山本育夫「抒情病」十八編(「博物誌」41、2019年10月01日発行)
山本育夫「抒情病」十八編は、フェイスブックでタイトルを見かけ、とても気になっていた。「抒情」は病気か。と、書くと、とたんに「抒情病」という病気があるのか、という意識を破って「抒情が病気になっているのか」ということばが、私の「肉体」のどこかからか飛び出してくる。書くまでは、そんなことは一度も思ったことはないのに。
さて、どっちのことを山本は書こうとしているのか。いや、私は、どっちを読みたいと思っているのか。
「花鳥風月」が「抒情」か。それが「ことばに侵入してきたら」「手当てをする」。こういう「論理」で読み取れば、「抒情」という名の病気があり、それはことばにとっては「あぶない」病気ということになる。
そのあとも、同じ調子で読み進めることができる。「切開手術」をすると「情緒があふれ出す」。「抒情」は「情緒」と言いなおされている。「もうもう」というのは「抒情」とはとらえどころがないものだ、ということを意味しているかもしれない。とらえどころがないからこそ、「あぶない」。そして「魅了される」。「もうもう」はいつの間にか「匂い」にかわっている。「あぶない」は感染力の強さを語っていることになるが、一方的に病が襲ってくるのではなく、「ことば」の方も罠にかかったみたいに近づいていくということがあるのだろう。
考えるとめんどうくさいが、こういうめんどうくささをひきよせてしまうのが「抒情」の特徴の一つである。「抒情」は「感情」をあらわしているようで、意外と「ととのえられた感情(知性によって整理された何か)」を指し示している。「ととのえ方」が「情緒」であり、「知的」でなければ「抒情」ではない、のかもしれない。だから「抒情病」というのは、もしかすると「感情」ではなく「知性」の病なのかもしれない。あからさまな感情、むき出しの感情を「抒情」と呼ぶことはないからね。あるいは、こんな風に「分析」してしまう私が「抒情病/知性で世界をととのえようとする病」そのものにかかっているのかもしれないし。
問題は、そのあとだな。終わりの四行。
突然「菌類」ということばがあらわれる。同時に、ことばが大きく転換するのを感じる。「医者」が「医師」へとことばを変えていることからも、それがわかる。もっとも、この「医者」と「医師」の書きわけは、どこまで意識化されているか、疑問ではあるが。
「切開手術」をしたのは「抒情」を取り出すため。「抒情」を取り出したのは「ことば」の病気(抒情病)を治すため。がんを手術で取り出すようなものだ。がんならば、取り出した段階で、いったんは「治る」。でも「抒情病」は、それだけでは不十分である。あふれ出した「情緒」が「菌類」に届かなければ、治らない。
これって、かなり奇妙な「論理」である。
で、そう感じた瞬間、最初に書いたことが思い出される。「抒情病」は病気の名前なのか、それとも「抒情」が「病気」という状態なのか。「抒情」そのものが「病気」であり、それを治療するために「菌類」をふりかける。このとき「抒情」は「ことば」と同じ意味を持つ。
あれっ、そうすると、やっぱり「抒情」という名の病にかかっている「ことば」がなおるということにもどってしまう。
私は、どこで間違えたのか。どこから「迷路」に迷い込んだのか。
簡単だ。「論理」で詩を読み進めようとしたところから間違えている。「論理」をおいつづけたために「迷路」があらわれたのだ。
これは逆な言い方をすると、「論理」を追いかけていけば、ことばは「抒情病」に簡単につかまってしまうということだ。先に少し書いたが、「抒情病」というのは、やっぱり「感情の病気」ではなく「知性の病気」なのだ。
