山本育夫「抒情病」十八編(2)(「博物誌」41、2019年10月01日発行)
江代充『切抜帳』から山本育夫「抒情病」に引き返してみる。
視線が自然に動いていく。「見える」という動詞が二行目に出てくるが、一行目にも隠れている。書かないだけで、意識は「見える」を補っている。いたることろに「見える」を補うことができる。
あるいは、こういった方が正しいかもしれない。
こんなものは、「見えない」。だからこそ、ここに「見える」を補うと山本の書こうとしていることがわかる、と。
言いなおそう。
この詩は、「見える」という動詞を消しても成立する。
やってみよう。
紫陽花が咲いている
窓越しに
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった
何か変わりましたか?
最初の詩を知っているから二行目から「見える」が消えたことに気づく。しかし、「原典」を知らなければ、これはこれで詩として成立する。「見える」がないぶんだけ「不安定」になり、「叙情性」が高まるかもしれない。「見える」があると、「見る」主体としての「肉体」を感じる。そのために安心する。「見る」肉体(山本)に私自身を重ねあわせ、自分で見ている気持ちになるのだ。「見える」がないと「ゆれる」。「感じる」を補って読むこともできるからだ。「感じる(感じ)」とは、とらえどころがなく「ゆれる」ものだからだ。
紫陽花が咲いていると感じる
窓越しに感じる
風に揺れていると感じる
これでは「超抒情」になってしまう。
「見える」ではなく「聞こえる」だと、どうなるか。
紫陽花が咲いているのが聞こえる
窓越しに聞こえる
風に揺れているのが聞こえる
色彩のない
ことばのかたまりが聞こえる
一瞬とまどうが、こういうとまどい(なぞかけみたいなもの)を「わざと」押し込むと、一気に「現代詩」にかわってしまう。西脇が言ったように「現代詩」とは「わざと」書くもの、ことばを「わざと」動かして見せて、そこにいままで存在しなかったものを出現させる運動だからだ。
でも「聞こえる」だと「ことばのかたまり」が妙にくっつきすぎる。べたべたする。おもしろくない。
やっぱり「見える」でないといけないのだ。一度だけしかたなしに書かれてしまうことば、作者の「肉体」のなかにしみこんでしまっていて、無意識で動くことばを私はキーワードと呼んでいるが、この詩では「見える/見る」という動詞がキーワードである。
「見えない」ものが「見える」。「ない」が「ある」というギリシャから始まった「哲学」(理性の運動)がここにある。そして、その運動のテーマは「ことば」なのだ。「見える」と緊密に結びついて「ことば」もキーワードになっている。「ことば」という表現を削除すると、この詩は成り立たない。
もう一度やってみよう。
紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
かたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった
ほら、単なる「風景」になってしまう。「抒情詩」というより「情景詩」か。この「情景詩」にすぎないものを「詩(あるいは抒情詩)」にしているのが「ことば」という表現なのである。
ここがポイント。
であるだけではない。
このポイントを簡単に指摘できるのは、実は、山本のことばが非常に「論理的」な動線を描いているからだ。部屋の中から視線(見る、という動詞)は外へ出ていく。それは引き返したりはしない。停滞しない。突っ走る。そして、これは単なる私の思いつきでテキトウな印象になるのだが、この論理的なスピードの正確さは、吉本隆明のことばのスピードに非常によく似ている。
ここに江代のことばの運動との違いがある。江代はスピードを正確に守るのではなく、「歩幅」を正確に守る。対象との「距離」の取り方を正確に守ると言いなおしてもいい。スピードというのはだんだん「加速」するが、「歩幅」は「加速」しない。広がったりしない。その、一種のじれったいような「停滞」が江時の「抒情」である。
山本にもどって、加速する抒情、スピードを上げた結果、おいおい、どこへ行ってしまうんだとあきれかえさせる「脱線」の例を引用しよう。高く評価したいときは、一般に「飛翔」と言うのだが、私はあえて「脱線」ということばをつかっておく。その方が、今回の山本の詩の「暴力のやさしさ」に似合うからだ。
