混乱のひかり | |
加藤治郎 | |
短歌研究社 |
加藤治郎『混乱のひかり』(短歌研究社、2019年09月10日発行)
加藤治郎『混乱のひかり』の帯に「今度は、『普通の歌集』を作ろうと思った。」と書いてある。「普通の歌集」というものがどういうものか知らないので困ってしまうが、うーん、「普通の歌集」ではないと思う。
理由は簡単。「音」が統一されていない。この歌集のなかには、いくつもの「音」がある。
と、書いて私は気づく。
そうか、私は「歌集(あるいは短歌)」を読むとき、「音」をきいていただけなのか、と。
さて、と。
ひさかたのひかりの道をわれは行く白いベンチのならぶその道
ここで私が感じる「音」、聞き取る「音」は、「ひさかたの」という短歌らしい「音」ではなく、最後の「その道」の「その」。この「倒置法」的なことばの動かし方、指示詞によってことばをうねらせる方法は短歌にはよくつかわれる方法だと思う。たぶん、「ひさかたの」という枕詞?とおなじくらいなじみのある方法だと思うが、書き出しの「ひさかたの」がいかにも短歌(和歌)らしいので、最後の「その」は「散文(論理)」的な感じを抱き込んでいる。「白いベンチ」というわざとらしさ(美の演出)も、「その」を「散文」の方へ押しやる。押しやっておいて、ことばのうねりへと引き返す瞬間に、あ、やっぱりこれは「歌」なのだ、と感じる。「歌」をつくりだす「音」がここにあると感じる。
憎しみに無力なことは知っているそれでも朝のトースト香れ
「それでも」という、かなりめんどうくさい「散文」の響きが、「憎しみに無力なことは知っている」という「意味」をつかみとるのに時間のかかることばを妙に輝かせる。これは、どういう意味? どうことばを補えば「散文(論理)」として共有できる? そういう疑問をもつかもたないかという瞬間、「それでも」と立ち止まる。そして、その立ち止まったこと、一種のブレーキを利用して、「朝のトースト香れ」とジャンプする。
こういう手法は、うまいなあ、と感心してしまう。
でも、こういう「歌」は、どちらかというと、私にはなじみがある。(と、勝手に思っている。)どちらかといえば「伝統的な歌」と「音(音楽)」だ。
むらぎものこころもどきを削除して冬のまひるをまばたいている
これも、まあ、聞いたことがある「音」。「ま行」のゆらぎを「削除」というすばやい「音」が突き破る。「さくじょ」の「く」の音は母音が消えると思う。「して」の「し」も、私のふつうの声の出し方では母音が消える。つまり「削除して」は母音の数を数えると「5」にはならず「3」になる。隠れた「破調」がここにあるのだけれど、そういうものにも私はなじみがある、と感じる。私の勝手な思い込みだけれど。
一方、
つまり虚構は甘い香りの麻薬なりイエス、イエス、イエス、首飾り
ここには「普通の短歌」とは違う「音」がある。「イエス、イエス、イエス、」という読点付きの「音」、読点によってリズムが強制されている。その自己主張の強さが「音楽」になっている。
「イエス」は「はい」なのか、「イエス(キリスト)」なのか、よくわからない。「麻薬」ということばが「キリスト(宗教)」を連想させるが、そして宗教こそ最大の「虚構」だとは思うが、こんなことを考えると「意味」になって味気ない。それに私は「宗教」は知識としては知っているが「肉体」では実感したことかないので、「意味」にはなりようがない。この「意味」にはなりようがないということを、最後の「首飾り」という「音」が救ってくれる。
無意味(意味がわからない)から、とても安心する。解放される。
「甘い香り」は「花」を想像させるし、「花」と「首飾り」が結びつけば、タイガースの「花の首飾り」だ。若い加藤は聞いたことがないかもしれないが(あ、音楽の教科書に採用されたと聞いたことがあるから、学校で習ったかもしれないが)、そういう、どうでもいいことも「解放感」につながる。
そうか、五七五七七こそ精巧な虚構の装置。春のさきぶれ
これは「短歌」か。それとも単なるメモか。単なるメモだからこそ、「短歌」と呼ぶ意味があるのかもしれない。読点だけではなく、句点もある。句読点付きは、啄木も書いていたし、珍しくはないかもしれないが、こういう「乱調の強調」も「音」を「短歌」そのものから解放してくれる。
雨なんかふっていないからひじょうなるこうもり傘を人人人(ばらばら)にする
ここでは「音」と「表記」が分裂している。「人人人」に「ばらばら」というルビ。でも、これは私の感覚では、実は「音」ではない。「絵」である。言い換えると「手抜き」。単なる印象で言うのだが、最後に句点をつけて、
雨なんかふっていないからひじょうなるこうもり傘を人人人(ばらばら)にする。
と、どうなるのだろう。私は加藤の歌を引用(転写)しながら、思わず句点をつけてしまっていたのだが、それは句点があった方が、ことばがそこで終わる(断ち切られる)ので、意識が前へもどり、ことばを反芻しようとする。そのとき「表記」である「人人人」が「ばらばら」という「音」に分解するのを感じるのだ。
「そうか、」の歌が、句点のないことでどこかへつながる(余韻?)のと逆の効果といえばいいのか。
絶望すれば楽だろうに真っ青な錠剤ひとつ押し出している
この歌は嫌いだなあ。「楽だろうに」の「に」にぞっとしてしまう。とても嫌な響きがある。対象化すると同時に、対象にからみついていく。粘着質の嫌らしさを感じてしまう。
と、テキトウなことを書きながら、書きたいこととはぜんぜん違うことを書いてしまっているなあ、とも思う。
「普通の歌集」がどういうものか知らないが、私は最近の「短歌」の「音」は、つまらないと感じている。「抒情/意味」を目指しすぎていて「音」が独立していない。「意味」を飾るだけのためにことばが動いているようにも思える。
加藤の「音」は、そういう短歌に比べるとはるかに「強い」。
つまり虚構は甘い香りの麻薬なりイエス、イエス、イエス、首飾り
むらぎものこころもどきを削除して冬のまひるをまばたいている
という歌など、大声で叫んでみるとおもしろいと思う。万葉の歌は、一〇〇メートル先の恋人に大声で叫んでいる感じがする。恋人に聞かせると同時に、他の人にもそれを告げることで恋人を独占してしまう「欲望の強さ」を感じる。それに近い。耳元で愛しているとこっそり告げられる欲望は、それはそれでいいのかもしれないが、そういうのは、私は面倒くさいと感じるのだ。
どういうときでも「声」は「大声」がいいなあ。
ちょっと飛躍して。
あ、あくびがやってきそうだ親指がはなれてぱらぱらめくれるページ
これは「独白」の「声」。あるいは「沈黙の声」。こういう声についてもっと書くべきだったかなあ。時間配分をまちがえてしまった。(私は目が悪いので、45分タイマーをセットして書いている。)この歌は「沈黙の声」でできているが、だからこそ「大声」で叫ぶととってもおもしろいと思う。きっとみんな笑いだす。こういうノーテンキな(?)ユーモアは大好きだなあ。
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