詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「表現の自由」その後

2019-10-25 22:12:25 | 自民党憲法改正草案を読む
「表現の自由」その後
             自民党憲法改正草案を読む/番外298 (情報の読み方)

 朝日新聞ブルデジタル版が、映画「主戦場」をめぐる記事を書いている。( 2019年10月24日20時51分、https://www.asahi.com/articles/ASMBS3RSXMBSUTIL010.html?fbclid=IwAR2JKWuYRjsDH2 _6bMNUsZ3dDdxMmpti _h7sodImGMS18jGtpdyvz3ck3dI)

慰安婦問題扱った映画、川崎市共催の映画祭で上映中止に

 という見出しの記事だ。
 以下はきのう10月24日にフェイスブックで書いたもの。ブログに転写し損ねたので、きょう転写しておく。

川崎市市民文化振興室の田中智子・映像のまち推進担当課長によると、提訴の件を主催者から知らされ、市役所内で検討の上で「裁判になっているようなものを上映するのはどうか」と主催者側に伝えたという。田中氏は「上映に介入したつもりはない。懸念を伝え、最終的には主催者が決定したものだ」と話した。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
 いちばん問題にしたいのは「介入したつもりはない」と「最終的には主催者が決定したものだ」という田中の言い方である。
 これは、頭のいいやくざの恐喝の方法と同じである。
 「お金を要求したことはない。最終的に金をはらうと言ったのは相手側であり、それは相手側の判断だ」
 誰が判断したかではなく、その判断へ導く過程を問題にしないといけない。

 そして、これはまた別な方向から見ると、安倍のやっていることと同じ種類の「導き方」と「言い逃れ」である。
 森友学園への土地売却、加計学園の設置認可。
 安倍は自分では何も関与していないという。「だれか」が勝手に安倍の意向を「忖度」した。判断は「部下」がやった。「当事者」がやった。安倍は何も悪いことはしていない。

 上に行くほど、「私は関与していない」「部下が自分の判断で行動した」と言い逃れる。
 これはすべて安倍が生み出した「言い逃れ」の方法である。

 「表現の自由」の現場にまで、こういう問題が押し寄せてきている。
 本来、行政は「表現の自由」を守る側に立たないといけない。
 法的に訴えられる可能性があるので、商業施設( 映画館) での上映は難しい。しかし、法の決着がついていないなら( 有罪と決まっていないのなら) 、つまり「推定無罪」と言える状況なら、「表現の自由」を守らないといけない。
 行政が守らないと、だれも守ってくれない。「弱者」を守るためにこそ、行政はあるのだ。
 公共施設は、行政のものではない。それを利用する市民( 国民) すのべのものである。すべての人間が利用できるものでなくてはならない。
 ある意見を持っているひとが「反対」といえば、それだけで施設がつかえなくなるという前例はでてきしまい、これがこれからどんどん広がっていく。

 とても危険なことである。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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江代充『切抜帳』

2019-10-25 10:36:42 | 詩集
切抜帳
江代 充
思潮社


江代充『切抜帳』(3)(現代短歌社、2019年09月30日発行)

 また、江代充『切抜帳』にもどってみる。「思い出す」について考えてみる。
 「天使の詩」は、セッター犬と人間を描いている。

気持ちは飼い主のほうへ途切れるらしく
途中から小走りに走りながら
四つ足から後ろ足で立ち上がっては躍動し
まだかなり離れた人体のほうへ
その前足を持たせ掛けようとする
のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を
かれが街なかでしばらくの間見続けるのは
この時の犬の動静に心うばわれ
そこから僅かな力を感じたからかも知れない

 「飼い主」は「人体」と言い換えられることで「客観的」な風景(情景)になる。犬の後ろ足はまだ地面に残っている。前足は宙に浮いて飼い主の方に向かっている。その様子が、「人体」ということばによって、一枚の写真のように固定してしまう。固定してしまうけれど、そこに引きつけられるのは、犬の「肉体」の動きの中に「力」の移動があるからだ。「力の移動」に、この「風景(情景)」を見ているひと(書かれていない主語としての私/江代)の「肉体」が重なるからである。「犬の動静に心うばわれ/そこから僅かな力を感じたからかも知れない」は、そういう「意味」だろう。
 問題は、それが最初に犬を見たときに感じたことではないということだ。

のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を

 この一行の中にある「のちに」と「違い」ということばが、非常に繊細で美しい。ここに江代の特徴の一つがある。
 「のちに」ということばは「以前」と呼応する。つまり、ここでは明記されていない私が「以前」を思い出している。そして、「思い出」と「いま」とを比較して「違い」があることを発見する。同じ犬ではない。「色違い」の犬である。その「違い」の発見は、しかし、「同じ」を思い出させるための「補色」、あるいは「誘い水」のようなものである。
 何が同じなのか。
 犬が飼い主の(人体/肉体)方に、犬自身の「肉体」を「持たせ掛けようとする」動きだ。飼い主に向かって走ってる。そういう「力」が犬の動きの中に感じられる。それが「同じ」なのだ。
 この「思い出し方」が、きのう読んだ作田教子『胞衣』の「思い出す」とは違う。
 作田はあくまで「同じもの」を「思い出す」。そして、「同じ」をそのまま「いつでも、どこでも」という形にしてしまう。そして、「思い出す」ということ、それが「思い出」であることを強調しない。当然である。作田にとっては、「過去」はない。「永遠」があるだけだからだ。
 けれど江代は違う。「のちに」ということば、「時間の差(時間の違い)」を明確にした上で、「思い出している」という人間の運動を明確に書き記す。「いま、ここ」があると同時に「かつて、どこか、何か」が存在する。それを共存させることが「思い出す」ということである。「いま、ここ」と「かつて、どこか」が二重になる。その「二重」をつなぎとめるもの、つまり何かが「動き(力の移動)」である
 江代の詩は、つねに「移動」を含むが(視点が移動することによって、「物語」が変化していくが)、それは「いま、ここ」と「かつて、どこか」を「二重化」する運動(力)として江代が「存在している」ということを意味する。
 これは、だから、とても微妙な問題を浮かび上がらせることになる。

かれが街なかでしばらくの間見続けるのは

 このふいに登場する「かれ」とは誰なのか。たぶん最初に描かれている「飼い主」だろう。「かれ」はいまは犬を飼っていない。けれど街で犬を見かける。その犬はかつて彼が飼っていた犬のように、飼い主の肉体の方へ全身を預けようとしている。ああ、犬とは、こんなふうに飼い主を信頼するものなのか。
 だが、ほんとうか。
 最初の犬の動き(飼い主へ向かって走る姿)を見たのは、「書かれていない私/江代」ではないのか。江代は、同じ飼い主が別の犬を飼っているのを再び見ただけかもしれない。いや、書かれていなかった主人公が登場してきて、昔見たのと同じ情景(かつての飼い主は、かつての犬とは違った犬と遊んでいる)を見ている考える方が「かれ」ということばと自然につながるかもしれない。
 けれども、私は、「かれ」を「あのときの飼い主」と思いたいのである。飼い主が「かつての情景」を思い出し、その思い出すという行為のなかで、自分自身を「客観化」している。
 「客観としての思い出」。
 たぶん、それが作田との違いだ。作田は「主観」としての「思い出」を書く。江代は「主観としての思い出」を書くのではなく「客観としての思い出」を書く。だから、いつでも「抒情」とは違ったものがそこに入ってきてしまう。「主観」を拒んだような何かが入り込み、「思い出」の細部に「エッジ」のようなもの、「違和感」をまといつかせる。
 「人体」「動静」「僅かな力」ということばが、その「エッジ」をつくっている。「僅かな」も「力」も日常的につかうので「エッジ」という感じはしないかもしれないが、「僅かな」という修飾語で「力」のありようを限定し、細部に意識を向けさせている(強制している)部分が「エッジ」を感じさせる。
 そしてこの「客観としての思い出」を江代(この詩には書かれていない「私」という主語)と「かれ」が共有する。共有されることで「永遠」になり、その「永遠」に読者も巻き込まれていく。
 「客観」なのに「主観」のように複雑、あるいは「主観」なのに「客観」のように複雑に入り組んでいる(折れ曲がっている)のが江代のことばの動きなのだ。




*

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