詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(31)

2020-04-14 21:48:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (一つの夜が終わる)

芝生の上に窓から灯りがながれている
時のながれに逆らうようにひとりの男がアプサンを飲んでいる

 「ながれ(る)」が二回繰り返されている。そして、それは「夜が終わる」の「終わる」のなかにも隠されていたことばだ。
 男の中をアプサンが「流れる」と引き継ぐこともできる。
 だが、男は、それに逆らいたいのだ。あらゆる「ながれ」を逆にひきもどしたいのだ。

女は昨日通った橋の上をむこうの町へ帰っていった








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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八重洋一郎「カナリヤ」、野沢啓「底の割れない話」

2020-04-14 21:30:52 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「カナリヤ」、野沢啓「底の割れない話」(「イリプスⅡ」30、2020年03月10日発行)

 八重洋一郎「カナリア」には「『ゲルニカ』(文・図版構成 アラン・セール 訳 松島京子)より」という註釈がついている。触発されて書いた作品なのだろう。

あれはカラスではない 真っ黒に
焼け焦げた
カナリヤ
カラスよりも大きく羽をツッパリ
バタバタバタバタバタ
クルクルクルクルクル
バタバタバタバタバタ 首を伸ばし
暗い空にむかって 垂直に
黄色い叫びをあげる
カナリヤ

 音が強い。音の強さが、ことばを支えている。「ツッパリ」は「突っ張り」なのかもしれないが、何か意味を拒絶して、「音」そのものになっている。「意味」を突き破っている。これが、その後の音を動かしている。
 長い詩で、途中は「意味(主張)」が強いのだが、最後にふたたびふたたび「音」が蘇る。

あれはカラスではない 理由(いわれ)なき理由を押しつけられて 真っ黒に
焼け焦げた
カナリヤ
カラスよりも大きく羽をツッパリ
バタバタバタバタバタ 気が狂い
クルクルクルクルクル 身も狂い
バタバタバタバタバタ すべて狂って 首を伸ばし
硝煙渦巻く
暗い空にむかって 垂直に
黄色い叫びをあげる

あれは叫びとなった
カナリヤ
あれはむせかえる叫びとなった生きとし生けるもの万物の
カナリヤ
カナリヤ カナリヤ
カナリヤ

 書き出しと比較すると「狂う」という動詞が追加されていることがわかる。狂ったのは「理由なき理由を押しつけられ」たからだ。ここに強い批判がある。音の強さが、八重の声の強さにつながっている。
 省略した途中を引用した方が「意味」はわかりやすくなると思うが、「意味」よりも、私は「声」そのものに八重の「肉体(思想)」を感じたので、あえて、その部分だけを引用しておく。



 野沢啓「底の割れない話」は三木清のことばに触発された(?)作品。一行目に三木のことばが引用されている。

《表現とは底を割ることであり、しかも割られた底に何物もあるのではない。》
そこがわからない 底がわからない
わたしに底はあるか
そこを知りたい

底が割れた話ならいくらもある
底の知れた話だ
でも いまはちがう
不思議なことばだが
わかりたい
わからねばならない
なにもなくてもいい
むしろないほうがいいかもしれない

 私は、三木のこのことばをおぼえていないが、とても「よくわかる」。まあ、「わかる」というのは「誤解」できる、自分なりに納得できるという意味だが。
 書くというのは、自分の内部からことばにならないものをひっぱりだすということだと思う。ことばになっていないものを、ひっぱりだす。そこまで到達しないと「表現」にはならない。そして、そのときの「内部」というのは「底」のさらに「底」。底を割ったところだ。もちろん、そこには何もない。「ことば」はないのだ。その「ことば」ではないものが、底を割った瞬間に噴出してくる。それは自分の手には負えない。何か書いてしまうが、何を書いたかわからない。そういう瞬間が、私は「表現」だと思っている。
 それは「論理」ではないから、「何物もあるのではない」としか言いようがないのだと思う。「わからない」ものに出会うことが、「表現」だと思う。だから、「そこがわからない」と「わからない」を書いた瞬間に、野沢の「表現」は終わっていると、私は思う。
 それに比べると、私は「わかったつもり」になっているから「表現」にはたどりついていないことになる。
 どうやったら、たどりつけるかなあ。
 野沢の詩のつづきを読んでみる。

