時計じかけのオレンジ [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [Blu-ray] | |
マルコム・マクドウェル,パトリック・マギー | |
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント |
スタンリー・キューブリック監督「時計じかけのオレンジ」(★★★★★)
監督 スタンリー・キューブリック 出演 マルコム・マクダウェル
「暴力」とは何なのか。この問題を考えるとき、まっ先に思い浮かぶのがこの映画。暴力描写がとてつもなく美しい。しかし、同時に、隠れさている暴力が、とてつもなく醜い。ふたつのものがぶつかりあっている。
冒頭の老人に対する暴力は冷酷だ。冷酷としか言いようがないが、これは私が被害に遭う老人の年齢に近づいたせいか。このシーンは、美しいとも醜いとも感じない。ありふれた暴力だ。これは私が暴力というものになれてしまった、感覚が麻痺しているということか。
しかし、次の廃墟になった劇場での対立グループとの格闘は、ほんとうに美しい。わくわくする。音楽が鳴り響き、まるでバレエである。このままずっとつづいてくれたらいいのに、と思う。
これは、私のなかの「いかがわしい」感覚である。「いかがわしい」快感である。そうわかっているが、この美しさを私は否定できない。あんなふうにして、自分の肉体の中にあるものを外に出してしまいたいという欲望を刺戟される。セックスよりも、もっと快感だと思う。
それにつづく郊外の作家の家でのレイプも、不謹慎といわれるかもしれないが、美しい。体にはりついた赤い服。おっぱいの部分を鋏で切ると丸い穴があく。そこにおっぱいがはみ出る。丸い穴を押し広げるようにして。女性は被害者なのに、まるでおっぱいが暴力をふるっている、世界をかきまわしているという錯覚に陥る。つまり、じわーっと自己主張してくるおっぱいなんかに負けないという欲望がマルコム・マクダウェルを突き動かしている感じが、まるで私自身の欲望のようにわかるのである。
グループの主導権を奪われそうになったマルコム・マクダウェルがテムズ川沿いを歩きながら、三人と戦うシーンもいいなあ。スローモーションが美しい。サム・ペキンパーから盗んだのか。いや、違うな。やっぱり、バレエなのだ。音楽と一体の動きなのだ。
この、少年のわかりやすい暴力だけではなく、陰湿な、つまり見えにくく暴力、隠された醜い暴力も丁寧に描かれる。
強制更生の拷問(?)もすごいが、まだマルコム・マクダウェルに手を下す場面が直接描かれているので、「半分見える」感じが、醜さを見えにくくしている。強制更生を終えた後、マルコム・マクダウェルが警官になった元の仲間に殴られ、かつて女性をレイプした作家の家にたどりついてからの部分がぞくぞくする。最初は、あのときの少年とは作家は気がつかない。作家は強制更生に反対しているので、マルコム・マクダウェルを利用しようとする。その過程で、マルコム・マクダウェルが「雨に唄えば」を歌っているのを聞き、あのときの少年と気がつく。復讐を思いつく。このときの表情がなんとも不気味である。暴力の犠牲者であり、暴力を否定している。その暴力の否定は強制更生という暴力に対しても向けられているのだが、自分の肉体の中から燃え上がってくる暴力の欲望をおさえきれない。でも、実際に手を下すわけではない。殴るとか、蹴るとか、という直接的な暴力をふるわない。だから見えにくく、醜い。(醜いは、見にくい=見えにくい、から派生したことばか、と思ってしまう。)強制更生のときつかわれたベートーベンの第九がマルコム・マクダウェルを苦しめると知って、音楽を大音響で鳴らすのだ。これは、愉悦なのか、苦痛なのか、よくわからないまま私の肉体の中に入り込む。マルコム・マクダウェルが苦しんでいるだろうと想像する作家の、手を下さない暴力の残忍さに、不思議な快感を覚える。醜さに、こころをひっかきまわされる快感というものもあるのだ。
さらに、さらに。
強制更生プログラムを指示した閣僚が、第九に苦しみ自殺しようとしたマルコム・マクダウェルを尋ねてくる。そして、マルコム・マクダウェルに、強制更生プログラムのせいで政権が倒れないように協力してくれ、と申し込む。これも非常に醜い。権力にしかできない「暴力」の醜さがある。なんだか、すっごくご都合主義な政治がらみの暴力に、しかし、マルコム・マクダウェルはどうも協力するらしいのである。協力しながらどんな形で復讐するのか、それは描かれていないのだが、何を思っているのかわからない不気味さのまま映画が終わる。この暴力性にも、なんだか圧倒される。暴力がこんなに醜くていいのか、と思ってしまう、と言えばいいのか。
でも、これは正直な「最後の感想」ではない。
約三〇年ぶりに見直してみて、「あれっ、最後は、こうだっけ?」と、私は実は驚いたのである。私は、「強制更生」から復活し、元の暴力的な少年にもどったマルコム・マクダウェルが街で暴力をふるっている(あるいは、仲間を連れ歩いている)シーンが最後にあったように記憶している。その最後の幻のシーンは、三〇年前の私の欲望だったのか。その欲望を私はいまでも覚えているのか、ということにも驚いたといいなおすこともできる。私は「美しい暴力」が、人間らしい「肉体」をつかった暴力が復活してくることを祈りたい気持ちなのである。
