詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(21)

2020-04-04 21:32:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

詩篇

稲妻が走るたびに
闇のなかに盲目の顔が浮かぶ

 この二行は、どこかの詩に組み込まれているかもしれない。はっきりとは思い出せないが、読んだ記憶がある。(もちろん、この詩で読んだという記憶かもしれないが。)
 なぜ「盲目の顔」なのか。
 「盲目」と「闇」が重なり、自分が「盲目」になって稲妻に浮かび上がっているという自画像を連想してしまう。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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『誤読』販売のページ
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野沢啓「暗喩の暴力性」

2020-04-04 21:02:48 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「暗喩の暴力性」(「未来」599、2020年春発行)

 野沢啓「暗喩の暴力性--言語暗喩論」を読みながら、私は脱線し続ける。野沢の書いていることは理解できるといえば私なりに理解できているつもりだ。もちろん、野沢は理解していない、誤読しているというかもしれない。しかし、こういうことは、いつでも、だれに対しても起きるだろうから、私は気にせずに読んで考えたことを書くだけである。
 野沢は「詩のことばの暴力性」と書いている。私も詩のことばは暴力的だと思う。そしてそれが詩の魅力だと思う。
 しかし、

ことばが何を語り出そうとするのか、ことばの自己運動がどのように、どこまで展開していくのか、詩人はことばに憑依した運動が収束するまで自身は自動筆記装置と化すほかはない。

ことばは手の切れるような尖端が振り回されているかぎり、どこに接触し着地するかわからない。このことばの暴力性、ことばのエッジを切りつける行為こそが詩の営為であるとしたら、詩のことばは既成の世界を攻撃し、破壊し、解体しようとさえするだろう。

 という文章を読むと、それは「散文」でも同じではないだろうか、と思ってしまう。
 たとえば、私はいまこうやって「詩」ではなく「散文(感想)」を書いている。書こうと思ったとき、何かがたぶん私に「憑依」している。そして、それは私のことばにも「憑依」していると思うし、私は、その私自身理解できない「何か」に身をまかせているにすぎない。ことばが勝手に動いていくのに身をまかせている。「結論」が何かわかっていて書いているわけではない。ただ思いつくまま「自動筆記」しているにすぎない。
 このとき、私は私のことばが何と接触しているのかわからない。野沢のことば(野沢の書いていること)に接触しているつもりだが、もしかすると「接触」ではなく完全なる「乖離」かもしれない。私のことばは、「接触」も「乖離」も判断せずに、何かを書きたいという欲望だけで動いている。野沢のつくりあげていることばの「世界」を攻撃し、破壊し、解体したいという「暴力」で動いている。どこへ着地するか考えたこともない。ことばが「暴力」を発揮し、気持ちが落ち着けば、そこでぱたりと動かなくなる。それだけだ。
 「暴力」がうまく動けば「批評」になるかもしれない。何の刺戟も引き起こさないとしたら「誤読」の空振り、ということになるだろう。そういうことは、しかし、他人が(野沢が、あるいは、野沢の文章と私の文章を読んだ人が)判断することであって、私にとってはあまり関係がない。私は、ことばをつかって、私がことばにしていないものを、ことばにしたいと感じているものを、ただ書いてみたいだけなのである。それは「無駄」かもしれないが、そういう「無駄」を人間に強いる「暴力」というものもことばは持っている。
 そして、その「暴力」は、あるときは「詩」と呼ばれ、あるときは「散文」と呼ばれるだけなのだと思う。
 たとえば「散文」の出発点(?)ともいえるソクラテス(プラトン)の対話。それは、当時の社会からは「暴力的(破壊的)」をものを持っていると判断されたから、ソクラテスは死刑になった。「詩」ではなくても、ことばは、いつでも「暴力的」なのものだと私には思える。
 だから詩のことばは確かに「暴力」だけれど、それが「詩の定義」になるかどうかというと、疑問に感じてしまうのだ。「散文」も暴力的だ。キリストのことばも、たぶん「暴力的」だから社会から弾圧を受けたのだと思う。そして、この「暴力」というのは、いつでも社会のあり方と関係してくるから、そのことばが存在する「世界」/そのことばが向き合っている「世界」と関係づけならが「暴力」の「暴力性」を定義しないと、どうも落ち着かなくなるように感じられる。
 私の書いていることばは、たとえば野沢の書いている「論理」を無視しているという意味では充分に「暴力的」だろうと思う。野沢の書いていることを理解し、それにそって考えようとせず、自分勝手に思うままに書いている。こういう「暴力」は、ふつうは受け入れられない。「誤読している」と切り捨てられる。それはつまり「誤読している」という「暴力」で私を否定するということである、と私は言い返すことのできるものであるけれど。

 ちょっとややこしくなったが。
 「暴力」というのは、定義がむずかしいし、「自動筆記」にしても定義がむずかしい。私は何を書くときでも「結論」を想定していない。いつでも「自動筆記」でしか書かないから、とくにそう感じるのかもしれない。

 さて。
 今回の野沢の文章では、一か所だけ「詩」が引用されている。宮沢賢治の『春の修羅』の「序」。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

