詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「にぎりめしのはなし」、谷川俊太郎「ほん」

2020-04-24 18:02:07 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「にぎりめしのはなし」、谷川俊太郎「ほん」(「森羅」22、2020年05月09日発行)

 粕谷栄市「にぎりめしのはなし」は、いつものように「終わらない」。と、いうか、同じことを繰りかえしている。

 毎日、苦しいことばかりあって、悩みぬいたあげく、
弱り果てて、ある日、とうとう、私は、死んでしまった。
 死んだ私については、一切が、それで終わりだ。この
ことは、それで、何もかも、決着がついたはずだった。
 だが、そうはならなかった。もちろん、誰も、それを
信じることはなかったが、面倒なことに、死んだ私が、
そこに出てきて、そうではないといいはじめた。

 なぜ、終わらないか。どんなことでも「語る」ことができるからだ。死んだら人間は何も語らないが、「ことば」は「死んだ人間が語る」と語ることができる。「ことば」に語ることができないことはないのだ。
 しかし。
 何でも語ることができるはずの「ことば」なのに、ひとつ「苦手」なことがある。自分の言いたいことを、言いたいように、つまり相手に納得してもらうように語るということはむずかしい。
 なぜか。
 「相手」がいるからだ。ひとはそれぞれ「ことば」に対する「自己流の意味」をもっている。それが重なり合わないと、何を言っているかわからない、ということが起きる。
 さらに、「意味」というものは、ある点では「でたらめ」であって、どんなふうに書いても「意味」になる。つまり「意味」から逃れることはできない。だからこそ、「でたらめ」が書けるということである。「でたらめ」を書いても「意味」として受け止められてしまうということも起きる。予期しない「誤解」だ。
 だから(と書くと、飛躍があるか)……。
 「意味」が詩を支えている、「意味」が読者を詩の世界へ引っ張っていく、というのは、間違っている。詩を支えているのは「意味」ではなくて、「意味」にならないものだ。

 では、何か。

 粕谷の場合、「リズム」である。読点の多い文体である。

 毎日、苦しいことばかりあって、悩みぬいたあげく、
弱り果てて、ある日、とうとう、私は、死んでしまった。

 「読点」の区切り、そこに閉じこめられた「ことば」は、それだけでは「わからない」ものが何一つない。「わかる」ことばを区切りながら、次の「わかる」ことばへとつなげていく。この「リズム」が大切なのだ。
 「リズム」を守りながら、「ことば」を少しずつ変えていく。そうすると「ことば」の変化が(意味の変化)が「リズム」によって統一されているように感じられ、「意味の飛躍」が消えていく。「意味」は常識的に見れば「非現実」なのだが、「リズム」が現実的なので、「意味」を現実的と錯覚してしまう。「意味」が連続していると感じてしまう。「リズム」しか連続していないのに、である。「持続するリズム」と言い得ることができるかもしれない。

 で。

 とても奇妙なことなのだが、この「持続するリズム」は単なるリズムを超えて、「持続するリズム」という「新しいリズム」にもなるのだ。読点で「ばらばら」にされてるはずなのに、「持続」がリズムになって、ことばをずらしていく。「意味」をずらしていく。この詩の場合、最後の部分の前に一行空きがあって、そこから「リズム」が微妙に変化する。

 だが、そうではなかった。もう一つ、その後のことが
あるのだ。その日、路地裏の空き地で、その死んだ私が、
木箱に腰かけて、にぎりめしを食っていたという。
 何だか、ばかに淋しそうだったらしい。根も葉もない
でたらめの世間で死んだ私のことだ。かなしいが、どう
でもいいことだ。
 しかし、誰もが、最後は、死ぬからであろうか。なぜ
か、自分のことのように、それが、気になって、誰もが、
いつまでも、そのにぎりめしのことが忘れられないとい
うはなしだ。

 「にぎりめし」という具体的な「ことば」が、強い粘着力になって「持続」に加担している。それまでの「ことば(意味)」を分断するはずの「にぎりめし」が接着剤になって、「さびしい」「かなしい」を引き寄せる。
 そこが、とてもおもしろかった。



 谷川俊太郎「ほん」の三連目。

はじめてかいた
じは
ねとこ
ねこだった
かたちがねこみたいで

 へーっ、と思った。私は、そんなふうに「じ(ひらがな)」を感じたことがない。たしかに「じ」に形はあるが、わたしはそれを形と感じたことがなかった。
 これはたとえばアラビア文字やベトナムの不思議な文字、ハングルでも同じ。私はそれらを読めないが、それは「形」が識別できないから読めないのではなく、音が聞こえないから、その結果として「形」が見えない。
 単純に、驚いた。驚きで、その部分だけが印象に残っている。
 「ほん(本)」も谷川にとっては「かたち」なんだろうなあ。
 私にとっては、本は、「音」がつまった何かである。だからというと変だけれど、さまざまな本の形というのが苦手。いわゆる「全集本」で「かたち(文字の大きさ)」を気にせずに読むのが好きだなあ。
 また、脱線してしまった。






