野沢啓「暗喩の暴力性」(「未来」599、2020年春発行)
野沢啓「暗喩の暴力性--言語暗喩論」を読みながら、私は脱線し続ける。野沢の書いていることは理解できるといえば私なりに理解できているつもりだ。もちろん、野沢は理解していない、誤読しているというかもしれない。しかし、こういうことは、いつでも、だれに対しても起きるだろうから、私は気にせずに読んで考えたことを書くだけである。
野沢は「詩のことばの暴力性」と書いている。私も詩のことばは暴力的だと思う。そしてそれが詩の魅力だと思う。
しかし、
ことばが何を語り出そうとするのか、ことばの自己運動がどのように、どこまで展開していくのか、詩人はことばに憑依した運動が収束するまで自身は自動筆記装置と化すほかはない。
ことばは手の切れるような尖端が振り回されているかぎり、どこに接触し着地するかわからない。このことばの暴力性、ことばのエッジを切りつける行為こそが詩の営為であるとしたら、詩のことばは既成の世界を攻撃し、破壊し、解体しようとさえするだろう。
という文章を読むと、それは「散文」でも同じではないだろうか、と思ってしまう。
たとえば、私はいまこうやって「詩」ではなく「散文(感想)」を書いている。書こうと思ったとき、何かがたぶん私に「憑依」している。そして、それは私のことばにも「憑依」していると思うし、私は、その私自身理解できない「何か」に身をまかせているにすぎない。ことばが勝手に動いていくのに身をまかせている。「結論」が何かわかっていて書いているわけではない。ただ思いつくまま「自動筆記」しているにすぎない。
このとき、私は私のことばが何と接触しているのかわからない。野沢のことば(野沢の書いていること)に接触しているつもりだが、もしかすると「接触」ではなく完全なる「乖離」かもしれない。私のことばは、「接触」も「乖離」も判断せずに、何かを書きたいという欲望だけで動いている。野沢のつくりあげていることばの「世界」を攻撃し、破壊し、解体したいという「暴力」で動いている。どこへ着地するか考えたこともない。ことばが「暴力」を発揮し、気持ちが落ち着けば、そこでぱたりと動かなくなる。それだけだ。
「暴力」がうまく動けば「批評」になるかもしれない。何の刺戟も引き起こさないとしたら「誤読」の空振り、ということになるだろう。そういうことは、しかし、他人が(野沢が、あるいは、野沢の文章と私の文章を読んだ人が)判断することであって、私にとってはあまり関係がない。私は、ことばをつかって、私がことばにしていないものを、ことばにしたいと感じているものを、ただ書いてみたいだけなのである。それは「無駄」かもしれないが、そういう「無駄」を人間に強いる「暴力」というものもことばは持っている。
そして、その「暴力」は、あるときは「詩」と呼ばれ、あるときは「散文」と呼ばれるだけなのだと思う。
たとえば「散文」の出発点(?)ともいえるソクラテス(プラトン)の対話。それは、当時の社会からは「暴力的(破壊的)」をものを持っていると判断されたから、ソクラテスは死刑になった。「詩」ではなくても、ことばは、いつでも「暴力的」なのものだと私には思える。
だから詩のことばは確かに「暴力」だけれど、それが「詩の定義」になるかどうかというと、疑問に感じてしまうのだ。「散文」も暴力的だ。キリストのことばも、たぶん「暴力的」だから社会から弾圧を受けたのだと思う。そして、この「暴力」というのは、いつでも社会のあり方と関係してくるから、そのことばが存在する「世界」/そのことばが向き合っている「世界」と関係づけならが「暴力」の「暴力性」を定義しないと、どうも落ち着かなくなるように感じられる。
私の書いていることばは、たとえば野沢の書いている「論理」を無視しているという意味では充分に「暴力的」だろうと思う。野沢の書いていることを理解し、それにそって考えようとせず、自分勝手に思うままに書いている。こういう「暴力」は、ふつうは受け入れられない。「誤読している」と切り捨てられる。それはつまり「誤読している」という「暴力」で私を否定するということである、と私は言い返すことのできるものであるけれど。
ちょっとややこしくなったが。
「暴力」というのは、定義がむずかしいし、「自動筆記」にしても定義がむずかしい。私は何を書くときでも「結論」を想定していない。いつでも「自動筆記」でしか書かないから、とくにそう感じるのかもしれない。
さて。
今回の野沢の文章では、一か所だけ「詩」が引用されている。宮沢賢治の『春の修羅』の「序」。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