わたしは空洞だ
そこを音が鳴り響いてくれればいい
ex-pression
なにかが押し出される
外出する
でもどこへ
わたしのまわりに何がある
そこへむけて外出するのかさせるのか
だが何を
わたしの空洞は音楽だ
ひゅうひゅう
そのばあい世界はどこにあるのか

 私は「ex-pression 」ということば、「押し出される」「外出する」ということばに、つまずく。
 「わたしは空洞だ」と書くとき、野沢は、わたしの「内部は」空洞だ、と感じているのだと思う。その「内部」に対して「外」ということばが動き、「出す」ということばが動いていると思う。
 「底」を割ったら、その「底の底」から何かが噴出してきて、外へ飛び出す。そういうことを「表現」と感じているのだと思う。
 私も「噴出」ということばをつかったが、そのとき私が感じているのは、「外」ではない。あくまで「内部」に噴出してくる。「内部」が変わる。底がなくなって、「内部」でなくなる、という感じなのだが。何もなくなるのだ。「内部」であるという感じすらなくなる。
 たぶん、この感覚の違いが、私と野沢の違いなのだと思う。
 そして、私の「誤解」をそのまま書き続ければ、「ex-pression 」というような「外からのことば」で「底」を割るというところが、たぶん三木のことばが「わからない」ということにつながっているのだと感じる。外からのことばを借りてくると、ことばが整ってしまう。そこのことばには既成の「意味」があって、それが「底」をふさいでしまうのだ。割ったつもりが、新しい容器に変わってしまうのだ。「底を割る」というのは、ことばが成立しなくなることだ。
 野沢は「そのばあい世界はどこにあるのか」を最終連で言い直している。その四行を、私はあえて引用しない。引用すると、私の考えたことをもう一度説明し、整えることになる。それは「底を割る」ということではなく、「表現にみせかける」ということになると思う。私は、そんなふうにして「わかりたくない」。
 だから、このまま放置しておく。
 そして、さらに違うことを書く。なんだか、わけのわからないことを書く。

 そのとき、ことばは、言うのだ。「外にはことばがあふれている。確立されたことばだ。多くのことばは、その外にあることばを利用してことばの世界を広げて行く。どれだけ外のことばを、新しいことばを取り込むことができるかを競っている。」
 それから、間を置いて、こうつづける。
 「私は、ことばの内部から、ことばにならないものを探したいのだ。それは決して外へとは広がらない。それは取り込むではなく、むしろ取り出すである。しかも、外へではなく、内部へ取り出すのである。」

 このことばの言ってることは矛盾している。「内部」が二重の意味につかわれている。だが、それは置き換えてはならないことばなのだ。



 最後に付け加えておくと、八重の場合「羽をツッパリ」の「ツッパリ」が八重の「底」を割ったのだと思う。そして、「内部」が「内部」ではなくなって動いている。もちろん、それは「外部」でもない。野沢のことばをかりれば「世界」だ。






*

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2020年04月14日(火曜日)

2020-04-14 18:49:54 | 考える日記
 そのとき、ことばは、言うのだ。「外にはことばがあふれている。確立されたことばだ。多くのことばは、その外にあることばを利用してことばの世界を広げて行く。どれだけ外のことばを、新しいことばを取り込むことができるかを競っている。」
 それから、間を置いて、こうつづける。
 「私は、ことばの内部から、ことばにならないものを探したいのだ。それは決して外へとは広がらない。それは取り込むではなく、むしろ取り出すである。しかも、外へではなく、内部へ取り出すのである。」

 このことばの言ってることは矛盾している。「内部」が二重の意味につかわれている。だが、それは置き換えてはならないことばなのだ。


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報道の変化(何を報道すべきか)

2020-04-14 09:24:45 | 自民党憲法改正草案を読む
報道の変化(何を報道すべきか)
       自民党憲法改正草案を読む/番外337(情報の読み方)

 
 2020年04月14日の読売新聞(西部版・14版)の31面(社会面)。

新型コロナ 国内8000人超す

 という全国の「統計」につづいて、

92人院内感染か 東京・中野

 という記事。永寿病院につづいての大規模な院内感染の可能性について書いている。その事実については、その通りなのだと思うが、ひとつ非常に気になったことがある。
 記事中に13日の東京都の感染者の数が書いてない。一覧表を見ると257人増えている。この257人は、東京都としては最大の感染者数であり、また私の記憶によれば初の200人突破だ。土曜日だったと思うが、200人寸前だった。
 院内感染も重大な問題だが、200人を超した。しかもこれまでの数より50人以上(60人近く)増えている。なぜ、問題にしないのか。そこに読者の注意を引こうとしないのか、それが疑問だ。一覧表を見ないと、実数がわからないというのはあまりにも不親切だ。
 さらに、この一覧表を見ると、不思議なことにも気づく。感染者の累計は7689人、死者の累計は155人。死者の割合は、ざっと計算して2%くらいである。この割合は、コロナが問題化してから、ほとんど変わっていない。最初のころの「情報」どおり、感染しても8割は軽症、重症化するのは2割、死亡するのは2%といわれた「数字」そのままである。イタリア、スペイン、フランス、イギリスなどのヨーロッパでは死者は1割を超えている。あまりにもちがい過ぎる。死者「2%」という数字に合わせて、感染者、死者を統計しているような印象を持ってしまう。
 「数字(事実)」を隠そう、隠そうとしている感じがするのだ。

 「院内感染」が問題になっているが、しきりに問題になるもうひとつのテーマに「医療崩壊」がある。
 何度も書いているが、このことばに私は非常に疑問をもっている。病院の受け入れ能力を上回る患者が押し寄せて、病院が機能しなくなる。助けられる患者も助けられなくなるということを指して言うらしいのだが、それを、いま、なぜ言うのか、それが私にはわからない。
 たしかにそういうことは起きるかもしれない。
 しかし、新型コロナの感染者は「助けられる患者も助けられなくなる」という範疇(分類)には属さないのか。なぜ新型コロナの患者を「助けなければならない緊急の患者」ととらえないのか。8割が軽症だという。しかし2割は重症化し、ヨーロッパの例では1割が死んで行く。発症から死亡までの期間を私は追跡したわけではないが、2週間から、長くて4週間くらいだろう。「軽症者」が自宅療養していたら体調が急変して死亡したという例も何件も報告されている。(きのう話題になった清水建設の社員もそうだった。)こんなに急に死んでしまう病気というのは、ほかにあるのか。
 私の父は胃がんで死んだが、がんに気づいたのは末期であと3か月のいのちといわれた。手術をしたので6か月生きた。兄は肺がんで、あと3か月と言われたから約1年生きた。新型コロナに比べると、ずいぶん「のんびり」している。(もうひとりの兄は、事故で手術もできずに死んだ。母は、老衰して、長い時間をかけて死んだ。)
 胃がん、肺がん、事故、老衰と違い、この新型コロナは「感染症」である。他人にうつるのだ。病気を広げるのだ。「3密」が話題になっているが、特に「濃厚接触」しなくても、ドアのノブに触って感染が広がる、スーパーの商品パッケージにさわって感染が広がるということもあるのだ。どうやって感染するか、感染ルートが特定できないことが多いのだ。いまは、とくにそういう状態になっている。
 国民の「健康崩壊」がどんどん進み、人が次々に死んで行く。それを無視して「医療崩壊」と言ってもはじまらないだろう。感染を封じ込めるには、検査をすすめ、感染者を確実に「隔離」するしかない。さらに人が接触する機会を減らすために「外出しない」を徹底するしかない。
 だからこそ、

緊急宣言1週間/7都府県 休業要請(1面の見出し)

