詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田文憲「残身の声」

2019-10-11 10:22:24 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残身の声」(「イリプスⅡnd」28、2019年07月10日発行)

 吉田文憲「残身の声」は「抒情詩」と呼べるかどうか。きのう読んだ井上瑞貴「白い花はすべての光を反射する」に「私は記憶」ということばがあった。「記憶」は吉田の詩にも登場する。

飛燕草の記憶。

 この一語を取り出して云々するのは詩の感想を書くことにならないかもしれないが、私は、あえてこの一語を取り出して考えていることを書き始める。
 「飛燕草の記憶。」と書くとき、吉田は「記憶」をだれのものとして書いているのか。吉田が飛燕草を見た記憶、つまり「吉田(わたし)の記憶」なのか。それとも「飛燕草自身の記憶(どうやって芽を出し、花を咲かせたかという記憶)」なのか。
 こういうことはむずかしく考える必要はない。たいていの場合、前者である。後者の場合は、もっと「わざとらしい」文体になる。
 そうはわかっていても、私は、ふいに前者である、と考えたい衝動にかられる。前者の考え方は不自然だが、不自然だからこそ、ことばがその不自然につられて動きたがるのである。違うものに触れたい、という欲望がことばのなかで動く。
 こういう衝動が、私には非常に強くて、それが「抒情詩」というものを「分類」するときに働いていることを自覚しないではいられない。なんらかの「不自然なことばの操作」。この「不自然」を「頭による操作」と言い換えてもいい。
 ふつうなら(自然なら)ありえないことを、「頭」で動かす。つまり「自然」を、「頭」で切断し、さらに「接続」する。このときの「不自然な刺戟」のなかに「抒情詩」があると、私は感じる。
 と、書くとますます抽象的になってしまうが。
 「飛燕草の記憶。」は「作者(わたし/吉田)」の「飛燕草を見た記憶」であり、そこには「わたし(吉田)」が隠れているのだが、私は隠れている「わたし(吉田)」、あえて隠したままにしておく。むしろ、表に出てこないように押さえつけながら、それからつづく「もの(わたし以外の存在)」の運動、つまり「叙事詩」として読み続ける。

飛燕草の記憶。銀色のひれが空中で跳ねた。樹陰にエンジンをかけ
たままのライトバンが停っていた。家が白みはじめた記憶。レコー
ドのカートリッジが閃くフォークの切尖にみえた。それから耳に四
声のフーガが流れた。おまえは重ね棚の上に並べられた乾涸びた果
実を一つ手に取っていた。そこに同時に別の陰を運んでいるものが
いたのだ。残身が通ったあとの音域。テーブルの器に張られた水の
いつまでも続く小刻みな波紋。氷雨が窓ガラスを散弾のように叩き
続けた。

 「みえた」(見える)という動詞がつかわれている。「みた」ではなく「みえた」。ここには「意思性」がない。「わたし(吉田)」を隠している。存在しても「脇役」としての存在におしとどめている。これも「叙事」につながる。主役は「もの」(わたし以外の存在)なのである。
 おもしろいのは、この「みえる」という「主体」を感じさせることばは、その「主体性」を隠すようにして、つぎのことばを引き寄せている点である。
 「それから耳に四声のフーガが流れた。」は、もっと「肉体」になじむことばで言いなおさば「四声のフーガが聞こえた」だが、吉田は「聞く、聞こえる」というこ動詞を避けている。「肉体」、あるいは「人間の感覚(五感)」を隠し、あくまでも「主役」を「わたし(吉田)以外のもの(存在)」に譲り、その動きとして提示する。
 そして、そこに書かれているものが「わたし以外のものの動き」であるにもかかわらず、それをひとつづきのものにする視点がどこかに存在する。隠されたまま存在する、この不自然な「私性」。
 これが、たぶん、現代詩の「叙事詩」なのだ。

 そうであるなら。(というのは、とんでもない飛躍かもしれないが。)

 そうであるなら、きのう読んだ井上の詩と、きょうの吉田の詩を比較したときに、私が受ける「感動」の強さは何に支配されているか。何に影響されて、どちらの詩の方がおもしろいと感じるか。
 感じ方はひとそれぞれだから、私とは違う判断をするひとがいるだろうけれど、私には吉田の詩の方がおもしろい。
 なぜ、おもしろいと感じるのか。より「抒情性」がつよいと感じるのか。
 「抒情」ということばとはうらはらに、そこに書かれている「もの(わたし以外の存在)」が多くて、さらに、その接続さかげんが「ばらばら」だからである。「飛燕草」に接続するものが「銀色のひれ(川魚?)」である必然性はない。それに「ライトバン」の「エンジン」の音がつながらなければならない必然性もない。そこには隠された必然性、「わたし(吉田)」が「いる」ということだけなのだ。「わたし以外の存在」が多く登場すればするほど、そしてその存在と存在の距離が隔たっていればいるほど、「わたし(吉田)」が「いる」ということが明確になってくる。
 いま「明確になってくる」と書いたのだが、この「なってくる」という感じのなかにこそ「抒情」があるともいえる。ほんとうは私(谷内)が勝手に、それを「明確にさせる」のである。思い込むのである。勝手に「連続した世界」を想像し、その「世界」に入っていくだけなのである。「叙事」の世界へ「感情」が入ってゆき、吉田の「感情」を無視して自分(谷内)の感情をつくりだすとき、「誤読」するとき、詩が誕生する。

 「誤読」が「抒情」なのだ。いままで存在しなかった「誤読」を許してくれるのが「抒情」と言いなおすこともできる。


*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする