詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

2019-10-13 10:30:25 | 映画
ジャ・ジャンクー監督「帰れない二人」(★★★★★)

監督 ジャ・ジャンクー 出演 チャオ・タオ、リャオ・ファン

 ジャ・ジャンクーといえば「長江哀歌」。あの映画の衝撃が強すぎて、他の作品はどうしても見劣りがする。「長江哀歌」は「日常」というものが「時間」をもっている。つまり「歴史」であるということをたいへん静かな映像でつかみ取っていた。「日常」というのは激変しているのだが、その激変はつねに静かさの中に沈んでいく。ちょうどダムの水底に集落が沈んで行くように。
 この映画では、女と男の「日常」が、つまり「時間」がとてもていねいに描かれる。
 「激変」というか、ストーリーを要約すれば、暴力団(?)のボスが対立する組に襲われる。女は男を救うために発砲する。銃の不法所持で服役する。出所してみると、男は他の女と一緒になっている。さて、どうするか。
 この十数年の「時間」をチャオ・タオとリャオ・ファンが演じる。しかも、ほとんど無表情に。あ、これは中国人の表情を私が見慣れていないために感じることかもしれない。日本人の表情は「能面のようにのっぺりしている」といわれるが、中国人もおなじだ。アジア人が表情に乏しいのかもしれない。
 事件を起こすまでは、まだ表情に活気があるが、事件の後、男をかばって(銃は男がもっていたものだ)逮捕されてからのチャオ・タオは、彼女自身のなかにとじこもる。財布を盗んだ女を問い詰めるところ、バイクの男をだますところ、列車のなかで知り合った怪しげな男についていくところなど、隠していたものがぱっと噴出するのだが、リャオ・ファンとの「絡み」になると、無表情に近い。とても静かになる。感情を滲ませる部分もあるが、とても静かである。たとえばアメリカ映画、フランス映画の女と男のように、ののしりあいやとっくみあいがあるわけではない。そんなことをしなくても相手の思っていることがわかる。相手の「過去(時間)」がわかり、「いま」の苦悩もわかる。わかった上で、そのわかっていることを語る。
 これが「日常」である。
 時代は変わる。そして女と男の考えも変わる。変わるけれど、変わらないもの、変えられないものがある。それを要約して、「渡世の義理」とこの映画では言っている。「渡世」とはひととひととの関係である。ひととひとが出会ったら、そこに義理が生まれる。
 男は、義理を捨ててしまうが、女は義理を守る。その義理に男は頼るが、頼りきることはできずにやっぱり出て行く。これを甘えというのだが。
 そういうあれこれを見ながら、私は「長江哀歌」のひとつの美しいシーンを思い出していた。「長江哀歌」で私がいちばん好きなシーンは、どこかの食堂のシーンである。テーブルが壁にくっついている。テーブルは食事のたびに拭かれる。そうするとテーブルが接している壁にも雑巾が触れることになる。テーブルと壁の接していた部分に、だんだん「汚れ」がついてくる。拭き痕が残る。食堂はダムのために立ち退きになる。テーブルが運び出される。すると、壁に雑巾の拭き痕だけが残る。「義理」とは、こういうものなのだ。繰り返し、積み重ねが残す、とても静かな「痕跡」。それは「汚れ」に見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、ほんとうは「美しさ(清潔さ)」を守り続けた「暮らしの痕」なのだ。私の、その短いシーンで思わず涙が出てしまったが。
 おなじものをチャオ・タオの振る舞いに見るのだ。かつて愛した男。いまは愛しているかどうかわからないが、あの愛にもどれたらいいのに、という思いが消えない。あの愛を守ろうとしている。それは、あのときの自分を守るということとおなじ意味である。テーブルに雑巾がけをしてテーブルをいつも清潔にするように、事件と呼べないような小さなあれこれが起きるたびに、それを片づける。ととのえ、清潔にする。つまり、あのといの自分自身にもどる。その繰り返しが、壁にではなく、チャオ・タオの「肉体」に残る。それは「汚れ」に見えるときもある。麻雀店を取り仕切る「女親分」に、とくにその「汚れ」が見える。しかし、それは「汚れ」ではなく、暮らしをととのえる過程で積み重なった、どうすることもできない「時間」なのである。
 その重さと悲しさと苦しみと、それでも「義理」を生きる悦び(愛した男といっしょに「いま」を生きている、という実感)が交錯する。チャオ・タオの「姿勢」の「正しさ」のなかに、それがくっきりと見える。映画ではとくに、リャオ・ファンが脳梗塞から半身不随になっているので、「姿勢」の対比としてそれがくっきりと浮かび上がる。この「肉体」の対比は、こうやってあとから整理しなおせば、いかにもストーリーという感じだが、映画を見ている瞬間は、そういう感じがしない。チャオ・タオの「意志の強さ」がスクリーンを支配しているからだろう。そして思うのは、こういう「姿勢」の対比を見せる映画では、たしかに「ゆれ動く表情」というものは邪魔なのだ。無表情は選びとられた演技なのだ。「顔」で演技するのではなく、「全身(肉体)」そのもので演技する。「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの「全身の演技」にも驚いたが、チャオ・タオの「静かな全身の演技」にも驚いた。引きつけられた。

 それにしても、と思うのは。
 どこでも、いつでも「日常」はある、ということ。その「日常」というのは「過去」をもっているということ。中国は経済発展とともに大きく変わっている。そういう大きな変わり方は目につきやすい。その一方、「日常」の感じ方も少しずつ変わっている。変わるものと変わらないものが絡み合って、うごめいている。この押しつぶされながらつづいていく「日常」の感じは、巨大なビル群や、経済活動だけでは見えない。なんといっても「大きい」ものは見えやすく、「小さい」ものは見えにくい。そういうことを感じさせてくれる映画である。チャン・イーモーは「紅いコーリャン」(日常)から「シャドウ(影武者)」(グローバル経済)へと激変したが、ジャ・ジャンクーは「日常」(いま、そこにいる人間)に踏みとどまっている。そういう点も、私はとても好きだ。

 (2019年10月12日、KBCシネマ・スクリーン1)

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リー・チュウビン,ハン・サンミン,チョウ・リン,ホァン・ヨン,チャオ・タオ
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