八重洋一郎「カナリヤ」、野沢啓「底の割れない話」(「イリプスⅡ」30、2020年03月10日発行)
八重洋一郎「カナリア」には「『ゲルニカ』(文・図版構成 アラン・セール 訳 松島京子)より」という註釈がついている。触発されて書いた作品なのだろう。
あれはカラスではない 真っ黒に
焼け焦げた
カナリヤ
カラスよりも大きく羽をツッパリ
バタバタバタバタバタ
クルクルクルクルクル
バタバタバタバタバタ 首を伸ばし
暗い空にむかって 垂直に
黄色い叫びをあげる
カナリヤ
音が強い。音の強さが、ことばを支えている。「ツッパリ」は「突っ張り」なのかもしれないが、何か意味を拒絶して、「音」そのものになっている。「意味」を突き破っている。これが、その後の音を動かしている。
長い詩で、途中は「意味(主張)」が強いのだが、最後にふたたびふたたび「音」が蘇る。
あれはカラスではない 理由(いわれ)なき理由を押しつけられて 真っ黒に
焼け焦げた
カナリヤ
カラスよりも大きく羽をツッパリ
バタバタバタバタバタ 気が狂い
クルクルクルクルクル 身も狂い
バタバタバタバタバタ すべて狂って 首を伸ばし
硝煙渦巻く
暗い空にむかって 垂直に
黄色い叫びをあげる
あれは叫びとなった
カナリヤ
あれはむせかえる叫びとなった生きとし生けるもの万物の
カナリヤ
カナリヤ カナリヤ
カナリヤ
書き出しと比較すると「狂う」という動詞が追加されていることがわかる。狂ったのは「理由なき理由を押しつけられ」たからだ。ここに強い批判がある。音の強さが、八重の声の強さにつながっている。
省略した途中を引用した方が「意味」はわかりやすくなると思うが、「意味」よりも、私は「声」そのものに八重の「肉体(思想)」を感じたので、あえて、その部分だけを引用しておく。
*
野沢啓「底の割れない話」は三木清のことばに触発された(?)作品。一行目に三木のことばが引用されている。
《表現とは底を割ることであり、しかも割られた底に何物もあるのではない。》
そこがわからない 底がわからない
わたしに底はあるか
そこを知りたい
底が割れた話ならいくらもある
底の知れた話だ
でも いまはちがう
不思議なことばだが
わかりたい
わからねばならない
なにもなくてもいい
むしろないほうがいいかもしれない
私は、三木のこのことばをおぼえていないが、とても「よくわかる」。まあ、「わかる」というのは「誤解」できる、自分なりに納得できるという意味だが。
書くというのは、自分の内部からことばにならないものをひっぱりだすということだと思う。ことばになっていないものを、ひっぱりだす。そこまで到達しないと「表現」にはならない。そして、そのときの「内部」というのは「底」のさらに「底」。底を割ったところだ。もちろん、そこには何もない。「ことば」はないのだ。その「ことば」ではないものが、底を割った瞬間に噴出してくる。それは自分の手には負えない。何か書いてしまうが、何を書いたかわからない。そういう瞬間が、私は「表現」だと思っている。
それは「論理」ではないから、「何物もあるのではない」としか言いようがないのだと思う。「わからない」ものに出会うことが、「表現」だと思う。だから、「そこがわからない」と「わからない」を書いた瞬間に、野沢の「表現」は終わっていると、私は思う。
それに比べると、私は「わかったつもり」になっているから「表現」にはたどりついていないことになる。
どうやったら、たどりつけるかなあ。
野沢の詩のつづきを読んでみる。
わたしは空洞だ
そこを音が鳴り響いてくれればいい
ex-pression
なにかが押し出される
外出する
でもどこへ
わたしのまわりに何がある
そこへむけて外出するのかさせるのか
だが何を
わたしの空洞は音楽だ
ひゅうひゅう
そのばあい世界はどこにあるのか
私は「ex-pression 」ということば、「押し出される」「外出する」ということばに、つまずく。
「わたしは空洞だ」と書くとき、野沢は、わたしの「内部は」空洞だ、と感じているのだと思う。その「内部」に対して「外」ということばが動き、「出す」ということばが動いていると思う。
「底」を割ったら、その「底の底」から何かが噴出してきて、外へ飛び出す。そういうことを「表現」と感じているのだと思う。
私も「噴出」ということばをつかったが、そのとき私が感じているのは、「外」ではない。あくまで「内部」に噴出してくる。「内部」が変わる。底がなくなって、「内部」でなくなる、という感じなのだが。何もなくなるのだ。「内部」であるという感じすらなくなる。
たぶん、この感覚の違いが、私と野沢の違いなのだと思う。
そして、私の「誤解」をそのまま書き続ければ、「ex-pression 」というような「外からのことば」で「底」を割るというところが、たぶん三木のことばが「わからない」ということにつながっているのだと感じる。外からのことばを借りてくると、ことばが整ってしまう。そこのことばには既成の「意味」があって、それが「底」をふさいでしまうのだ。割ったつもりが、新しい容器に変わってしまうのだ。「底を割る」というのは、ことばが成立しなくなることだ。
野沢は「そのばあい世界はどこにあるのか」を最終連で言い直している。その四行を、私はあえて引用しない。引用すると、私の考えたことをもう一度説明し、整えることになる。それは「底を割る」ということではなく、「表現にみせかける」ということになると思う。私は、そんなふうにして「わかりたくない」。
だから、このまま放置しておく。
そして、さらに違うことを書く。なんだか、わけのわからないことを書く。
そのとき、ことばは、言うのだ。「外にはことばがあふれている。確立されたことばだ。多くのことばは、その外にあることばを利用してことばの世界を広げて行く。どれだけ外のことばを、新しいことばを取り込むことができるかを競っている。」
それから、間を置いて、こうつづける。
「私は、ことばの内部から、ことばにならないものを探したいのだ。それは決して外へとは広がらない。それは取り込むではなく、むしろ取り出すである。しかも、外へではなく、内部へ取り出すのである。」
このことばの言ってることは矛盾している。「内部」が二重の意味につかわれている。だが、それは置き換えてはならないことばなのだ。
*
最後に付け加えておくと、八重の場合「羽をツッパリ」の「ツッパリ」が八重の「底」を割ったのだと思う。そして、「内部」が「内部」ではなくなって動いている。もちろん、それは「外部」でもない。野沢のことばをかりれば「世界」だ。
*
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