これについて、野沢は、こう書いている。
賢治はここでみずからを未知の〈現象〉としていきなり出現させているのである。この〈現象〉が当時の詩においては斬新な科学的ヴォキャブラリーを擁し〈ひとつの青い照明〉として未知の世界へ身を入れていくかたちで詩を出動させたのが『春と修羅』の劇的な新しさなのである。
「暴力」は「斬新/新しさ」と言い直されている。科学的なことばをつかうことが、それまでの自然描写や日常の言語を主体とした文学(社会)を「攻撃し、破壊し、解体」する力をもっていたということだろう。現代では、もうその「暴力性」は薄れているかもしれない。また、「現象」ということばだけではなく、この「現象」ということばが必然的に引き寄せてしまう(自動筆記させてしまう)「仮定する」「有機交流」という科学的(物理的)な文体をもったことば、さらに「電燈/照明」という連続性にも、それまでとは違った「文体」が「暴力」として働いていると思う。
そう理解した上で、私がいま思うのは、
ひとつの青い照明です
この一行の「青い」ということばについてである。「青い」は「現象」のように新しいことばではない。古くからあることばであり、それはたとえば「透明(透き通った)」とか「静かな」というようなイメージを抱え込んでいると思う。そして、そのことだけでいえば、そこには「暴力性」はないように感じられる。
しかし、ほんとうは、ここにも「暴力性」はあるのではないか。
「青い」はなくても、この詩は成立する。「青い」がない方が、より「科学的」な感じになるかもしれない。でも、賢治は「青い」と書いてしまうのだ。(「青い」ということば、たぶん賢治の多くの作品に登場する基調色だと思うが。)その一種の「無意識」の「好み」。こちらの方が、ほんとうははるかに「暴力的」かもしれない。
「現象」「仮定」「有機」「交流」「電燈」というような、意識的な「科学的文脈」から外れているからである。
言い直すと、「暴力」には当時の社会の意識を攻撃し、破壊し、解体するものがあると同時に、その時の「文体」そのものを攻撃し、破壊し、解体するものがあって、この方がはるかに強いのだ。意識できない根深いものがあるのだ。それは「社会」に対する賢治の「自然」のようなものだ。
こういう「自然」は、「詩」だけではなく「散文」においてもあらわれてくると思う。(具体例をすぐには思い出せないが。)この「自然」もまた「自動筆記」である。そういう部分にも触れると、野沢の書いていることは、より刺戟的にあると思う。
いま書かれている文章でも刺戟的ではあるのだけれど、ハイデガーとかヴィトゲンシュタインとか、外国の哲学が出てきて、そういうものを体系的に読んだことのない私は、どうも一歩引いてしまう。何か感想を書いても、「ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン」を読んだ上で言っているかという叱責が耳元で聞こえる感じがして、苦手だなあと思うのだ。
で、そういうことを書いたついでに、また脱線したことを書くのだが。
詩は言葉による存在の建設である。
たとえば、このハイデガーのことばの「詩」を「法(律)」と読み替えることもできるのではないか、と私は考えてしまう。そのとき「存在」も「社会」と読み替えたいのだが。つまり、こんなふうに。
法は言葉による社会の建設である。
さらに
憲法は言葉による国家の建設である。
と読み替えていくと、これは安倍批判になると思う。「言葉は存在の家である」も「憲法は国民の家である」と読み替えることができるだろうと思う。
「文体」が抱え込むものは、とても大きいのだ。それを「詩」にだけあてはめるのは、私にはもったいない感じがするのである。「詩」も「散文」も、私は区別しない。同じ力をもっていると思うのだ。
ヴィトゲンシュタインの「私の方法は一貫して言語における誤謬を指摘することにある」というのも、「私の方法は一貫して安倍の憲法(解釈)における誤謬を指摘することにある」という具合に利用することができる。そういう「文体」の力というものがある思う。また、このヴィトゲンシュタインのことばは、なんとなく、私には孔子の言っていることと通じるなあ、とも感じられる。
どんどん脱線してしまったが。
「詩」に特権を与えて、ことばを定義するという感じ、あるいはことばに特権を与えることで詩を定義するという感じに、何か疑問を感じる。
私は、その場その場で、ことばと向き合うだけで、「詩」「散文」「政治」に違いはないと思う。
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