、笑いだしてしまうかもしれない。
 これは、どういうことだろうか。
 写真に写っているひとに対して自分が何を感じているか、どう感じているか、ということと「不快さ」(あるいは「快感」)の度合いは変化するということである。つまり、天皇の写真についていえば、日本人の多くは不快に感じるだろうが、他国のひとはなかには快感に感じるひともいるだろうということである。
 そして、⑩の例が、いちばんわかりやすいのだが、ひとは「わざと」そういうことをするときもある。それは自分の感情を解放するためである。離婚した妻(夫)は「何やってるんだ。私をバカにするつもりか」と怒るかもしれないが、それは怒らせるためにやっているのだから、怒る姿を見るのが快感でもある。  
 芸術は、ときにはそういう「作用」があるのだ。ひとをあえて不愉快にする。あるいはひとが怒る、眉をひそめるのを確かめるということが。人間の感情はどう動くか。そういうことを明確に知るのが芸術である。自分とは何ものなのかを知るのだ。そのために存在している面もある。
 美しい、気持ちがいいものだけが「芸術」ではない。
 もし、先にあげた①から⑩までの「表現」を規制するとしたら、それなりの「理由」が必要である。どうして、それが駄目なのか、理由と基準が必要である。「天皇」だから駄目、というのは、かなりむずかしい基準だろう。
 天皇は日本の「象徴」である。憲法に書いてある。しかし、国民には(個人には)、それを認めないという「権利」もある。否定し、批判する権利もある。そういうことも含めて考えないといけないのに、河村は、無条件に天皇を絶対視している。そこに非常に大きな問題点がある。
 河村が展覧会に要求しているのは、芸術の問題ではなく、「ある思想」の絶対視である。

 もう一つ考えたいのが「公金」の問題である。河村は「反日」(ということばをつかっていたかどうか、正確ではないのだが)的企画に公金を支出することは問題がある。公共施設をつかうことには問題がある、というような発言をしていたと思う。
 しかし、これは逆の言い方もできる。もしそこに「反日」的な作品があるとしたら、それこそ、なぜ「反日的作品」が存在するのか考えるきっかけになる。展覧会から排除する(見えなくする)ということで、「反日的思想」がなくなるわけではない。「反日」とひとくくりにされる思想とどう向き合うか、それこそ今の日本の課題だろう。
 いつの時代、どんな場所にも、あることがらに対して「賛成」と「反対」のひとがいる。ものの見え方・見方はひとによって違っている。違いがあることを前提にして考えないといけないのに、違うから排除してしまえでは何もはじまらない。
 安倍が都議選で「安倍辞めろ」と叫ぶ国民に対して「あんなひとたちに負けるわけにはいかない」と叫んでから、自分とは違う意見の人間を排除しようとする動きが非常に強くなっている。安倍は、そして、こういう動きを歓迎しているようでもある。河村の動きは、こうした安倍の姿勢に迎合するものである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高塚謙太郎『量』

2019-10-09 11:19:45 | 詩集
高塚 謙太郎
七月堂


高塚謙太郎『量』(七月堂、2019年07月15日発行)

 高塚謙太郎『量』はA4版の 250ページ近くある詩集だ。読む前にひるんでしまう。詩の組み方もさまざまで、手に負えない。だから、テキトウなところをパッと開く。そのページを読み感想を書こうと思うが、なかなかうまくいかない。つまり、高塚のことばと私のことばは、一緒に動こうとはしない。一緒に動かなくてもいいのだけれど。だから、正確に言いなおすと、私のことばが勝手に面倒くさがるのである。このページのことばについては書きたくない。これは、まあ、他のページとどうつながっているか考えないといけないかもしれないと思うからなんだけれど。そういうことを繰り返していると、だんだん私の方がいいかげんになってくる。最初からいいかげんではあるのだが。「組み方が嫌いだなあ」とか、「この詩は上揃えと下揃えが対になっているから引用がめんどう」とか。こういういいかげんな思いも感想ではあるのだが、と開き直って。
 えいっ。
 それが、58ページ。

何回目かの第二外国語のガラスを貫いてバイパスの朝と
始発の合図を知らないバイパスの朝と
カタカナ英語のディープキスの燃え滓の下で

 の「ディープキス」に「註釈(?)」がついている。これがおもしろい。

紙片の置かれたテーブルにカップを並べ、隣に座って
いる。温かい飲み物は言葉を奪う。近道を教えたこと
はない。どちらかが椅子を動かして出ていった。カッ
プが1つになっている。カップには小さな影がついて
いる。影には形があり、人の顔に見える。カップの中
には温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。

 これは「註釈」のほんの一部。ナボコフの「青白い炎」でも思い出せばいいのかもしれない。というようなことは書いてもしようがないか。
 私は、「どちらかが椅子を動かして出ていった。カップが1つになっている。」で一瞬立ち止まった。「カップが1つになっている。」を一瞬、ふたつあったカップがひとつに融合したと読んだのだ。よく読めば(よく読まなくても)、二人のうちのひとりがカップを持って去ったのでカップがひとつになったという単純な描写なのかもしれないが、ちょっと「ことば」というか「認識」が行き来するのである。たぶん「ことば(一文)」の短さが錯覚を誘うのである。
 そのあとの「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」でも、印象が奇妙に動く。「カップには小さな影がついている。」は、カップはひとつになったが影と向き合い「ふたつ」であることを意識している。ここには「ひとつ」と「ふたつ」、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯している。世界がばらばらになったり、くっついたり、そしてまた散らばっていく、「意識の流れ」みたいなものがある。
 「影には形があり、人の顔に見える。」というのは、まさにその「意識」そのものなのだが、ここで私の「ことば」は突然、「影なんかを人の顔として見るなよ」と叫ぶのである。その「ことば」の声を私は聞くのだ。この部分を、「わかる」けれど、「うるさい」と感じたのだ。
 そして、高塚の書きたいのは、「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」なのか、それともそのあとの「カップのなかには温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。」なのか、という謎の中に迷い込む。
 こんなことばを書くなよ、といいながら、次のことばで否定したはずのことばのなかへ帰っていく。高塚のことばが、前に書いたことば「温かい飲み物は言葉を奪う」に迷い込むように。(そういう「ことば」の運動が起きる。このときの、私自身の「わけのわからなさ」が、私は好きなのだ。
 ふーむ。
 「言葉を奪う」と書きながら、そのことを「ことば」にしている。「ことば」は「ことば」でなくなりながらも、そこに起きていることを「ことば」として存在させてしまう。「ことば」を奪われることで「ことば」が生まれる。もし「ことば」が奪われなかったら、次の「ことば」は生まれることはない。つまり、世界は違ったものになる。
 このあと、

                     顔が立
ち上がってテーブルに手をついた。最後のカップも運
ばれていった。紙片から一番近い場所に手をついた。
しばらく時間が経って新しいカップが並べて置かれ
た。光がなければ、カップがテーブルに置かれること
もなかっただろう。

 と、もってまわった「散文」(説明)がはじまる。「顔」「手」が「意識」の流れを切断して主役になって動く。「意識」の物体性(?)のようなものが消えてしまって、妙につらい。無理がある。という感想は、この部分だけを取り上げているから、そうなってしまうのかもしれないが。
 でも、「光がなければ、」というのは美しいなあとも思う。

 何を書いているか、わからない?
 そうだろうなあ。
 私も何を書きたいのか、よくわからない。
 こんなふうに、きょうはことばが動いた、という以外は何もいえない。

 もっと「体力」があるときでないと、読めない詩集だ。






*

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愛知トリエンナーレ再開

2019-10-09 09:40:41 | 自民党憲法改正草案を読む
愛知トリエンナーレ再開
             自民党憲法改正草案を読む/番外293(情報の読み方)

 愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」が再開された。2019年10月09日読売新聞朝刊(西部版・14版)の35面(社会面)では、よくわからないのだが、こういう文章が記事の最後にある。

再開に反対する実行委会長代行の河村たかし名古屋市長は8日午後、会場と県庁で抗議活動を行った。支援者らとともにプラカードを掲げ、「表現の自由という名の暴力だ」などと訴えながら、一時その場で座り込み、展示の中止を改めて訴えた。

