八重洋一郎「白梅」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)
八重洋一郎「白梅」は
と始まる。「どしゃぶり」が「劇」を予想させるが、「散文的」な文体である。いいかえると「どしゃぶり」ということばのなかにかろうじて「詩」があるということ。
八重は、そこで「叔父の写真」を見る。叔父は父に似ている。叔父は「石コロ」になって帰って来た。遺骨はない。「父が位牌に叔父の戒名を書いていた」ことを思い出す。「劇」はそんなふうに語られる。自分で語る「劇」に引き込まれ、八重は記念館を離れられなくなる。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
ここに書かれているのは「ことば」か「事実」か。
きのう読んだ吉田文憲「残声の身」と比較すると不思議な感じがする。吉田は身の回り(?)の現実を書いている、いま起きていることを書いているのに、なぜか「リアル」には迫ってこない。むしろ「肉体」から離れた場所で起きていること、「肉体」がここにあるのに、ここが遠いという感じがする。吉田の詩は「ことば」だけがあり、「現実」がない。
八重の詩は逆だ。どしゃぶりの日に、死んだはずの娘たちがあらわれるというのは「ことば」でしかありえない世界である。そこには娘たちはいない。娘をそこに「出現」させてしまうのは「ことば」なのだ。しかし、感じるのは、「ことば」ではなく、そこに娘たちがいるという「現実」である。ほんとうは存在しないものが「現実」として迫ってくる。
これは、どういうことだろう。「ことば」と「現実」は、どんなふうに交錯しているのだろうか。
別な言い方をしてみる。
私は「抒情詩」について考え始めたのだが、この八重の詩は「抒情詩」か。ぱっと読んだ感じ、「叙事詩」に見える。八重が体験したことを淡々と「事実」を連ねて書いている。「感情」を書こうと意図している感じはしない。「どしゃぶり」が劇的だが、そのどしゃぶりにしたって、実際にあったことだ。「わざと」書いたわけではない。
でも最後に残るのは「事実」ではない。「事実」かどうかわからないものが語られ、「こころ」はその「事実かどうかわからないもの」を「事実」にしようと動いている。その「こころ」の動きを「肉体」で感じてしまう。「こころ」の動きを感じるなら、それはやっぱり「抒情詩」と呼んでもいいのではないだろうか。
さらにこんなことも考える。
どしゃぶりの日に姿をあらわす白梅の娘たち。それを、ひとは、どんなふうに語ることができるのか。
この「ことば」に私は突き動かされる。何度か「劇」ということばを私は書いてきたが、「平凡」は「劇」とは対極にあることばだ。作為がない。
「平凡」は、しかし、どうやって生まれて来るのだろうか。
きっと何度も何度も語られ、少しずつ「劇」を振り落として「平凡」になるのだ。語りたいことは山ほどある。実際に、「娘たち」の両親、あるいは友人、彼女たちを知っているひとたちは何度も何度も語り合ったのだ。書かれていないが、そこには「叔父の遺骨が石コロになって帰って来た」というような「劇」もあったかもしれない。けれど、そういう「劇」を語っていると、「思い」が「劇」の方にひっぱられて、なんだか嘘っぽくなる。嘘ではないのだけれど、言いたいのは、もっと「単純」なこと、いつでもだれでも感じていること、という思いが強くなる。いつでも感じていること、それだけを言いたい。それが、
なのだ。
ここには「劇」がない。たとえば「叔父は石コロになるまで、国のために戦った」というような「美辞」が入り込めない。娘たちは「国のため」というような「名目」を求めていないし、「国のため」というようなことばで称賛されることも望んではいない。「いきたかった」。「もっと行きたかった」。
それは娘たちを知っているひとから言わせれば、「もっと生きていてほしかった」である。「もっと生きたい」という思いを、ひとは「もっと生きていたかった」ということばに託し、「白梅の娘たち」になって、いまを生きるのだ。
「叙事」を生きるとき、そこに「抒情」ではないもの、もっと「強い意思」が生まれる。
私はまた、不思議なことを体験する。
詩のなかのカギカッコのなかのことばは運転手が語ったものだ。しかし私にはそれが八重のことばとして聞こえる。運転手は何も言っていない。むしろ、八重が「こころ」のなかで運転手に語りかけている。私は、その八重の声をシャドーイングしながら、自分が運転手に語りかけている気持ちになる。八重になってしまう。
*
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八重洋一郎「白梅」は
ある夏 どしゃぶりの中を「ひめゆり記念館」を訪れた
と始まる。「どしゃぶり」が「劇」を予想させるが、「散文的」な文体である。いいかえると「どしゃぶり」ということばのなかにかろうじて「詩」があるということ。
