切抜帳 | |
江代 充 | |
思潮社 |
江代充『切抜帳』(2)(思潮社、2019年09月30日発行)
江代充『切抜帳』の叙事詩的抒情詩について書こうと思い、その過程で少し寄り道(脇道)をしたら、何が書きたかったのか、わからなくなった。わからなくなったのは、ほかに書きたいことが出てきたということでもある。
きのう読んだ生田亜々子『戻れない旅』は歌集である。魅力的な短歌というのは、「うねり」がある。俳句だとあまりに短くて「うねり」を抱え込む余裕がないが、短歌には「うねり」がある。「意味」のうねりと「音」のうねり。
乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある
この生田の短歌には「意味」のうねりというか、動きがある。「音」は、信じ「たい」、測ら「ない」、つ「かり」おり、「から」、は「から」ない、水深「がある」のなかに響きあうもの、うねりへつながっていくものを感じるが、「うねり」とまでは言えない。私の感覚では。「音」の好みは、「意味」の好み以上に「肉体的」なのものだから、ほかのひとはまた違った印象を持つかもしれないが。(生田の短歌には、もっと「暗い」うねりの方がいいかも、と私は感じる。たとえば、歌集一首目の「潮上がり来る」ではなく、「潮上り来る」という音の方が……。)
この生田の「音のうねり」に比べると、江代の方が、「ぬるぬる」としていてつかみどころがない。そこに「音の肉体」を感じる。「音」が生きてきた「時間」を感じてしまう。「意味」もうねっているのだが、意識されない部分で「音」もうねっていて、それが「意味」を「ぬるぬる」させている。
「ヴィオラ」の書き出し。
ここへ徒歩で来て川原の石をつたい
粗い盲壁のような土手の傾斜を見上げながら
かつてここにあったこの通りのことを
新来のようにし
わたしはふたたび語ろうとしていた
繰り返される「の」によって、視線が先へ先へと押し進められていく。「の」の前のことばには決して戻らないという運動がある。「川原」から「の」を経由して「石」に視線の焦点が動く。「土手」から「の」を「経由」して「傾斜」に焦点が動く。途中に「の/ような」という比喩をつかったずらしがあり、「の/ように」というさらにずれていく。そういう動きといっしょに、「つたい」「みあげ(ながら)」「ようにし」と、終止形を避けて動詞が動く。それが絡み合って「うねり」をつくる。その「うねり」は「視線のうねり」であり「意味のうねり」なのだけれど、微妙な「音」の存在が「音のうねり」そのものとしてそこに存在しているの感じる。
私は音読をしない。黙読しかしないのだが、「意味」よりも、妙に「音」の方が「肉体」のなかに少しずつたまってきて、それが私の意識をゆさぶって動いていると感じる。こういうことはほとんど直感的なものであって、非論理的なものなのだけれど。つまり他人とは共有しにくいものだと思っているけれど、この他人とは共有できない何かをこそ書いておきたいと私は思っている。
さっきから長い間
川端の草むらとすがり合って
後日になってようやく見付けられ得るような
柔らかな野良着すがたの
何かの母と覚しいひとの身柄がそこに横たわり
このいつになったら「句点」があらわれてくるのかわからない文体。そこに、すがり合「って」、後日にな「って」という音の重なりがある。「ようやく見付けられ得るような」というもってまわった「もどかしい」音の連なりがある。それを引き継いで、ふたたび「の」を媒介とした視線の「ずらし」(突き動かし)が始まる。野良着すがた「の」、何か「の」、ひと「の」身柄。それが「横たわり」という中途半端なことばを経由して、こう展開していく。
そのうじの涌き出した白い仮面のような顔立ちをみとめると
よこに置かれた空の編み籠から
途上を縫って這い出してきた柄のある二匹の蛇が
曲がりくねった背負いの細い帯のようになって
その日同じ夕刻の
日差しのもとへ舞い降りてきていたと
末尾の「と」は最初に引用した部分の「わたしはふたたび語ろうとしていた」を受けている。「さっきから長い間」からつづく行は、すべて「語ろうとしていた」の「内容」になって引き返していく。うねりながらもどっていく。この「意味」の構造、「音」の構造が、きのう読んだ生田の短歌の影響(反作用?)で、まるで「和歌」のうねりのように聞こえてくる。響いてくる。肉体を刺戟する。やふこしくねじれているのに、古くからある古典的な「正しさ」をまとっている感じがする。それが美しい。
「うじ」とか「蛇」とか、あまり気持ちがいいとは言えない「もの/意味」が書かれているのだが、その印象よりも、私には「音」のうねり、文体の「うねり(ねじれ)」の方が美しさとして印象に残るのである。
山本育夫は自分の中にあるものを吐き出して健康になる、という感じでことばを動かしているが、江代のことばは奇妙な「うねり」を肉体の中に閉じ込めることで、「私の肉体は、こういう不健康さを抱え込むことができるほど健康・強靱である」と言っているようにも感じられる。
私は子どもの頃から虚弱体質で病気ばかりしていたせいか、こういう「強靱さ」に触れると、どうしていいかわからなくなる。その強靱さが、怖いものとして迫ってくるのを感じてしまう。
「抒情詩」とも「叙事詩」とは関係ないことを書いたが、きょう考えたのは、そういうことだ。
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