「知性」とは「ことば」とほぼ同じ意味でもある。「知性」は何かを明確にするために、ことばに圧力をかける。ことばが指し示しているものをありのままの状態ではなくしてしまう。「比喩」にしてしまう。
この詩には「抒情病」をはじめ、それにつらなるようにいくつもの「比喩」がある。「手術」が「抒情病」のふたつが組み合わさって、その組み合わせのなかに「手当て」とか「医者」を抱え込み、構造を明確にしながら、同時に複雑化する。迷路化する。
では、この「迷路」を抜け出すためにはどうすればいいか。蹴飛ばして、そんなものなどなかった、この作品は存在しない、ということにするしかない。禅問答のようだが。「考案」への禅僧の、ひとつの答え方のように。
でも、わたしはもう、ここまで書いてしまった。書いてしまったことは、たとえ全部削除したとしても、私の「肉体」のなかに残る。
だから、私は、それをかかえたまま、詩を読み続ける。
あ、これでは、まさに「考案」を蹴飛ばして席を立つ禅僧ではないか。「そんなものなど存在しない」。「無」だけがある。「無」が答えだ、というような。
「無」とは何か。あるがままの「自然」である。私は禅僧ではないから、テキトウなことを考える。「わかる」とは受け入れることである。何もつけくわえずに、それを受け入れる。
この詩には、そういう気持ち良さがある。禅僧の「悟り」とは、こういう感じかなあ。また、私はテキトウなことを書く。こういうとき、「無知」というのは都合がいいなあ、と自分のことながら感心してしまう。「禅」と向き合ったことがあるひとは、私のように簡単に(テキトウに)、こんなことは書けないだろうなあ。
ここにも「ことば」が出てくる。「ことば」が「対象」を指し示さず、「ことば」であること自体を問題にしている。
山本は、こういうことを「抒情病」と呼んでいるのかもしれない。
「ことば」は一義的に「もの」を指し示す。でも、「もの(存在)」を指し示さずに、「ことば」を動かしている「意識」そのものを指し示し、その指し示し方を問題にするというのが「抒情病(ととのえられてしまった感情)」である。これはもちろん「知性の病」である。「感情」は「感情」をととのえるとうめんどうくさいことをしない。「感情」は「感情」を暴走させるものである。
「ことばが/ほっこり猫のかたちになって」までは、まだ「比喩」である。しかし、それが「吹きこぼれている」は「比喩」を逸脱している。「吹きこぼれ」たなら、そこに形はない。形を超えていくことが「吹きこぼれる」だからである。でも、「ことば」はそういう「ありえない」ことを語る(書く)ことができる。「ありえない」は「無」なのか、それとも「無」を超えた「絶対有」なのか。その「絶対有」こそが「無」かもしれないし。と、私は、またまたテキトウな知ったかぶりを書く。私のことばは「知ったかぶり」が好きなのである。
ひとつ省略し、
「こと橋」は「ことば、し」であり、「ことば、士」である。「こと橋」には、「ことば」と「し」が隠れている。隠れながら、あらわれている。隠れているものを見るか、あらわれているものを隠すか。
前号の書き下ろし詩集「ごはん」のときは「ノイズ」について書いた。今回の詩は「ノイズ」とは逆のものが書かれている。「ノイズ」が「有」なら、今回書いているものは「無」だ。「論理」が論理的であろうとして、解体してしまう瞬間というものがある。それを素早いスケッチのように「放り出している」。山本はこの詩では「放り投げている」と書いているが。
で、ここまで書いて思うのだが、あれ、「抒情病」って、どこへ消えた?