強引にストーリー(意味)をつくれば、サンショウウオを見た。でも、それをどう詩にしていいかわからない。「謎解き」のように「答え(詩)」を組み立てられない。それでもそこにサンショウウオは「ある」。ことばにならないまま、ことばも「ある」。「ない」のは詩だ。で、「ある」ものをとりあえず動かしてみる。何が動くか。
「(よくここまで成長したね/(たいしたもんだ」はオオサンショウウオに対する「感想」かもしれない。それはたまたまオオサンショウウオに向けられているが、ほかの対象でも言えることでもある。ことばの、使い回しだね。つかいすぎては汚れる。汚れたら洗濯する、洗濯物は乾かさないといけないと考えたのどうかわからない。単に水のなかにいるサンショウウオを見て、水とは反対のことを想像し、「干し場」を思いついたのかもしれない。
この変な「結論」は、簡単に言えば、「暴走」である。悪口風に言えばデタラメである。でも、それをデタラメと感じさせないのは、ことばのスピードが加速していくという運動をとっているからである。ブレーキをかけたりしないのだ。デタラメであるからこそ、それを放り出してしまう。
江代のように、引き返し、引き返すという行為を「肉体」の運動だけではなく、「内面」への運動に転換させ、そこに「抒情」(感情の深まり)を生み出そうとはしないのだ。
あ、でも、こんなことを書くと、山本は引き返すという運動をしないのか、「引き返しの抒情」を書かないのか、というとそうでもない。「18 蝉しぐれ」は「いま」「ここ」から動き始めて、「遠く」へ行くことが「過去(記憶)」になり、それが「いま」噴出してきて世界が新しく輝くという感じの詩だ。どういう詩か。なぜ、それを引用しないのか。うーん、時間がなくなったということなのだが、「いい詩だから、みなさん、私のことばに汚される前に、博物誌で読んでください」と宣伝して終わりにしよう。
*
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江代充『切抜帳』から山本育夫「抒情病」に引き返してみる。
9 最近
紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった
視線が自然に動いていく。「見える」という動詞が二行目に出てくるが、一行目にも隠れている。書かないだけで、意識は「見える」を補っている。いたることろに「見える」を補うことができる。
あるいは、こういった方が正しいかもしれない。
ことばのかたまり
こんなものは、「見えない」。だからこそ、ここに「見える」を補うと山本の書こうとしていることがわかる、と。
言いなおそう。
この詩は、「見える」という動詞を消しても成立する。
やってみよう。
紫陽花が咲いている
窓越しに
風に揺れている
色彩のない
ことばのかたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
ことば煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった
何か変わりましたか?
最初の詩を知っているから二行目から「見える」が消えたことに気づく。しかし、「原典」を知らなければ、これはこれで詩として成立する。「見える」がないぶんだけ「不安定」になり、「叙情性」が高まるかもしれない。「見える」があると、「見る」主体としての「肉体」を感じる。そのために安心する。「見る」肉体(山本)に私自身を重ねあわせ、自分で見ている気持ちになるのだ。「見える」がないと「ゆれる」。「感じる」を補って読むこともできるからだ。「感じる(感じ)」とは、とらえどころがなく「ゆれる」ものだからだ。
紫陽花が咲いていると感じる
窓越しに感じる
風に揺れていると感じる
これでは「超抒情」になってしまう。
「見える」ではなく「聞こえる」だと、どうなるか。
紫陽花が咲いているのが聞こえる
窓越しに聞こえる
風に揺れているのが聞こえる
色彩のない
ことばのかたまりが聞こえる
一瞬とまどうが、こういうとまどい(なぞかけみたいなもの)を「わざと」押し込むと、一気に「現代詩」にかわってしまう。西脇が言ったように「現代詩」とは「わざと」書くもの、ことばを「わざと」動かして見せて、そこにいままで存在しなかったものを出現させる運動だからだ。
でも「聞こえる」だと「ことばのかたまり」が妙にくっつきすぎる。べたべたする。おもしろくない。
やっぱり「見える」でないといけないのだ。一度だけしかたなしに書かれてしまうことば、作者の「肉体」のなかにしみこんでしまっていて、無意識で動くことばを私はキーワードと呼んでいるが、この詩では「見える/見る」という動詞がキーワードである。