 これについて、野沢は、こう書いている。

 賢治はここでみずからを未知の〈現象〉としていきなり出現させているのである。この〈現象〉が当時の詩においては斬新な科学的ヴォキャブラリーを擁し〈ひとつの青い照明〉として未知の世界へ身を入れていくかたちで詩を出動させたのが『春と修羅』の劇的な新しさなのである。

 「暴力」は「斬新/新しさ」と言い直されている。科学的なことばをつかうことが、それまでの自然描写や日常の言語を主体とした文学(社会)を「攻撃し、破壊し、解体」する力をもっていたということだろう。現代では、もうその「暴力性」は薄れているかもしれない。また、「現象」ということばだけではなく、この「現象」ということばが必然的に引き寄せてしまう(自動筆記させてしまう)「仮定する」「有機交流」という科学的(物理的)な文体をもったことば、さらに「電燈/照明」という連続性にも、それまでとは違った「文体」が「暴力」として働いていると思う。
 そう理解した上で、私がいま思うのは、

ひとつの青い照明です

 この一行の「青い」ということばについてである。「青い」は「現象」のように新しいことばではない。古くからあることばであり、それはたとえば「透明(透き通った)」とか「静かな」というようなイメージを抱え込んでいると思う。そして、そのことだけでいえば、そこには「暴力性」はないように感じられる。
 しかし、ほんとうは、ここにも「暴力性」はあるのではないか。
 「青い」はなくても、この詩は成立する。「青い」がない方が、より「科学的」な感じになるかもしれない。でも、賢治は「青い」と書いてしまうのだ。(「青い」ということば、たぶん賢治の多くの作品に登場する基調色だと思うが。)その一種の「無意識」の「好み」。こちらの方が、ほんとうははるかに「暴力的」かもしれない。
 「現象」「仮定」「有機」「交流」「電燈」というような、意識的な「科学的文脈」から外れているからである。
 言い直すと、「暴力」には当時の社会の意識を攻撃し、破壊し、解体するものがあると同時に、その時の「文体」そのものを攻撃し、破壊し、解体するものがあって、この方がはるかに強いのだ。意識できない根深いものがあるのだ。それは「社会」に対する賢治の「自然」のようなものだ。
 こういう「自然」は、「詩」だけではなく「散文」においてもあらわれてくると思う。(具体例をすぐには思い出せないが。)この「自然」もまた「自動筆記」である。そういう部分にも触れると、野沢の書いていることは、より刺戟的にあると思う。
 いま書かれている文章でも刺戟的ではあるのだけれど、ハイデガーとかヴィトゲンシュタインとか、外国の哲学が出てきて、そういうものを体系的に読んだことのない私は、どうも一歩引いてしまう。何か感想を書いても、「ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン」を読んだ上で言っているかという叱責が耳元で聞こえる感じがして、苦手だなあと思うのだ。
 で、そういうことを書いたついでに、また脱線したことを書くのだが。

詩は言葉による存在の建設である。

 たとえば、このハイデガーのことばの「詩」を「法(律)」と読み替えることもできるのではないか、と私は考えてしまう。そのとき「存在」も「社会」と読み替えたいのだが。つまり、こんなふうに。

法は言葉による社会の建設である。

さらに

憲法は言葉による国家の建設である。

 と読み替えていくと、これは安倍批判になると思う。「言葉は存在の家である」も「憲法は国民の家である」と読み替えることができるだろうと思う。
 「文体」が抱え込むものは、とても大きいのだ。それを「詩」にだけあてはめるのは、私にはもったいない感じがするのである。「詩」も「散文」も、私は区別しない。同じ力をもっていると思うのだ。
 ヴィトゲンシュタインの「私の方法は一貫して言語における誤謬を指摘することにある」というのも、「私の方法は一貫して安倍の憲法(解釈)における誤謬を指摘することにある」という具合に利用することができる。そういう「文体」の力というものがある思う。また、このヴィトゲンシュタインのことばは、なんとなく、私には孔子の言っていることと通じるなあ、とも感じられる。
 どんどん脱線してしまったが。
 「詩」に特権を与えて、ことばを定義するという感じ、あるいはことばに特権を与えることで詩を定義するという感じに、何か疑問を感じる。
 私は、その場その場で、ことばと向き合うだけで、「詩」「散文」「政治」に違いはないと思う。









*

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死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。

2020-04-04 09:33:24 | 自民党憲法改正草案を読む
素人の見方
       自民党憲法改正草案を読む/番外333(情報の読み方)

