トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)
監督 トッド・フィリップス 出演 ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ
間違いなく2019年のベスト1。ここ数年のなかでもベスト1になる作品。
映画は映像と音楽だが、その両方に圧倒される。
映像は、色彩計画がすばらしい。ホアキン・フェニックスのダークな髪(映画では、さらにダークになるように染めているようだが)と目にあうように、街全体が黒をひそませた色でできている。つかいこまれて、生活が積み重なった黒い陰り。ゴミ袋の黒は当然といえば当然の黒だが、黒にも光を反射して輝く瞬間があるが、そういうことがないようにしっかりと黒の中に沈み込ませている。ホアキン・フェニックスが着るピエロの赤い服さえ、その赤には黒がまじっているのだろう、静かに全体の中に溶けこんで行く。けっして浮き上がらない。「群集」の衣装にも浮いたところがひとつもない。
街の風景では、何度かホアキン・フェニックスが昇り降りする長い石の階段がとても魅力的だ。新しさというものが全然ない。それに合わせるように街全体にも新しさがない。高層ビルがあってもひたすら古い。車が走るトンネルの「距離感」も、とてもすばらしい。閉塞感に満ちている。室内の調度も同じだ。新しくすることもできず、ただつかってきたという感じだけが、ぐいと迫ってくる。
これを別なことばで言いなおすと、すべての存在が「過去」を持って、「いま」「ここ」にある、という感じだ。
「音」も同じ。「音楽」になれずに、うごめいてるノイズ。あまりにも長い間、そこでノイズであり続けたために、もう「肉体」のなかにしみこんでしまっている。まるで「肉体」からもれだしてきたようなノイズ。いや、もともとノイズというようなものは、「外の世界」にはなくて、「音楽」が「肉体」を通り抜けていくときに、「音楽」になりきれずに残して行った「傷」がもらしてしまう「うめき声」のようなものか。この暗さが、画面の、暗いけれど、しっかり自己主張する色彩と非常によくあっている。
さらにホアキン・フェニックスの「肉体の暗さ」がすごい。顔(表情)の演技もすばらしいが、痩せた上半身の、背中の、正面からの、脇腹の、いや、骨が浮きでるような、うねるような「暗さ」に思わず吸いよせられてしまう。「健康」というものを少しも感じさせない。こういう言い方がいいとは思わないが、「奇形」の強い歪みを秘めている。生々しいいのちが、生々しいままうごめいている。触りたくない、近づきたくない。もし近づくことがあるなら、この映画に何度もあるように、殴る、蹴る、という暴力の捌け口として接触することになるだろう。そう、思わず、殴ってしまいたいような怖さがある。蛇を見たときの怖さのような。だから殴る、といっても手で殴るのではなく棒か何かで殴ることになる。そういう不気味さがあるためか、ホアキン・フェニックスが殴られる瞬間というのは、何というか、うーん、よく殴ったなあ、殴った奴は偉い、という感じさえするのである。よっぽど怒りがこもらないと、ホアキン・フェニックスを殴ることはできない。(蹴る、というのは、これとは少し違う。)
で、この殴られたときの痛み、怨念みたいなものが、ホアキン・フェニックスの「肉体」にとどまるのではなく、「街」全体の中にしみこんでいくような感じがまたすごい。こういうことを感じさせるのは、やはり「色彩計画」が完璧なのだと思う。ホアキン・フェニックスの目の色が何度もかわる。狂気を秘めて、悲しみに沈む。ああ、この色はきっと街のどこかを映している、この色と街はどこかで完全につながっている、と感じさせるのである。
しかし、ストーリーの山場の、ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロのシーンは、あまりよくない。「ことば」が説明しすぎるからかもしれない。ロバート・デ・ニーロの「形だけの演技」と組み合わさったとき、ホアキン・フェニックスの「肉体の過去」がうまく動かない。ロバート・デ・ニーロの「過去」が噴出して来ないので、二人がいることによって生まれるはずの「化学反応」のような変化が不発に終わっている。テレビ放映中の殺人という、生々しいはずのものが、妙に紙芝居みたいに見えてしまう。ロバート・デ・ニーロは損な役回りなのだけれど、損な役だけに、もっとしっかり演じればとても目立つのになあ。ホアキン・フェニックスに圧倒されて、演技するのをあきらめたのかもしれない。
でも、まあ、そのロバート・デ・ニーロの傷を抱え込むことで、他の部分がいっそうすばらしく感じられるのだから、これはこれでいいか。