「見えない」ものが「見える」。「ない」が「ある」というギリシャから始まった「哲学」(理性の運動)がここにある。そして、その運動のテーマは「ことば」なのだ。「見える」と緊密に結びついて「ことば」もキーワードになっている。「ことば」という表現を削除すると、この詩は成り立たない。
もう一度やってみよう。
紫陽花が咲いている
窓越しに見える
風に揺れている
色彩のない
かたまり
揺れている
遠くのビルの屋上から
吹き出している
煙りが
巷の方にゆっくりと
流され溶け込んでいった
ほら、単なる「風景」になってしまう。「抒情詩」というより「情景詩」か。この「情景詩」にすぎないものを「詩(あるいは抒情詩)」にしているのが「ことば」という表現なのである。
ここがポイント。
であるだけではない。
このポイントを簡単に指摘できるのは、実は、山本のことばが非常に「論理的」な動線を描いているからだ。部屋の中から視線(見る、という動詞)は外へ出ていく。それは引き返したりはしない。停滞しない。突っ走る。そして、これは単なる私の思いつきでテキトウな印象になるのだが、この論理的なスピードの正確さは、吉本隆明のことばのスピードに非常によく似ている。
ここに江代のことばの運動との違いがある。江代はスピードを正確に守るのではなく、「歩幅」を正確に守る。対象との「距離」の取り方を正確に守ると言いなおしてもいい。スピードというのはだんだん「加速」するが、「歩幅」は「加速」しない。広がったりしない。その、一種のじれったいような「停滞」が江時の「抒情」である。
山本にもどって、加速する抒情、スピードを上げた結果、おいおい、どこへ行ってしまうんだとあきれかえさせる「脱線」の例を引用しよう。高く評価したいときは、一般に「飛翔」と言うのだが、私はあえて「脱線」ということばをつかっておく。その方が、今回の山本の詩の「暴力のやさしさ」に似合うからだ。
14 干し場
オオ!サンショウウオ
ことばの体力が
落ちている
謎解き探偵は
明け方の光を浴びながら
注意深く表皮に
巣食っているそれを
ピンセットで
つまみだす
(よくここまで成長したね
(たいしたもんだ
潮風をうけながら
静かに乾燥していく
ことばの
干し場
強引にストーリー(意味)をつくれば、サンショウウオを見た。でも、それをどう詩にしていいかわからない。「謎解き」のように「答え(詩)」を組み立てられない。それでもそこにサンショウウオは「ある」。ことばにならないまま、ことばも「ある」。「ない」のは詩だ。で、「ある」ものをとりあえず動かしてみる。何が動くか。
「(よくここまで成長したね/(たいしたもんだ」はオオサンショウウオに対する「感想」かもしれない。それはたまたまオオサンショウウオに向けられているが、ほかの対象でも言えることでもある。ことばの、使い回しだね。つかいすぎては汚れる。汚れたら洗濯する、洗濯物は乾かさないといけないと考えたのどうかわからない。単に水のなかにいるサンショウウオを見て、水とは反対のことを想像し、「干し場」を思いついたのかもしれない。
この変な「結論」は、簡単に言えば、「暴走」である。悪口風に言えばデタラメである。でも、それをデタラメと感じさせないのは、ことばのスピードが加速していくという運動をとっているからである。ブレーキをかけたりしないのだ。デタラメであるからこそ、それを放り出してしまう。
江代のように、引き返し、引き返すという行為を「肉体」の運動だけではなく、「内面」への運動に転換させ、そこに「抒情」(感情の深まり)を生み出そうとはしないのだ。
あ、でも、こんなことを書くと、山本は引き返すという運動をしないのか、「引き返しの抒情」を書かないのか、というとそうでもない。「18 蝉しぐれ」は「いま」「ここ」から動き始めて、「遠く」へ行くことが「過去(記憶)」になり、それが「いま」噴出してきて世界が新しく輝くという感じの詩だ。どういう詩か。なぜ、それを引用しないのか。うーん、時間がなくなったということなのだが、「いい詩だから、みなさん、私のことばに汚される前に、博物誌で読んでください」と宣伝して終わりにしよう。
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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