 これまで伝えられていることから推測すると、河村は、
①「少女像(慰安婦像)」は河村の歴史認識と一致しない、日本の歴史を歪曲しているから許すことができない
②天皇の肖像を焼くことは許されない
 という観点から、「暴力だ」と訴えているのだろう。
 だが①の慰安婦については、「歴史認識」が河村と同一でなければならない理由はどこにもない。「慰安婦」は日本軍によって強制されたものという認識は、多くの人がもっている。その根拠も示されている。これは「表現の自由」の問題ではなく、歴史認識の問題である。
 ②の天皇の肖像も、実際を見ていないのではっきりしないが、どうも本を焼却処分をしたらそこに天皇の肖像が見えた(天皇の肖像が燃えるのが見える)というものらしい。もちろん、それは「わざと」そういうように撮影したのだろうけれど。
 問題は、人の肖像を焼くというのは失礼なことかもしれないが、怒りのために焼きたいという人もいるかもしれない。そういう感情はおさえられない。もし、そういう行為を禁止するなら、それは「表現の自由」ではなく、別の概念で規制するものだろう。
 だいたい「表現の自由」は、そのことばを単独で取り上げても意味はない。「表現の自由は、これを保障する」というのは「国民の表現の自由については、これを保障する。つまり、国家権力は、表現がどういうものであれ、それに介入し、表現する行為をさまたげない(妨害してはいけない)という規定であって、国民が何を表現してはいけないかという規定ではない。憲法は、国家権力を拘束するが、国民は拘束されない。
 憲法には、国民の義務として、教育、勤労、納税を上げているが、勤労していない人、働いていない人が憲法違反で罰せられることはない、ということだけを見てもわかる。
こどもに教育を受けさせなかったら、憲法違反ではなく、もっと具体的な法律が適用される。納税を怠ったときも憲法ではなく、法律が適用される。
 同じように、表現に問題があったとしたら、それは「憲法の概念(表現の自由)」ではなく、別の法で取り締まるべきである。そういう手続きを踏まずに、展覧会を中止するという行為が権力の越権行為(憲法違反)なのである。
 だいたい「慰安婦像」をつくること、展示すること、天皇の肖像を焼くことが、どの法律に違反するのか。
 天皇の肖像が焼かれるのを見るのは不愉快だ、ということはわかる。しかし、河村が不愉快だからといって、全員が不愉快とはかぎらない。私はわざわざ天皇の写真を焼きたいとは思わないが、思うひとがいるのも充分に理解できる。たとえばヒトラーの写真を焼く、スターリンの写真を焼くというのは、どうか。それを想像するといい。「教科書の歴史」ではどう書かれているか知らないが、昭和天皇を太平洋戦争の責任者、戦犯と考えるひともいる。怒りや憎しみからある人の写真を焼いてはいけない、特に天皇の写真を焼いてはいけない、焼くところを見せてはいけないというのなら、それを禁止するなら、禁止するための法律がないといけない。その法律を元に河村は主張しないといけない。河村の感情が法律であってはならない。
 河村にとって天皇は絶対的な存在なのかもしれないが、その絶対視を国民に押しつけるととんでもないことがおきる。天皇の写真が写っている新聞は犬のトイレにつかってはいけないとか、犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかってはいけないとか。さらには、こういうふうな文章に天皇を持ち出してはいけないとか。
 天皇ということばをつかうときは、天皇の尊厳に配慮すべきだというのなら、そう言うための根拠になる「法律」が必要である。昔は「不敬罪」というのがあったらしいが。と、考えると、河村のやったことは、単なる「抗議」をとおりこして、「2012年の自民党改憲草案」の先取り実施であることがわかる。そこでは「天皇」は明治憲法と同じように「元首」と定義されている。
 あ、少し脱線したか。いや、脱線ではないだろうなあ。
 どんなときでも、個人の感情が「法律」であってはいけない。特に権力者の感情が法律として他人の行動を規制するものになってはいけない。

 これは河村に直接関係することではないが。
 多くの「嫌韓派」のひとが、河村と同じ意見を主張している。朝鮮半島を日本軍が侵略し、植民地化したことを無視している。「慰安婦像」は日本人を傷つける、不愉快だ、と主張している。撤去しろと訴える。その一方、韓国人が「旭日旗」は不愉快だ、オリンピック会場へ持ち込む(応援につかう)のはやめてほしいと訴えると、何をつかって応援するかは自由だ、と言う。韓国人がどれだけ不愉快に思い、不安に駆られるかは気にしない。
 これは、おかしい。
 「嫌韓派」のひとにとって不愉快なことは許さない。しかし韓国人にとって不愉快なことを「嫌韓派」のひとがするのはかまわない。自由だ。
 こういう態度が、「日本は太平洋戦争を反省していない。韓国に対して充分な謝罪をしていない」という批判につながるのだ。二度と外国に侵略しないという反省と誓いの気持ちがあれば「軍旗を応援につかわない」というのは当然のことだろう。
 何回か書いたが、「謝罪」というのは「申し訳ない、ごめんなさい」というだけではないのだ。すぎたことは、どんなにしても取り戻せない。だからこそ、「もう二度としません」と言うこと、将来同じことをしないと誓うことが大事であり、それが「謝罪」なのだ。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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