(2019年10月04日、ユナイテッドシネマももち、スクリーン9)
監督 トッド・フィリップス 出演 ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ
間違いなく2019年のベスト1。ここ数年のなかでもベスト1になる作品。
映画は映像と音楽だが、その両方に圧倒される。
映像は、色彩計画がすばらしい。ホアキン・フェニックスのダークな髪(映画では、さらにダークになるように染めているようだが)と目にあうように、街全体が黒をひそませた色でできている。つかいこまれて、生活が積み重なった黒い陰り。ゴミ袋の黒は当然といえば当然の黒だが、黒にも光を反射して輝く瞬間があるが、そういうことがないようにしっかりと黒の中に沈み込ませている。ホアキン・フェニックスが着るピエロの赤い服さえ、その赤には黒がまじっているのだろう、静かに全体の中に溶けこんで行く。けっして浮き上がらない。「群集」の衣装にも浮いたところがひとつもない。
街の風景では、何度かホアキン・フェニックスが昇り降りする長い石の階段がとても魅力的だ。新しさというものが全然ない。それに合わせるように街全体にも新しさがない。高層ビルがあってもひたすら古い。車が走るトンネルの「距離感」も、とてもすばらしい。閉塞感に満ちている。室内の調度も同じだ。新しくすることもできず、ただつかってきたという感じだけが、ぐいと迫ってくる。
これを別なことばで言いなおすと、すべての存在が「過去」を持って、「いま」「ここ」にある、という感じだ。
「音」も同じ。「音楽」になれずに、うごめいてるノイズ。あまりにも長い間、そこでノイズであり続けたために、もう「肉体」のなかにしみこんでしまっている。まるで「肉体」からもれだしてきたようなノイズ。いや、もともとノイズというようなものは、「外の世界」にはなくて、「音楽」が「肉体」を通り抜けていくときに、「音楽」になりきれずに残して行った「傷」がもらしてしまう「うめき声」のようなものか。この暗さが、画面の、暗いけれど、しっかり自己主張する色彩と非常によくあっている。
さらにホアキン・フェニックスの「肉体の暗さ」がすごい。顔(表情)の演技もすばらしいが、痩せた上半身の、背中の、正面からの、脇腹の、いや、骨が浮きでるような、うねるような「暗さ」に思わず吸いよせられてしまう。「健康」というものを少しも感じさせない。こういう言い方がいいとは思わないが、「奇形」の強い歪みを秘めている。生々しいいのちが、生々しいままうごめいている。触りたくない、近づきたくない。もし近づくことがあるなら、この映画に何度もあるように、殴る、蹴る、という暴力の捌け口として接触することになるだろう。そう、思わず、殴ってしまいたいような怖さがある。蛇を見たときの怖さのような。だから殴る、といっても手で殴るのではなく棒か何かで殴ることになる。そういう不気味さがあるためか、ホアキン・フェニックスが殴られる瞬間というのは、何というか、うーん、よく殴ったなあ、殴った奴は偉い、という感じさえするのである。よっぽど怒りがこもらないと、ホアキン・フェニックスを殴ることはできない。(蹴る、というのは、これとは少し違う。)
で、この殴られたときの痛み、怨念みたいなものが、ホアキン・フェニックスの「肉体」にとどまるのではなく、「街」全体の中にしみこんでいくような感じがまたすごい。こういうことを感じさせるのは、やはり「色彩計画」が完璧なのだと思う。ホアキン・フェニックスの目の色が何度もかわる。狂気を秘めて、悲しみに沈む。ああ、この色はきっと街のどこかを映している、この色と街はどこかで完全につながっている、と感じさせるのである。
しかし、ストーリーの山場の、ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロのシーンは、あまりよくない。「ことば」が説明しすぎるからかもしれない。ロバート・デ・ニーロの「形だけの演技」と組み合わさったとき、ホアキン・フェニックスの「肉体の過去」がうまく動かない。ロバート・デ・ニーロの「過去」が噴出して来ないので、二人がいることによって生まれるはずの「化学反応」のような変化が不発に終わっている。テレビ放映中の殺人という、生々しいはずのものが、妙に紙芝居みたいに見えてしまう。ロバート・デ・ニーロは損な役回りなのだけれど、損な役だけに、もっとしっかり演じればとても目立つのになあ。ホアキン・フェニックスに圧倒されて、演技するのをあきらめたのかもしれない。
でも、まあ、そのロバート・デ・ニーロの傷を抱え込むことで、他の部分がいっそうすばらしく感じられるのだから、これはこれでいいか。
(2019年10月04日、ユナイテッドシネマももち、スクリーン9)