詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

2019-10-04 19:24:47 | 映画
トッド・フィリップス監督「ジョーカー」(★★★★★)

監督 トッド・フィリップス 出演 ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ

 間違いなく2019年のベスト1。ここ数年のなかでもベスト1になる作品。
 映画は映像と音楽だが、その両方に圧倒される。
 映像は、色彩計画がすばらしい。ホアキン・フェニックスのダークな髪(映画では、さらにダークになるように染めているようだが)と目にあうように、街全体が黒をひそませた色でできている。つかいこまれて、生活が積み重なった黒い陰り。ゴミ袋の黒は当然といえば当然の黒だが、黒にも光を反射して輝く瞬間があるが、そういうことがないようにしっかりと黒の中に沈み込ませている。ホアキン・フェニックスが着るピエロの赤い服さえ、その赤には黒がまじっているのだろう、静かに全体の中に溶けこんで行く。けっして浮き上がらない。「群集」の衣装にも浮いたところがひとつもない。
 街の風景では、何度かホアキン・フェニックスが昇り降りする長い石の階段がとても魅力的だ。新しさというものが全然ない。それに合わせるように街全体にも新しさがない。高層ビルがあってもひたすら古い。車が走るトンネルの「距離感」も、とてもすばらしい。閉塞感に満ちている。室内の調度も同じだ。新しくすることもできず、ただつかってきたという感じだけが、ぐいと迫ってくる。
 これを別なことばで言いなおすと、すべての存在が「過去」を持って、「いま」「ここ」にある、という感じだ。
 「音」も同じ。「音楽」になれずに、うごめいてるノイズ。あまりにも長い間、そこでノイズであり続けたために、もう「肉体」のなかにしみこんでしまっている。まるで「肉体」からもれだしてきたようなノイズ。いや、もともとノイズというようなものは、「外の世界」にはなくて、「音楽」が「肉体」を通り抜けていくときに、「音楽」になりきれずに残して行った「傷」がもらしてしまう「うめき声」のようなものか。この暗さが、画面の、暗いけれど、しっかり自己主張する色彩と非常によくあっている。
 さらにホアキン・フェニックスの「肉体の暗さ」がすごい。顔(表情)の演技もすばらしいが、痩せた上半身の、背中の、正面からの、脇腹の、いや、骨が浮きでるような、うねるような「暗さ」に思わず吸いよせられてしまう。「健康」というものを少しも感じさせない。こういう言い方がいいとは思わないが、「奇形」の強い歪みを秘めている。生々しいいのちが、生々しいままうごめいている。触りたくない、近づきたくない。もし近づくことがあるなら、この映画に何度もあるように、殴る、蹴る、という暴力の捌け口として接触することになるだろう。そう、思わず、殴ってしまいたいような怖さがある。蛇を見たときの怖さのような。だから殴る、といっても手で殴るのではなく棒か何かで殴ることになる。そういう不気味さがあるためか、ホアキン・フェニックスが殴られる瞬間というのは、何というか、うーん、よく殴ったなあ、殴った奴は偉い、という感じさえするのである。よっぽど怒りがこもらないと、ホアキン・フェニックスを殴ることはできない。(蹴る、というのは、これとは少し違う。)
 で、この殴られたときの痛み、怨念みたいなものが、ホアキン・フェニックスの「肉体」にとどまるのではなく、「街」全体の中にしみこんでいくような感じがまたすごい。こういうことを感じさせるのは、やはり「色彩計画」が完璧なのだと思う。ホアキン・フェニックスの目の色が何度もかわる。狂気を秘めて、悲しみに沈む。ああ、この色はきっと街のどこかを映している、この色と街はどこかで完全につながっている、と感じさせるのである。
 しかし、ストーリーの山場の、ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロのシーンは、あまりよくない。「ことば」が説明しすぎるからかもしれない。ロバート・デ・ニーロの「形だけの演技」と組み合わさったとき、ホアキン・フェニックスの「肉体の過去」がうまく動かない。ロバート・デ・ニーロの「過去」が噴出して来ないので、二人がいることによって生まれるはずの「化学反応」のような変化が不発に終わっている。テレビ放映中の殺人という、生々しいはずのものが、妙に紙芝居みたいに見えてしまう。ロバート・デ・ニーロは損な役回りなのだけれど、損な役だけに、もっとしっかり演じればとても目立つのになあ。ホアキン・フェニックスに圧倒されて、演技するのをあきらめたのかもしれない。
 でも、まあ、そのロバート・デ・ニーロの傷を抱え込むことで、他の部分がいっそうすばらしく感じられるのだから、これはこれでいいか。
(2019年10月04日、ユナイテッドシネマももち、スクリーン9)
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河野妙子『クロノスとカイロス』

2019-10-04 09:56:42 | 詩集
詩集 クロノスとカイロス
河野妙子
書肆侃侃房
河野妙子『クロノスとカイロス』(書肆侃侃房、2019年08月08日発行)

 河野妙子『クロノスとカイロス』の巻頭の「ちょっと」。

ちょっとは一寸、小さいけれど
十倍するといっしゃくで、その六倍はいっけんです
いっけんの真四角には畳が二枚も入ります
ひとつぼです 一寸 一尺 一間 一坪
それがわかると、ちょっとばかにはできません

「いっすんの虫にもごぶの魂」
ひとつぼあれば 魂はいくつはいるのでしょうか

両手をせいいっぱいにひろげ
はるをまつこのごろです

 算数(数学)というか、論理をきちんと追った詩である。ことばが論理のなかでととのえられている。
 この詩で私が注目したのが、「わかる」という動詞。

それがわかると、ちょっとばかにはできません

 「わかる」はすぐに「ばかにできない」にかわっていく。この「ばかにできない」とは、どういうことか。「わからない」ということである。
 河野は、こう言いなおしている。

「いっすんの虫にもごぶの魂」
ひとつぼあれば 魂はいくつはいるのでしょうか

 これは、計算すれば「答え」が出せるかもしれない。でも、「答え」を出す必要はない。もし質問すれば、「すぐには答えられないくらい、いっぱいある」という「答えにならない答え」がすぐに返ってくる。そういうことは、「わかる」。直感的に「わかる」。
 私は、こういうことを「肉体でわかる」という。つまり、その人の「思想で、わかる」のである。こういう「答え」に間違いはない。




*

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