詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

布マスク配布

2020-04-01 23:19:27 | 自民党憲法改正草案を読む
布マスク配布
       自民党憲法改正草案を読む/番外330(情報の読み方)


NHKのニュースサイトに「1住所当たり2枚の布マスクを配布の方針 安倍首相」という信じられないニュースがあった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200401/k10012362911000.html

この2枚のマスクは、しかも
「再来週以降、感染者数の多い都道府県から順次、配布するとしています」という。
これは裏返しに言えば、
① 新型コロナ感染は2週間以上つづく
② 2週間は国民にはマスクは行き渡らない
を意味する。
いままで安倍は何をしてきたのか。
「この2週間が瀬戸際」とか「正念場」とか言い続けて来ただけで何も有効なことをしていない。
「やらせ記者会見」で「3月にはマスク6億枚供給」と言いながら、それすら実行できず、布マスク「1住所2枚」でごまかそうとしている。小学校が中学校の学級会で「布マスクを手作りして、必要な施設におくろう。ひとり一枚つくれば近くの施設の老人分は確保できる」と決めて実行する方がはるかに「親身」というものだろう。
小中学生に劣ると言えば、小中学生がばかにするなと怒るだろう。

こんなばかなことを「政府方針」として発表するのではなく、もし新型コロナ感染者がふえるということが予想されているのなら、
① 隔離病棟をどうするか。病室をどう確保するか。
② 受診にやってくる人をどうやって区分けし、安全な検診体制を確立する
ということを、「期限」を明示して明らかにすべきだろう。

で、こういう「子供だましの対応」を安倍は、どう「記録」として残すのか。
新型コロナ対策をどう進めたかという「文書」をつくるとき、「発生が問題化してから2か月以上たって、布マスクを国民に配布することを決め、その2週間後に配布した」と明記するのか。
そういうことを、世界が新型コロナ対策を「検証」するとき、報告するのか。

いままで安倍がとってきた「政策」は「検証」の場で、「検証材料」として役立つのか。
クルーズ船の問題が起きたとき、安倍はどうした。
① どういう指示を、どこに出し、それはどう実行されたか。
② そのとき、その指示・実行は、どのような効果を上げたか。
ということをきちんと「記録」しているか。それともクルーズ船の乗客・乗員が全員下船した段階でクルーズ船の対応は終わったから、そういう「記録」はすべて廃棄して、存在しないのか。
新型コロナ問題が終息したとき、絶対に、世界的な「検証」がはじまる。
そこで安倍は、クルーズ船問題を、どう報告するのか。
さらにその後の対応と効果をどう報告するのか。
安倍は、クルーズ船の初動でミスをした。そしてそのミスの中には全員の検査をしなかったために、感染者が「少ない」という誤った情報が含まれ、その「少なさ」が世界に誤解を与えたことが問題になるだろう。
初動防疫に失敗しても、感染はそんなに拡大しない、という誤解の「余地」を世界に与えてしまったのだ。
もし「正確な感染者(死者)」を把握していたら、世界は危険性に気づき、防疫体制を強化したかもしれない。
絶対にそういう批判が出てくるはずである。
中国が懸命に「封じ込め対策」をやっているときに、日本は「半分野放し対策」をやり、正確な「感染者数」を把握することを怠り、世界に誤解を与えた。
この罪は非常に重い。

そして、いま、安倍はそういう「重大ミス」をごまかすために「1住所当たり2枚の布マスクを配布」ということをしようとしている。
マスクがほんとうに有効なら、いつ、どこの店に何枚入荷するのか、そういう「供給」の目途を正確に知らせる方が大切だろう。それが国民にマスクを行き渡らせる方法だろう。
「洗ってつかえるから、何枚もいらない」というのなら、安倍や、国会議員、公務員が率先して「布マスク」をつかえばいいだろう。
国民にとどくのは2週間先。順次、というのだから、全員に行き渡るのはいつか、さっぱりわからない。これも、まったくおかしな話である。いつ届くかわからない布マスクを待ちながら、国民は新型コロナに感染し、死んで行くのだ。





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伊藤悠子「海面(うみづら)」

2020-04-01 12:37:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海面(うみづら)」(「左庭」44、2020年03月12日発行)

 伊藤悠子「海面(うみづら)」の全行。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

左舷から船尾をまわる
右舷にうつる
人生が変わっている戻っている
だれのものか苦労ばかりの来し方が強風になって吹きつける
ここは足早に行くか
うつむくか
また光のある方へ移動するだけだ
船首にたどりつくと遠くに
薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ
行く末をその背にたくせば
ふりにしこの身を海は洗うか

