*
「知る」は「体験する」と言い直すことができる。
生まれることで体験がはじまり(知るがはじまり)、死ぬことで体験が終わる(知るが終わる)。
しかし、逆に考えてみることもできそうだ。
「どこで、いつ」生まれたか、ひとは知っている。しかし「どこで、いつ」死んだかは、その人は知らないのではないのか。少なくとも、それを「語る」ことはできない。だから、それは「知識(知る)」にはなり得ない。
ひとが「自宅で死にたい」というのは、死の先は何もわからないから、わからなくなる瞬間までは「知る」のままでいたいということかもしれない。
こんなふうに「知る」ということにこだわりつづけなければならないとしたら、人間というのは、なかなかつらい生きものだと思う。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
ぼくは未知のところで生れ ぼくの知っているところで終るだろう
「知る」は「体験する」と言い直すことができる。
生まれることで体験がはじまり(知るがはじまり)、死ぬことで体験が終わる(知るが終わる)。
しかし、逆に考えてみることもできそうだ。
「どこで、いつ」生まれたか、ひとは知っている。しかし「どこで、いつ」死んだかは、その人は知らないのではないのか。少なくとも、それを「語る」ことはできない。だから、それは「知識(知る)」にはなり得ない。
ひとが「自宅で死にたい」というのは、死の先は何もわからないから、わからなくなる瞬間までは「知る」のままでいたいということかもしれない。
こんなふうに「知る」ということにこだわりつづけなければならないとしたら、人間というのは、なかなかつらい生きものだと思う。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)