たしかに最初の作品では「抒情」も「病」と登場したが、山本のことばは、それを患っているようには感じられない。
というような描写は「抒情」に似ているが、ぜんぜん違ったものだ。「響きわたる」が万葉のことばのように強い。古今、新古今のように「耳元」で聞かせる「音」ではない。ここには「健康」しかない。「抒情病」を蹴飛ばして生きているぞという宣言が「抒情病」ということばに込められているのかもしれない。
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山本育夫「抒情病」十八編は、フェイスブックでタイトルを見かけ、とても気になっていた。「抒情」は病気か。と、書くと、とたんに「抒情病」という病気があるのか、という意識を破って「抒情が病気になっているのか」ということばが、私の「肉体」のどこかからか飛び出してくる。書くまでは、そんなことは一度も思ったことはないのに。
さて、どっちのことを山本は書こうとしているのか。いや、私は、どっちを読みたいと思っているのか。
1 手術
(花鳥風月はあぶない
ことばに浸食してきたら
注意深く手当てをする)
かかりつけの医者は
声を潜ませてそういい
手術台にのせて
切開手術をはじめた
切り口からもうもうと
情緒があふれ出す
あぶないけど
魅了される匂いだ
「花鳥風月」が「抒情」か。それが「ことばに侵入してきたら」「手当てをする」。こういう「論理」で読み取れば、「抒情」という名の病気があり、それはことばにとっては「あぶない」病気ということになる。
そのあとも、同じ調子で読み進めることができる。「切開手術」をすると「情緒があふれ出す」。「抒情」は「情緒」と言いなおされている。「もうもう」というのは「抒情」とはとらえどころがないものだ、ということを意味しているかもしれない。とらえどころがないからこそ、「あぶない」。そして「魅了される」。「もうもう」はいつの間にか「匂い」にかわっている。「あぶない」は感染力の強さを語っていることになるが、一方的に病が襲ってくるのではなく、「ことば」の方も罠にかかったみたいに近づいていくということがあるのだろう。
考えるとめんどうくさいが、こういうめんどうくささをひきよせてしまうのが「抒情」の特徴の一つである。「抒情」は「感情」をあらわしているようで、意外と「ととのえられた感情(知性によって整理された何か)」を指し示している。「ととのえ方」が「情緒」であり、「知的」でなければ「抒情」ではない、のかもしれない。だから「抒情病」というのは、もしかすると「感情」ではなく「知性」の病なのかもしれない。あからさまな感情、むき出しの感情を「抒情」と呼ぶことはないからね。あるいは、こんな風に「分析」してしまう私が「抒情病/知性で世界をととのえようとする病」そのものにかかっているのかもしれないし。
問題は、そのあとだな。終わりの四行。
菌類まで届けば
抒情病はなおる
医師はそういって
ことばにそれをふりかける
突然「菌類」ということばがあらわれる。同時に、ことばが大きく転換するのを感じる。「医者」が「医師」へとことばを変えていることからも、それがわかる。もっとも、この「医者」と「医師」の書きわけは、どこまで意識化されているか、疑問ではあるが。
「切開手術」をしたのは「抒情」を取り出すため。「抒情」を取り出したのは「ことば」の病気(抒情病)を治すため。がんを手術で取り出すようなものだ。がんならば、取り出した段階で、いったんは「治る」。でも「抒情病」は、それだけでは不十分である。あふれ出した「情緒」が「菌類」に届かなければ、治らない。
これって、かなり奇妙な「論理」である。
で、そう感じた瞬間、最初に書いたことが思い出される。「抒情病」は病気の名前なのか、それとも「抒情」が「病気」という状態なのか。「抒情」そのものが「病気」であり、それを治療するために「菌類」をふりかける。このとき「抒情」は「ことば」と同じ意味を持つ。
あれっ、そうすると、やっぱり「抒情」という名の病にかかっている「ことば」がなおるということにもどってしまう。
私は、どこで間違えたのか。どこから「迷路」に迷い込んだのか。
簡単だ。「論理」で詩を読み進めようとしたところから間違えている。「論理」をおいつづけたために「迷路」があらわれたのだ。
これは逆な言い方をすると、「論理」を追いかけていけば、ことばは「抒情病」に簡単につかまってしまうということだ。先に少し書いたが、「抒情病」というのは、やっぱり「感情の病気」ではなく「知性の病気」なのだ。
「知性」とは「ことば」とほぼ同じ意味でもある。「知性」は何かを明確にするために、ことばに圧力をかける。ことばが指し示しているものをありのままの状態ではなくしてしまう。「比喩」にしてしまう。
この詩には「抒情病」をはじめ、それにつらなるようにいくつもの「比喩」がある。「手術」が「抒情病」のふたつが組み合わさって、その組み合わせのなかに「手当て」とか「医者」を抱え込み、構造を明確にしながら、同時に複雑化する。迷路化する。
では、この「迷路」を抜け出すためにはどうすればいいか。蹴飛ばして、そんなものなどなかった、この作品は存在しない、ということにするしかない。禅問答のようだが。「考案」への禅僧の、ひとつの答え方のように。
でも、わたしはもう、ここまで書いてしまった。書いてしまったことは、たとえ全部削除したとしても、私の「肉体」のなかに残る。
だから、私は、それをかかえたまま、詩を読み続ける。
2 声
ギシギシと
クルミのからを脱ぐように心を脱ぎ
長い髪が漂う空に
身を潜めている抒情!
巨大なそれを袋詰めにして
つぎつぎにパンパンと割っていく
あ、これでは、まさに「考案」を蹴飛ばして席を立つ禅僧ではないか。「そんなものなど存在しない」。「無」だけがある。「無」が答えだ、というような。
おおそれならわかる
それならわかると
遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる
「無」とは何か。あるがままの「自然」である。私は禅僧ではないから、テキトウなことを考える。「わかる」とは受け入れることである。何もつけくわえずに、それを受け入れる。
この詩には、そういう気持ち良さがある。禅僧の「悟り」とは、こういう感じかなあ。また、私はテキトウなことを書く。こういうとき、「無知」というのは都合がいいなあ、と自分のことながら感心してしまう。「禅」と向き合ったことがあるひとは、私のように簡単に(テキトウに)、こんなことは書けないだろうなあ。
3 猫とは
その朝
日だまりを見ると
驚いたことに
ことばが
ほっこり猫のかたちになって
吹きこぼれている
ここにも「ことば」が出てくる。「ことば」が「対象」を指し示さず、「ことば」であること自体を問題にしている。
山本は、こういうことを「抒情病」と呼んでいるのかもしれない。
「ことば」は一義的に「もの」を指し示す。でも、「もの(存在)」を指し示さずに、「ことば」を動かしている「意識」そのものを指し示し、その指し示し方を問題にするというのが「抒情病(ととのえられてしまった感情)」である。これはもちろん「知性の病」である。「感情」は「感情」をととのえるとうめんどうくさいことをしない。「感情」は「感情」を暴走させるものである。
「ことばが/ほっこり猫のかたちになって」までは、まだ「比喩」である。しかし、それが「吹きこぼれている」は「比喩」を逸脱している。「吹きこぼれ」たなら、そこに形はない。形を超えていくことが「吹きこぼれる」だからである。でも、「ことば」はそういう「ありえない」ことを語る(書く)ことができる。「ありえない」は「無」なのか、それとも「無」を超えた「絶対有」なのか。その「絶対有」こそが「無」かもしれないし。と、私は、またまたテキトウな知ったかぶりを書く。私のことばは「知ったかぶり」が好きなのである。
ひとつ省略し、
5 こと橋
その橋は危(あや)ういことばでつくられているから疑うと
崩れおちるおたがいをつなぎあわせていることばしことば士
という仕事をしている三大さんは毎日ことば練機でことば
をねっているそれをポケットに入れて明け方の路地に放り投
げている
「こと橋」は「ことば、し」であり、「ことば、士」である。「こと橋」には、「ことば」と「し」が隠れている。隠れながら、あらわれている。隠れているものを見るか、あらわれているものを隠すか。
前号の書き下ろし詩集「ごはん」のときは「ノイズ」について書いた。今回の詩は「ノイズ」とは逆のものが書かれている。「ノイズ」が「有」なら、今回書いているものは「無」だ。「論理」が論理的であろうとして、解体してしまう瞬間というものがある。それを素早いスケッチのように「放り出している」。山本はこの詩では「放り投げている」と書いているが。
で、ここまで書いて思うのだが、あれ、「抒情病」って、どこへ消えた?
たしかに最初の作品では「抒情」も「病」と登場したが、山本のことばは、それを患っているようには感じられない。
遠いところから帰ってきた
メジロやツグミの声が
森に響きわたる
というような描写は「抒情」に似ているが、ぜんぜん違ったものだ。「響きわたる」が万葉のことばのように強い。古今、新古今のように「耳元」で聞かせる「音」ではない。ここには「健康」しかない。「抒情病」を蹴飛ばして生きているぞという宣言が「抒情病」ということばに込められているのかもしれない。
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評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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