 伊藤(と仮定して読み始める)は船に乗っている。船は海原のただなか。海しかみえない。いや、船そのものが見える。その船上を左舷から船尾へ、船尾から右舷へ、そして船首へとぐるりと巡る。
 そのときに見たもの、そのときに感じたことを書いている。思い出も、当然そこに顔をのぞかせる。「海」は「人生の舞台」の比喩かもしれない。
 苦労を「だれのものか」と書いているが、これは自分の苦労だけれど、すでに「だれのものか」と言えるくらい客観的になっている、ということだろう。どんな苦労も、思い出になってしまえば、それを語ることができる。実際に苦労しているときは語れない。「ここは足早に行くか/うつむくか/また光のある方へ移動するだけだ」と思い、ひたすら動くだけだ。
 そのあとが、とても劇的で、印象的だ。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた

 少年の姿を伊藤は、どこに見たのか。前の行の「遠く」とは、どこか。船首の先端か。岸か。岸と想定するのが自然だが、どうして「薔薇の垣根を越えてやってきた」とわかるのか。薔薇の垣根を越えるところを見たのか。見てはいない。でも、それが「わかる」。「過去」がわかる。
 なぜ劇的(演劇的)か。
 劇とは、突然あらわれる「過去」なのだ。人にはだれでも「過去」があるが、その「過去」を気にして他人と向き合うことはない。「他人の過去」など知らないまま、「他人」と向き合う。しかし、向き合った瞬間に「過去」を感じるときがある。「過去」なのに「いま」として、そこにあらわれているように見えるときがある。
 演劇では、登場人物はいつでも突然舞台に登場する。その人物の「過去」をだれも知らない。しかし、知らないはずなのに「過去」を感じさせる役者がいる。これを存在感がある役者という。そして、そのとき「知らないはずの過去」はいつかどこかで「自分が経験した過去」につながっている。何か自分の知っている「過去」を役者の肉体を通じて感じてしまう。そういうことがある。
 いま起きているのは、それだ。
 少年が「薔薇の垣根を越えてやってきた」と「わかる」のは、伊藤に「薔薇の垣根を越えて」海を見に行った(海を見るために岸へやってきた)記憶があるからだ。少年と書かれているが、それは少年ではなく、伊藤自身なのだ。
 「苦労」が「だれのものか」わからなくなったのとは正反対に、「遠くに見える少年」は「伊藤そのもの」だと「わかる」。記憶(体験)が不思議な形で交錯する。

一人で海を見ている
とても一人だ

 「一人で海を見ている」は船上からみた少年の姿であり、同時に「一人で海を見ていた」伊藤の記憶である。ふたりは重なる。融合する。
 だから「とても一人だ」と言うことができる。伊藤は少年になって「一人きりだ」と感じる。「とても」という「主観」をさらに付け加える。「主観(いつの感情)」が噴出してきてしまうのだ。
 船上にいて、伊藤は「一人で海を見ている」。そして「とても一人だ」と感じている。それが「遠い」日の伊藤に重なる。少年のように、あの日、伊藤は「一人で海を見ている」、あの日「とても一人だ」と感じたことを思い出す。「いま」として。
 このときの、私が挿入した「少年のように」はいろいろな意味がある。その一つは、あの日、伊藤は自分を「少女」として海をみつめたのではない。だれか、自分ではない人間になって海をみつめたのだ。「だれかのもの」の「だれか」が、そこには含まれている。客観的になろうとする「意志」が伊藤を「少年」にさせるのだ。
 伊藤が「遠くに」見るのは「少年」でなければならない。「少女」であってはならない。「少年」だからこそ、伊藤は「少年」と一体になることができる。

 ここには「うそ」がある。その「うそ」とは「虚構」のことである。「虚構」をとおして、ことばになりにくいものがことばになる。ことばとはもともと「虚構(うそ)である。書き出しを読み直すだけでいい。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

 海は「顔」ではない。「顔」は比喩。比喩とはうそであり、虚構だ。この「わざと」動き始めることばが、虚構(うそ)を突き破って「事実/真実」をつかむとき、それを詩と呼ぶ。それが、先の三行に結晶している。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ








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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(18 )

2020-04-01 11:14:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ぼくを愛する女は

どんな小さな器の中でもぼくをとらえ
どんな大洋の中でも目ざとくぼくを発見する

 「未収録詩篇」にはことばの動きがつかみにくいものが多い。嵯峨自身の肉体のなかでことばが整理されていないのかもしれない。未整理の部分が多いのは、無意識が無意識のまま動いているということだろう。
 「小さな器」と「大洋(大きな海、器には入りきれないもの)」が対比されたあと、「とらえる」が「発見する」と言い直される。その運動のなかに「目ざとく」ということばが入ってきている。
 この「目ざとく」がこの詩のポイントだ。私の印象では「目ざとく(目ざとい)」には何か批判的なものが感じられる。愛してくれる女を、「ぼく」はそれほど愛していないのかもしれない。





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