 
 2020年04月02日の読売新聞(西部版・14版)の2面トップ。新型コロナニュース。

感染100万人/1週間で倍/全世界 死者5万人超す

 という見出しといっしょに全世界の状況が一覧表になっている。すでにフェイスブックでも書いたのだが、非常に気になることがある。
 中国・武漢で爆発的に拡大し、それが世界に広がったという状況だが、あとになって集団発生した国ほど感染者、死者が多い。
 韓国は武漢につづいて注目を浴びたが、いまは落ち着いている。感染者は1万人を超えているが死者は174人。
 一方、イタリア、スペイン(その他のヨーロッパ)、アメリカと見ていくと、話題になった順序としてはイタリア、スペイン、アメリカなのだが、大問題になったイタリアの状況は、4日付の新聞では感染者11万5242人、死者1万3951人、スペインは11万7710人、死者1万935人と、感染者はイタリアを超えてしまった。死者も追い越すかもしれない。アメリカは感染者24万5646人、死者6068人。感染者はイタリア、スペインをはるかに超えている。死者もこれから増えていくだろう。
 中国の数字(感染者8万1623人、死者3322人)がどれだけ正確であるかわからないが、感染者数ではドイツでさえ上回っているし、死者でもフランス、イギリスがすでに中国を上回っている。
 これには二つの「理由」(原因)が考えられる。素人の考えだが。

①あとになるほど検査が厳しくなり感染者、死者の把握が進んだ
②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態だった

 ①の場合なら、それは問題であるよりも、一つの「効果」と考えることができるが、②だと大問題だ。
 特に日本の場合を考えると、②の危険が非常に大きい。
 私たちはクルーズ船の大失敗を見ている。不十分な管理態勢の上に、検査も充分にしなかった。そのため検査を受けずに下船した人までいる。
 そしていま、日本で感染者、死者が加速度的に増えている。「②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態」になっている。感染経路がわからない人だらけなのだ。検査開始が遅れれば遅れるほど、問題は深刻化していると、素人の私は見る。
 ベルギー、オランダ、ポルトガル、スウェーデン、カナダ、ブラジルでも感染者、死者の数が日本よりも多い。アメリカでは西部の方が早く検査をはじめた。遅れた東部のニューヨークは問題が深刻化した。日本でも初動がうまくいった和歌山、北海道では問題が沈静化しつつある。ところが、初動が遅れた東京は深刻化している。どれも、検査の遅れと関連している。
 日本ではまだ「日本」と「クルーズ船」をわけているが、そういう「小手先」の数字を少なくみせる方法では、絶対に「ごまかし」のきかない状況になっている。
 日本は、欧米の諸国に比べると、「初期」と言える段階から新型コロナに向き合っている。しかし、そこで韓国のような徹底した検査体制をとらずに、ずるずると引き延ばしているのだが、その引き延ばしを感染者が追い越し始めている。検査されていない感染者が市中に信じられないほどいるに違いないのだ。そしてその「市中感染者」は検査開始が遅れるほど増えていくのだ。
 そういうことが、一覧表からわかる。

そうした状況の中、

「検査数少なく正確な評価困難」 在日米大使館が「予測困難」と米市民に帰国促す

というニュースが流れている。毎日新聞のウェブサイトである
https://mainichi.jp/articles/20200404/k00/00m/030/005000c

 アメリカも日本の検査体制に疑問をもち、アメリカ人の命をまもるのには帰国させるしかないと判断したということだろう。
 日本はこれから感染者、死者が急増する。それはイタリア、スペイン、アメリカを超えてしまうだろう。どれだけ増えるか、予測困難なのだ。アメリカはアメリカ国内の死者を最大24万人と予測していたようだが、日本はそれを上回る恐れがあると予告しているに等しい。

 なぜ、こんなことが起きたか。
 クルーズ船の初動対応がまずかったからだ。最初から「数字をおさえる」ということだけを目的にしていたからだ。そのため、世界に誤解を与えた。新型コロナはテキトウな対応でもそれほど深刻にならない。中国・武漢で大量に患者が出たのは、中国がまだまだ「文明国」ではないからだ。韓国も同じだ、という誤解を与えた。そして、その「誤解」はほとんど安倍の「偏見(人種差別)」と重なる。
 新型コロナが終息し、「検証」がはじまれば、絶対に安倍の対応が問題視されるはずである。何度も書いてきたが、日本は厳しく批判されるだろう。「事実」をごまかし、世界に新型コロナの危険性をつたえなかったのは、日本なのだ。(中国は数字に問題があるかもしれないが、少なくとも「危険性」と「都市封鎖」などの方法を正確につたえた。感染拡大を防ぐには「都市封鎖」しかないことを明確に実証した。)

 で、問題のクルーズ船だが。
 読売新聞(2面)に、小さな記事(1段見出し)があった。

クルーズ船対応/米代理大使謝意/「最高のケア受けた」
 
 なんともはや。ちょっと絶望的になる。クルーズ船の乗客が全員下船し、帰国したときならまだわかるが、なぜ、いま、こんな記事が載るのか。
 私のようにクルーズ船の初動に問題があった、それがいまの世界の混乱を招いていると指摘する声が、きっと出始めているのだ。それを「封じる」ために、こんな記事が書かれている。安倍の対応はアメリカから感謝されている。
 でも、感謝なんか、全然していない。それは先に引用した毎日新聞の記事を見ればはっきりわかる。アメリカは日本を信頼していない。世界各国がアメリカにならうだろう。中国(武漢)から、世界が引き上げたように、日本から世界が引き上げていく。
 安倍を信じたら、みんな死んでしまうのだ。死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。


















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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