今回見た映画の「結末」に、私は驚いた、とも言える。私の三〇年、何があったのかなあ、とも思ったりした。
そして、最後に。
この三〇年でいちばん変わったのは「性」の描写である。最初に書いた暴力バレエの前には、対立グループの女性をレイプするシーンがあるのだが、そのとき女性の性器(陰毛)が映る。三〇年前は、ぼかしというか、引っかき傷が入っていて見えなかったものが見えるようになっている。作家の家でのレイプも同じだ。日本での「性描写」の許容範囲は、そこまで広がってきた、ということになる。
そういうことを思いながら、では、「暴力」に対する感覚はどれくらい変化しただろうか、と考えるとなかなかむずかしい。
と書いて。
なんだか、まだ書き漏らしたことがある、と私は思う。まだ書きやめるな、と私のなかの誰かが言っている声がする。
だから、ちょっと映画からずれるが、書いておく。
私は先日「ジョーカー」を見ながら、最近の「嫌韓のうねり」を思い出していた。「嫌韓派」の中心に「ジョーカー」はまだ存在していない。「嫌韓派」の動きは、何か自分の中に鬱積しているものを吐き出したいという欲望だけで成り立っている感じがする。行動の基準は「嫌韓」というだけである。「ジョーカー」はほかにいる。それは、もう誕生しているとも感じる。この「ジョーカー」は世間にあふれる「嫌韓派」のなかにではなく、外にいるという感じが、非常に、嫌韓派のひとたちのことばを醜くしている。
そういうことをいちばん感じるのは、嫌韓派のひとたちが韓国人の行動や韓国政府の行動を批判する一方、「平和憲法では日本は守れない。中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してきたらどうするのか」と主張することである。戦争を抑止するためには核武装が必要だという人までいる。
この「論法」になぜ醜さを感じるか。「幼い」からである。
戦争が実際にあったとき、いちばんの武器は「拳銃」とか「戦車」とかではない。「土地」である。どこまで「占領」しているか。つまり、「陣地」はどこまでか。「領土」が問題になる。土地があれば、そこに「基地」をつくれる。戦争の拠点である。だからこそ、ロシアは北方四島を日本に返そうとしない。中国は尖閣諸島を中国の領土だと主張する。
そのことを考えるなら、中国、北朝鮮、ロシアが日本を攻撃してくるとき、韓国は、その「前線基地」をになうことになる。中国も北朝鮮もロシアも、まず陸続きである韓国を支配し、そこを足場に日本への攻撃をしかけるだろう。逆に言えば、韓国が韓国として成立しているかぎり、日本の脅威はずいぶん弱まる。これはアメリカの世界戦略とも関係している。アメリカが米韓同盟を結んでいるのは、そのためだ。韓国に米軍が基地を持っているかぎり、中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。同じように、韓国に米軍があるかぎり、米軍は中国、北朝鮮、ロシアを牽制できる。その結果として日本は危険を回避できる。韓国は日本にとってもとても重要なのだ。嫌韓などと言っていたら、言うだけ中国、北朝鮮、ロシアからの「脅威」は強くなる。それに気づかずに、嫌韓派のひとたちは安倍の「嫌韓」というかアジア蔑視に利用されている。そこに「無知の醜さ」を感じるのだ。
だれの中にも「暴力性」はあると思うが、その「暴力性」を権力に利用されている。それに気づかないというのは、暴力の醜さ以上に、もっと醜いものを持っている。あるいは考えない人間の醜さを利用して、嫌韓をあおる権力の智恵の醜さにぞっとするといえばいいのか。実際に手を下さない醜い暴力(見えにくい暴力)が絡み合って、醜さを増幅させている。
「時計じかけのオレンジ」の奇妙な終わり方を見て、ふいに、そういうことを思ったのだ。もし私が三〇年前に見た「幻のラストシーン」だったら、そういうことは思わなかったかもしれない。暴力がはっきり目に見えるものだったら、こんなことは感じなかったかもしれない。
個人の暴力を利用して、権力は動いている、権力はいつでも個人を利用するだけだというようなことを考えてしまうのである。安倍はきっというだろう。「私は嫌韓派ではない。しかし多くの人が韓国を嫌っている。私は多数派に従ったのだ」と言って逃げるのだ。「私ではなく、官僚が勝手にしたことだ。私は知らない」という醜い手法だ。安倍の手法は、いつでも醜さだけで成り立っている。
ここまで書いて、私はあらためて「ジョーカー」の悪の美しさを思い出すのだ。ジョーカーは、明確な個人である。個人が、個人をないがしろにする社会に対して怒り、暴力を生きる。それは美しい。自分自身の「悲しみ」を出発点としているからだ。
しかし、権力の暴力は醜い。安倍は、せいぜいが「民主党政権時代、自分への企業献金が少なかった」という国民とには無縁の「悲しみ」しか持っていない。憲法を改正して、戦争をしてみたいという「欲望」しかもっていない。なぜ、戦争をしたいか。戦争になれば、みんな戦争を指揮する人間に従わないと生きていけないからである。独裁と戦争は一体になっている。こんな安倍に「嫌韓派」のひとたちは、あおられている。
あおる方も、あおられる方も、醜い。
(2019年10月07日、中洲大洋スクリーン2)