*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(39)

2020-04-24 15:38:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (だれもいないとき)

泪はすがたをあらわす

 この「泪」は、だれの涙か。ふつうは嵯峨の涙(筆者の涙)を想像する。しかし、嵯峨は、こう書く。

だれがながしたのか泪は小さな玉を結ぶ
それでも一言が生まれるにはまだほど遠い

 「他人」の涙だ。だれかが泣く。しかし、この「だれが」は複雑である。ほかの「だれか」ではなく自分であるけれど、それを「だれが」と客観化している。
 「一言」を「生む」のは嵯峨にほかならないからだ。
 詩のなかでは「主客」は融合してしまうのだ。



*

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新型コロナ転換点

2020-04-24 09:31:21 | 自民党憲法改正草案を読む
新型コロナ転換点
       自民党憲法改正草案を読む/番外341(情報の読み方)

 2020年04月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面。新型コロナをめぐるニュース。

軽症者はホテル療養/厚労省通知 自宅併用から転換

 「やっと」というか、病気になったら入院・治療があたりまえ、感染症なら「隔離病棟」で治療するのが当然だろう。病院建設が間にあわないから「ホテル」を利用する。おそすぎる対応だ。中国が病院を建設したとき、日本もすぐに病院を建設すべきだった。韓国が検査を徹底したとき、日本も検査を徹底すべきだった。隣国に「お手本」があるのに、3か月近くも「独自路線」にこだわった。
 その「独自路線」の総括(?)が一面のトップ。

感染者集団125か所/本紙調査 31都道府県2698人/医療機関41 福祉施設27

 「クラスター」を追跡することで、感染者の封じ込めを狙った。その「結果」、判明した「クラスター」が、この数字。読売新聞は、記事の前文で「各地に広がるクラスター追跡の必要性があらためて浮き彫りになった」と安倍の手法の「正当性」の証のように書いているが、この評価はどうか。
 全国の感染者数は24日0時現在「1万2281人」(26面の一覧表)である。「2698人」は四分の一にもならないではないか。これは、安倍の「追跡作戦/封じ込め作戦」が大失敗であったという証拠である。
 視点を変えて、客観的に事実を語る必要がある。
 クラスターの追跡が無駄とは言わないが、それよりも大切なのは、クラスターにとらわれずに、検査を徹底することである。
 クラスター追跡は、初期の初期には意味があっても、「市中感染」がはじまってしまえば、ほとんど無意味だ。
 重要なのは、見出しにとっていない次の部分だ。

沖縄県では、累計感染者は130人にのぼるが、感染者集団としては、沖縄市の会議室に関係する7人のみ。東京都も、大規模な集団が複数確認されてはいるものの、3000人以上いる累計感染者のうち感染者集団に含まれる人は約500人にとどまり、感染経路不明の人も多い。

 「感染経路不明の人も多い」ではなく、「感染経路不明の人が多い」のだ。特定されている人が少ない。「結論」を変えてはいけない。感染経路(感染集団)にとらわれずに、「市中感染」そのものを把握しないといけない。
 「集団感染(クラスター)」にこだわるから、自宅療養中に容体が急変、死亡するという事故も起きる。「集団感染」であろうが「個別感染」であろうが、人は重症化もすれば、死んでしまうこともある。自宅療養を強制され、治療を受けることもできず、そこから感染が拡大していくことが増えるのだ。
 毎日新聞のウェブ記事(04月23日19時28分更新)によれば

自宅療養者数、病院外の死者数「現時点で把握せず」官房長官認める

 ということだが、いままで発表されてきた「感染者、死者」は一部にすぎないのだ。クルーズ船のときから「現時点」まで、すでに3か月近くたつ。3か月近くも、安倍政権は「クラスター」は追跡したが、「市中感染」は放置したということだ。
 「数字」が公表されていないだけで、「公表できない数字」はとんでもない数に違いない。多くの「責任者」は、その「実数」を知っているのだろう。あるいは「実数」を推測できるだけの「資料」を持っているのだろう。
 だからこそ、小池・東京都知事は、こう言うのだ。

買い物「3日に1回に」

 だれもが「市中感染」を広げる。だれもが「市中感染」させられてしまうという状況なのだ。

 来園者の密集状態が懸念されていた都立全82公園については、利用自粛を要請した上で駐車場や遊具施設を閉鎖する。/小池知事は会見で、「本当に大事な2週間になる。とにかく、家にいてください」と訴えた。

 家にいないと感染してしまう(家にいても、すでに感染してしまっていて、家族に感染を広げるかもしれない)という状況になっているのだ。
 抽象的な言い方ではなく、「私が把握している数字では、感染者は〇人、死亡者は〇人。死にたくなかったら家にいなさい。必要食品は、都が調査し、個別に配達するから、家から出るな」と言わない限り、事態は改善しない。「正確な情報」を隠していては、何もわからない。国民はどう行動していいかわからない。

 しかしなあ。
 このコロナ政策の「大転換点」(クラスター追跡では対応しきれなくなった)というときに、発表が加藤厚労相や菅官房長官まかせというのは、変じゃないか。小池まかせ、というのは変じゃないか。
 「軽症者ホテル療養」に関する記事(26面)には、こう書いてある。

都は、国の方針転換に先駆けて軽症者をホテルに一本化する方針を決めている。と医師会の幹部は「医師らが常駐するホテルで療養する利点は大きい」と方針転換を歓迎する。

 「方針転換」と明確に読売新聞は「断定」している。いままでやってきたことは、「非常事態宣言」を含めて、クルーズ船の対応の「延長(追認)」であって「方針転換」ではない。「自粛(家からでないようにする)」は「クルーズ船から出ない」の拡大版にすぎない。
 「数字」を安倍の都合のいいように操作するという「方針」も大転換し、「事実をすべて公表する」。そうしない限り、何も改善しない。
 「8割は軽症者」。自然に回復する。「自己管理」に任せるでは解決しない。「隔離」し、急変に備える。ヨーロッパの多くの国では、感染したら1割以上が死んでいる。初期に報道されていた「事実」とは違うことが起きている。
 感染者は急拡大している。ひとりでも死亡させてはいけない、とやっと、「現場に近い人たち」はそれを語らなければいけない気づいた。しかし、それを明確に語る人がいない。安倍は、ひたすら「雲隠れ」を決め込んでいる。
 ほんとうに、ひどい。むごい。私は、怒りを語ることばを知らない。

 安倍の「情報隠し」はいままでも何度も繰り返されてきたが、今回の「情報隠し」では、国民の多くが死んでいくのだ。安倍の「未必の故意」が問われる。











#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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いままで何を

2020-04-24 08:07:25 | 自民党憲法改正草案を読む
いままで何を
       自民党憲法改正草案を読む/番外341(情報の読み方)


https://mainichi.jp/articles/20200423/k00/00m/040/182000c?fbclid=IwAR3yJjDGvfDeNjIMao5AEqeleOVOPwej0rjMMlKWoH7Odr637SzoIR-tC6U

自宅療養者数、病院外の死者数「現時点で把握せず」官房長官認める
↑↑↑↑
いままで「公表」されている数字はいったい何なのか。
それにしても。
「現時点で」とは、まったく国民をばかにしている。
ある出来事が発生したときなら「現時点」は通用するが、クルーズ船からすでに2か月以上たっている。
「現時点」まで、何をしていたのか。
うそをつき続けたということではないか。
慶応大病院での、別の病気で入院・手術予定患者の6パーセントが、新型コロナに感染していたという数字を基本にすれば、日本人の6%は感染しているということになる。

https://johosokuhou.com/2020/04/23/29962/?fbclid=IwAR0socwmcZ2RiGVIE1Jlp7082zd2Igu_sTxK-sL50jLwVuRmdFMGGBAvSno

「4月23日に加藤厚生労働大臣が新型コロナウイルスの感染者について、軽症者はホテルなどの宿泊施設での療養を基本にするとして、自宅療養は推奨しないと表明しました。」
↑↑↑↑
いまごろ、やっと、がここにも。
クルーズ船のとき、中国をみならって隔離病棟(病床)を建設していれば、状況はずいぶん違っていたのではないか。
韓国をみならって検査を徹底していれば、状況は違っていたはずだ。
さらに「布マスク」を配るよりも、その金で病棟を造った方がどれだけ多くのひとが助かるだろう。
「自宅で待機(静養)」とか「マスクで自己防衛」よりも、「感染しても大丈夫。病院で手当てするよ」と言われた方が安心するだろう。
コロナ感染が終息したら、絶対に、安倍を相手取った賠償訴訟が起きる。
安倍の「未必の故意」が問われる。
コロナウィルスで死んでいく例を、私たちは感染当初から知っている。安倍は「知らなかった」とは言えない。知っているのに、対応をとらなかったばかりか、検査をさせないという方法をとった。
「未必の故意」ではなく、明白な「殺人」行為ということになるかもしれない。

(facebookから、再掲載)




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