八重は、そこで「叔父の写真」を見る。叔父は父に似ている。叔父は「石コロ」になって帰って来た。遺骨はない。「父が位牌に叔父の戒名を書いていた」ことを思い出す。「劇」はそんなふうに語られる。自分で語る「劇」に引き込まれ、八重は記念館を離れられなくなる。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
思いきって外へ出ると瀧のどしゃぶり 急いで
タクシーを拾い 北へ向けて走り出す
何キロか過ぎた頃 突然運転手が小さな声をかけてくる
「見えましたか ホラ 左手の少し盛りあがったあのあたり」
「見えましたか 白梅の娘たちです こんなどしゃぶりになると
いつも身ぎれいにした娘たちが二人 三人と並んで立っているのです」
「かわいそうに アイエーナー」
「平凡な言い草ですが どしゃぶりは もっと生きていたかったことの
娘たちの涙です」
降り込められた車内は暗く 運転手さえ あらぬ姿に見えてくる
車は更に北へ向けて疾走するが いつまでも
目的地に着く気配はない--
ここに書かれているのは「ことば」か「事実」か。
きのう読んだ吉田文憲「残声の身」と比較すると不思議な感じがする。吉田は身の回り(?)の現実を書いている、いま起きていることを書いているのに、なぜか「リアル」には迫ってこない。むしろ「肉体」から離れた場所で起きていること、「肉体」がここにあるのに、ここが遠いという感じがする。吉田の詩は「ことば」だけがあり、「現実」がない。
八重の詩は逆だ。どしゃぶりの日に、死んだはずの娘たちがあらわれるというのは「ことば」でしかありえない世界である。そこには娘たちはいない。娘をそこに「出現」させてしまうのは「ことば」なのだ。しかし、感じるのは、「ことば」ではなく、そこに娘たちがいるという「現実」である。ほんとうは存在しないものが「現実」として迫ってくる。
これは、どういうことだろう。「ことば」と「現実」は、どんなふうに交錯しているのだろうか。
別な言い方をしてみる。
私は「抒情詩」について考え始めたのだが、この八重の詩は「抒情詩」か。ぱっと読んだ感じ、「叙事詩」に見える。八重が体験したことを淡々と「事実」を連ねて書いている。「感情」を書こうと意図している感じはしない。「どしゃぶり」が劇的だが、そのどしゃぶりにしたって、実際にあったことだ。「わざと」書いたわけではない。
でも最後に残るのは「事実」ではない。「事実」かどうかわからないものが語られ、「こころ」はその「事実かどうかわからないもの」を「事実」にしようと動いている。その「こころ」の動きを「肉体」で感じてしまう。「こころ」の動きを感じるなら、それはやっぱり「抒情詩」と呼んでもいいのではないだろうか。
さらにこんなことも考える。
どしゃぶりの日に姿をあらわす白梅の娘たち。それを、ひとは、どんなふうに語ることができるのか。
平凡な言い草ですが
この「ことば」に私は突き動かされる。何度か「劇」ということばを私は書いてきたが、「平凡」は「劇」とは対極にあることばだ。作為がない。
「平凡」は、しかし、どうやって生まれて来るのだろうか。
きっと何度も何度も語られ、少しずつ「劇」を振り落として「平凡」になるのだ。語りたいことは山ほどある。実際に、「娘たち」の両親、あるいは友人、彼女たちを知っているひとたちは何度も何度も語り合ったのだ。書かれていないが、そこには「叔父の遺骨が石コロになって帰って来た」というような「劇」もあったかもしれない。けれど、そういう「劇」を語っていると、「思い」が「劇」の方にひっぱられて、なんだか嘘っぽくなる。嘘ではないのだけれど、言いたいのは、もっと「単純」なこと、いつでもだれでも感じていること、という思いが強くなる。いつでも感じていること、それだけを言いたい。それが、
もっと生きていたかった
なのだ。
ここには「劇」がない。たとえば「叔父は石コロになるまで、国のために戦った」というような「美辞」が入り込めない。娘たちは「国のため」というような「名目」を求めていないし、「国のため」というようなことばで称賛されることも望んではいない。「いきたかった」。「もっと行きたかった」。
それは娘たちを知っているひとから言わせれば、「もっと生きていてほしかった」である。「もっと生きたい」という思いを、ひとは「もっと生きていたかった」ということばに託し、「白梅の娘たち」になって、いまを生きるのだ。
「叙事」を生きるとき、そこに「抒情」ではないもの、もっと「強い意思」が生まれる。
私はまた、不思議なことを体験する。
詩のなかのカギカッコのなかのことばは運転手が語ったものだ。しかし私にはそれが八重のことばとして聞こえる。運転手は何も言っていない。むしろ、八重が「こころ」のなかで運転手に語りかけている。私は、その八重の声をシャドーイングしながら、自分が運転手に語りかけている気持ちになる。八重になってしまう。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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