 ということも起きている。多くの人が、「休業補償」もどうなるかわからないのに、それに協力している。「経済崩壊(家計崩壊)」のなかで、それに協力している。いのちがいちばん大事だからだと思っているからだ。国民の多くは「健康崩壊(感染して死亡する)」か「経済崩壊(金がなくなり、食わずに死んでゆくか)」というところに追い込まれている。
 「健康崩壊(死ぬ)」さえ防げれば、いつかは「経済崩壊(貧乏)」から立ち直れるかもしれない。しかし死んでしまったら(健康崩壊したら)、経済を立て直そうにも立て直せないのだ。いのちは一回きりなのだ。
 医療現場が厳しいのは想像できるが、医療現場の人は、いま医療をしなければ新型コロナで死んでいく人がいるということを忘れないでほしい。新型コロナは、ほかの病気と違って感染者を増やしていくのだ。あっという間に感染者を増やし、あっという間に死んでいく。これを防ぐためにどうするか、それを考えないといけない。
 だいたいクルーズ船から2か月以上、医療現場の人は政府(安倍)に中国のように病院を建てろ、韓国のように徹底検査する方法を確立しろと要求してきたのか。人工呼吸器を増やせ、と要求してきたのか。そういうことをし、それでも対応できないというのなら、まだ「医療崩壊」を訴えるのはわからないでもないが、検査・治療システムを構築せずに、院内感染が起きた、「医療崩壊」が起きる、というのは、どうも素人から見ると納得できない。
 いつでもいちばんの弱者(知らずに感染し、突然症状が悪化して、治療を受けられずに死んでいく人)の立場から、ものを見ないといけないと思う。いちばんの弱者に危険を知らせる工夫が必要だと思う。
 いま、東京がどれだけ危険な状態なのか、国民一人一人が知れば、「自粛要請」などしなくても、人は仕事にいかないだろう。高校生が登校を拒否したように、会社員も「出社拒否」をするかもしれない。ストをするかもしれない。
 きょうは何人の感染がわかるのか(何人検査したのか)、そのうち経路がわかる人は何人いるのか(経路がわからない人が何人いるのか)、そういう情報は正確に公開されるべきである。そうしないと国民はどう行動していいか、わからない。
















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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総選挙に利用するな

2020-04-14 00:33:20 | 自民党憲法改正草案を読む
総選挙に利用するな
       自民党憲法改正草案を読む/番外336(情報の読み方)


 知人が「安倍は頭がおかしいんじゃないか」というコメントとともに送ってくれたリンク。NHKのニュースだ。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200413/k10012385201000.html?fbclid=IwAR2RqzWY82DkUnZjMOJZ4XDcvtLPTtfXDzuuDm2GBfopnXV2xossgRDvYbA

自民 役員会 「接触削減 議員は地元で徹底を」安倍首相

安倍総理大臣は、自民党の役員会で、「感染拡大防止のためには人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減する必要がある。7都府県に強い自粛要請を行うことで、ほかの県への人の流れが生まれるようなことがあってはならず、繁華街の接客を伴う飲食店の利用自粛を要請したところだ。それぞれの地元でも徹底するよう、議員一人一人の協力をお願いする」と呼びかけました。

私は、あっ、と叫んでしまった。NHKも見出しに取っているが「議員は地元で徹底を」とは何事だ。
この「議員」とは地方の議会議員ではない。「国会議員」だ。
つまり国会議員に「地元に帰って、顔を売れ」と言っているのだ。言い換えると、選挙運動をしろ、というのだ。
安倍の支持率が、コロナ対策をめぐって低迷している。このままでは、辞任に追い込まれる。それなら国会を解散して、総選挙だ、というのが安倍の狙いだ。
「自粛」呼びかけ、「家にいよう」だけなら、どこででもできる。「地元」に帰る必要はない。だいたい、地元に帰ってもコロナ感染拡大対策を実行するなら、「不要不急」の人との接触はできない。それなのに、「地元で」というのはおかしいだろう。
総選挙になっても、コロナ対策で「集会」はできない。もちろん街頭演説などできない。人が集まってくるのは感染拡大につながるからだ。ビラ配りもできない。ビラから感染する可能性がある。手渡しなど、もっての外だ。選挙運動ができない。それは新人が圧倒的に不利だということだ。現職の議員は顔も名前も知られている。新人は顔と名前を売らないといけない。
国民が安倍のコロナ対策が原因で死んで行く。医療現場も懸命にがんばっている。それを横目に、自分の地位だけを考えている。
いま選挙をすれば、どんなに安倍批判が強くても、自民党が圧勝する。野党や新人候補は絶対に勝てない。
こんな「わがまま」な戦略を考えたのはだれだ。安倍ではなく、今井か、和泉か。私は二人の区別がつかないが、布マスク配布を考えた人間に違いない。国民の「目先」だけを狙っている。

議員は「地元」などに帰るな。いまこそ、国会の力でコロナ対策を推し進めないといけないときだ。いまなら選挙に勝てる、というような利己主義的な考えで行動するな。安倍に言われても、そういう方法は間違っていると拒否しろ。
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